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旅立ちの準備と、胸に秘めた約束

 翌朝、エレナ・ヴァレンティアは青い帳面を開き、昨日書いた最初の一文を読み返していた。


『少女は、見たことのない景色を探すために、故郷の門をくぐった』


 何度読んでも、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。


 自分の手で物語を始めたのだ。


 まだ一行しか書けていない。それでも、白いページを前にして何もできなかった昨日までとは違う。


「……続きを書くのが、楽しみになってきたわ」


 エレナは微笑み、帳面の隣に置いていた紙を手に取った。


 そこには、昨日ルシアンと話し合った旅先の候補が並んでいる。


 海の見える街。

 山あいにある古い街。

 珍しい花が咲く庭園。

 そして、隣国にある大きな図書館。


 眺めているだけで、行ってみたい場所が増えてしまいそうだった。


 もちろん、すぐに旅立てるわけではない。


 ルシアンには王宮での仕事があるし、エレナにも読書室の仕事がある。出発するなら、日程や移動手段、滞在先についても考えなければならない。


 けれど、今回は違った。


 いつか行けたらいいと願うだけではなく、実際に実現するための準備を始めようとしている。


 エレナは紙の端に、小さく文字を書き加えた。


『旅の目的――二人で、まだ知らないものを見つけること』


 それを見て、彼女は満足そうに頷いた。


 昼過ぎ、読書室では子供たちが空の国の物語に夢中になっていた。


「エレナお姉さん! 歌う花の庭の先に、新しい街を作ったんだ!」


 竜の物語が大好きな男の子が、大きな紙を広げる。


 そこには、雲の上に建てられた小さな街が描かれていた。屋根は虹色で、家々の間には細い水路が流れている。水路の上を、小さな船が浮かんでいた。


「まあ、素敵な街ね。ここには誰が住んでいるの?」


「空を飛べる人たち!」


「みんな飛べるの?」


「うん! でも、飛ぶのが苦手な人もいるんだよ」


 エレナは思わず笑った。


「そうなのね。飛べるからといって、みんなが得意なわけではないのね」


「そうだよ。だから、竜と小鳥が来たら、街の人たちに飛び方を教えてもらうんだ!」


 子供たちは次々に意見を出し合い、街の様子を描き足していった。


 エレナはその光景を見ながら、ふと自分の旅の計画を思い出した。


 自分が知らない土地へ行けば、そこにも自分の知らない暮らしがあるのだろう。


 同じように見える街でも、人々の習慣や考え方は違うかもしれない。


 そして、その違いを知ることで、今まで気づかなかったものが見えてくるかもしれない。


「……私も、もっといろいろな場所を見てみたいわ」


 思わず口にした言葉に、隣で絵を整理していたミレイユ・ローゼンが顔を上げた。


「エレナ、何か言った?」


「え? ああ、ううん。少し考え事をしていたの」


「もしかして、ルシアン様との旅行のこと?」


 エレナは目を見開いた。


「ど、どうして分かったの?」


「だって、最近のあなた、旅の話をするときはとても楽しそうなんだもの」


 ミレイユはにっこりと笑った。


「それに、昨日も帰り際にルシアン様と一緒に歩いていたでしょう?」


「……見ていたの?」


「少しだけね。二人とも、とても幸せそうだったわ」


 エレナの頬が赤くなる。


「もう、ミレイユったら……」


「ふふっ。いいじゃない。楽しみなことがあるのは素敵なことよ」


 ミレイユはそう言って、壁に飾られた子供たちの絵を見上げた。


「私も、いつか遠くへ行ってみたいわね」


「ミレイユも?」


「ええ。知らない街を歩いて、珍しいものを見て、おいしいものを食べるの!」


 そこで彼女は、少しだけ考え込んだ。


「……それから、旅先で何かあったとき、頼りになる人が一緒なら、もっと楽しいかもしれないわね」


 エレナは、そっと彼女の横顔を見た。


「例えば、カイルとか?」


「なっ……!」


 ミレイユの顔が、一瞬で赤くなった。


「ど、どうしてそこでカイルの名前が出てくるのよ!」


「だって、最近はよく一緒にいるでしょう?」


「それは、読書室の手伝いをしてくれているからで……!」


「ええ。そうね」


 エレナは、わざと穏やかに頷いた。


 その態度が、かえってミレイユを困らせた。


「……エレナ、今、絶対に何か考えているでしょう?」


「何も考えていないわ」


「嘘よ!」


 二人は顔を見合わせ、とうとう笑い出した。


 そのとき、入口から聞き慣れた声がした。


「ミレイユ、頼まれていたものを持ってきた」


 カイル・フェルディナだった。


 彼の手には、布で包まれた小さな箱がある。


「カイル! それは何?」


「子供たちが使う木製の駒だ。新しく、鳥と花を作ってみた」


 箱を開けると、色を塗られた小さな駒が並んでいた。


 王冠をかぶった鳥はもちろん、歌う花や、雲の形をしたものまである。


「まあ、こんなにたくさん!」


