あなたの隣で、見つけた小さな勇気
朝の読書室には、いつもより少し早く人影があった。
ミレイユ・ローゼンは窓際の机に腰を下ろし、子供たちが描いた絵を一枚ずつ整理していた。
空の国を旅する竜と小鳥。
雲の花が咲く庭。
お菓子を作る王様。
そして、どこへ行っても姿を現す、王冠をかぶった鳥。
「……本当に、この鳥は人気者ね」
思わず笑みがこぼれる。
最初は、ちょっとした冗談のつもりだった。
ところが、子供たちが面白がって物語に加え、今では鳥が登場しない場面を探すほうが難しくなっている。
ミレイユは、鳥の絵を壁に貼ろうとして手を伸ばした。
そのとき、背後から声がした。
「それは、ここに貼るのか?」
「きゃっ!」
驚いて振り返ると、カイル・フェルディナが立っていた。
「カイル! びっくりさせないでちょうだい!」
「すまない。声をかけたつもりだったんだが」
「もう……いつからそこにいたの?」
「今来たところだ。子供たちが使う木製の駒を届けに来た」
カイルは手に持っていた箱を机に置いた。
中には、竜や小鳥、船、雲の形をした駒がきれいに並んでいる。
その中に、王冠をかぶった鳥の駒まであった。
ミレイユは目を輝かせた。
「まあ! これも作ってくれたの?」
「ああ。前に君が、この鳥は物語に欠かせないと言っていただろう」
「覚えていてくれたのね……」
思わず口にした言葉に、ミレイユは自分で驚いた。
カイルは当然のことのように頷いた。
「子供たちが大切にしているものだからな。必要だと思った」
それだけだった。
特別な言葉でも、気取った態度でもない。
けれど、ミレイユの胸には、じんわりと温かいものが広がっていた。
自分が何気なく話したことを覚えていてくれた。
自分だけでなく、子供たちが楽しみにしているものまで、きちんと考えてくれた。
そんなところが、嬉しかった。
「……ありがとう、カイル」
「ああ。役に立つならよかった」
彼は箱の中身を確かめると、読書室の棚に駒を並べ始めた。
ミレイユはその横顔を見つめた。
最近、彼の何気ない行動が、以前よりも心に残る。
真面目なところ。
頼まれたことを決して途中で投げ出さないところ。
そして、誰かが困っていれば、言葉より先に手を差し伸べるところ。
以前から知っていたはずなのに、どうして今になって、こんなにも気になるのだろう。
「……変なの」
小さく呟いた声は、カイルには届かなかった。
やがて、子供たちが次々にやって来た。
「わあ! 新しい駒だ!」
「見て、王冠の鳥もいるよ!」
子供たちは箱を囲み、大喜びした。
「カイルお兄さん、ありがとう!」
「どういたしまして。なくさないように使ってくれ」
「はーい!」
元気な返事が響く。
その様子を見ていたミレイユは、そっと微笑んだ。
カイルがここへ来てくれることを、いつの間にか楽しみにするようになっていた。
けれど、それを本人に伝えるのは、まだ少し勇気がいる。
もし、特別な意味などないと言われたら。
今までどおりに話せなくなってしまったら。
そう考えると、いつものように冗談を言っているほうが、ずっと簡単だった。
ミレイユは小さく息を吐き、子供たちの輪に加わった。
今日も、まずは今までどおりに。
それでいい。
そう思うことにした。
昼過ぎ、エレナ・ヴァレンティアは青い帳面を抱えて読書室にやって来た。
「こんにちは。みんな、何をしているの?」
「エレナお姉さん! 今日は歌う花の庭を作るんだよ!」
男の子が大きな紙を広げた。
紙の上には、色とりどりの花が描かれている。
花の隣には、小さな音符まで添えられていた。
「まあ、ずいぶん賑やかになったわね」
「この花は高い声で歌うの!」
「こっちは低い声!」
「それでね、全部の花が一緒に歌うと、秘密の道が開くんだ!」
エレナは楽しそうに頷いた。
「それなら、どんな歌なのかも考えてみなくちゃいけないわね」
「歌も作るの?」
「ええ。みんなが考えた歌なら、きっと素敵なものになると思うわ」
子供たちは嬉しそうに机を囲んだ。
最初は、思いついた言葉を口にするだけだった。
けれど、一人が歌い始めると、別の子が続きを考えた。
リズムをつける子もいれば、花の名前を並べる子もいる。
少しずつ、短い歌が形になっていった。
エレナはその言葉を書き留めながら、青い帳面を思い出した。
自分も、こんなふうに誰かと一緒に言葉を探せばいいのかもしれない。
最初から完璧なものを作ろうとしなくてもいい。
一つの言葉から次の言葉へ。
誰かの考えから、自分の考えへ。
そうして生まれるものを、大切にすればいいのだ。
「エレナ、少し休憩しない?」
ミレイユが声をかけてきた。
「ええ、そうね」
二人は子供たちの邪魔にならないよう、窓際へ移動した。
ミレイユは椅子に座ると、ふうっと息を吐いた。
「子供たちって、本当にすごいわね。少し話しただけで、どんどん新しいものを考えてしまうんだもの」
「ええ。私も、毎回驚かされているわ」
エレナは帳面をそっと開いた。
「実は、私も少しずつ物語を書いているの」
「本当?」
ミレイユは身を乗り出した。
「どんなお話なの?」
「まだ、はっきりとは決まっていないの。読書室であったことや、感じたことを書き留めているところよ」
「素敵じゃない!」
ミレイユはすぐに笑顔になった。
「エレナが書いた物語なら、私も読んでみたいわ!」
「ありがとう。でも、まだ人に読んでもらえるほどではないと思うの」
「そんなこと、書いてみなければ分からないでしょう?」
ミレイユはきっぱりと言った。
「最初から立派なものを作ろうとしなくてもいいのよ。子供たちだって、思いついたことをどんどん描いているじゃない」
エレナは目を瞬かせた。
先ほどまで、自分が子供たちに伝えていたことだった。
それを今度は、親友から教えられている。
「……そうね」
エレナは笑った。
「私、少し考えすぎていたのかもしれないわ」
「そうよ! エレナは真面目なんだから」
「ミレイユに言われると、なんだか不思議な気分ね」
「どういう意味かしら?」
「ふふっ。秘密よ」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、カイルが子供たちのところから戻ってきた。
「ミレイユ、少し頼みたいことがある」
「私に?」
「ああ。次に使う木製の駒を増やそうと思っているんだが、子供たちがどんな形を欲しがっているのか、君にも聞いてほしい」
「もちろんよ!」
ミレイユは勢いよく立ち上がった。
けれど、歩き出す直前、彼女は一度だけエレナを振り返った。
エレナは小さく頷き、微笑みを返す。
大丈夫。
今すぐ答えを出さなくてもいい。
自分の気持ちを確かめながら、少しずつ進めばいいのだ。
ミレイユはその笑顔に背中を押されるように、カイルの隣へ向かった。
午後の終わり、子供たちが帰り支度を始めた頃だった。
一人の女の子が、エレナのもとへ小さな紙を持ってきた。