 ミレイユは嬉しそうに箱を覗き込んだ。


「子供たち、きっと喜ぶわ!」


「そうならよかった」


 カイルは淡々と答えた。


 ミレイユは鳥の駒を一つ手に取り、光にかざした。


「……ねえ、カイル」


「何だ?」


「あなた、忙しいのに、どうしてここまでしてくれるの?」


 カイルは少し考えてから答えた。


「子供たちが楽しみにしているからだ。それに、君もこの物語を大切にしているだろう?」


 ミレイユの指が止まった。


「……私も?」


「ああ。君が楽しそうに話していたから、できることがあれば手伝いたいと思った」


 カイルは、それが特別なことではないかのように言った。


 けれど、ミレイユには、その言葉がすぐに返せないほど嬉しかった。


 自分が楽しそうにしていたから。


 自分が大切にしているものだから。


 彼は、それを覚えていてくれたのだ。


「……ありがとう」


 今度の声は、いつものように弾んではいなかった。


 静かで、少しだけ照れくさそうだった。


 カイルは彼女の表情を見て、わずかに目を細めた。


「どういたしまして」


 それ以上、何も尋ねなかった。


 ミレイユは鳥の駒をそっと箱に戻した。


 まだ、自分の気持ちをどう伝えればいいのか分からない。


 けれど、彼が何気なく差し出してくれる優しさを、これからも大切にしたいと思った。


 夕方、子供たちが帰ったあと、エレナは読書室の帳簿を確認していた。


 今日の利用者数を記録し、返却された本を棚に戻す。


 少しずつ、ここでの仕事にも慣れてきた。


 それでも、もっと改善できることはある。


 新しい本を増やすこと。

 子供たちが自分の考えを書き留められるよう、紙や筆記具を用意すること。

 そして、いつか自分の物語を、この場所で読んでもらうこと。


 考えることは尽きなかった。


「エレナ、そろそろ帰ろうか」


 入口からルシアンが声をかけた。


「ええ。今、片づけるわ」


 エレナは帳簿を閉じ、鞄を手に取った。


 二人は読書室を出て、夕暮れの街を歩き始めた。


「今日はどうだった?」


 ルシアンが尋ねる。


「とても楽しかったわ。子供たちが、新しい街を考えていたの」


「空の国の物語かな?」


「ええ。今度は、雲の上に街を作るんですって」


「それは面白そうだね」


 エレナは微笑んだ。


「私も、旅に出たら、あんなふうに新しい場所を考えてみたいわ。実際に見たものを、帳面に描いたり、文章にしたりして」


「いい考えだね」


「でも、絵はあまり得意ではないのよ?」


「なら、俺が描こうか」


 エレナは驚いて彼を見上げた。


「ルシアン、絵が描けるの?」


「上手かどうかは分からないけれど、地図や簡単な風景ならね」


「知らなかったわ!」


「君だって、俺が知らないことをたくさん持っているだろう?」


 その言葉に、エレナは微笑んだ。


「そうね。お互いに、まだ知らないことがたくさんあるわね」


「ああ。だからこそ、これからも知っていきたいと思うんだ」


 ルシアンは、そっと彼女の手を取った。


「君が見つけたものを教えてもらうだけじゃなく、俺が見つけたものも君に伝えたい。そうして二人で、旅の記録を作れたら素敵だと思わないかい?」


 エレナは、彼の言葉を胸の中で繰り返した。


 二人で作る、旅の記録。


 自分が見たものだけではなく、彼が見つけたものも残していく。


 同じ景色を見ても、感じることは違うかもしれない。


 けれど、その違いを知ることが、二人で過ごす意味になるのだろう。


「……素敵だと思うわ」


 エレナは微笑んだ。


「旅に出るときは、少し大きめの帳面を持っていかなくちゃいけないわね」


「それなら、二人で選びに行こう」


「ええ。約束よ」


 ルシアンは彼女の手を握り直した。


 その温もりを感じながら、エレナは思った。


 旅立つ日は、まだ決まっていない。


 行き先も、どれだけの日数が必要なのかも、これから話し合わなければならない。


 けれど、夢は少しずつ形になっている。


 ただ願うだけだった未来が、今は二人で考える計画になり始めていた。


 その夜、エレナは青い帳面を開いた。


 今日の出来事を記したあと、旅の計画についても書き加える。


『いつか、ルシアンと一緒に旅へ出る。そのときは、二人で同じ帳面に記録を残したい』


 そこで、彼女はペンを止めた。


 少し考えてから、最後に一文を書いた。


『私が見つけたものと、彼が見つけたもの。その違いも、きっと大切な思い出になる』


 エレナは帳面を閉じ、窓の外を見つめた。


 夜空には星が輝いている。


 まだ知らない街にも、同じ星が見えるのだろうか。


 その下で、ルシアンと並んで歩く自分を想像すると、自然と笑みがこぼれた。


 いつか必ず、実現させよう。


 自分の夢も、彼と一緒に過ごしたいという願いも、どちらも大切にしながら。


 エレナは、明日もまた一歩ずつ進んでいこうと心に決めた。

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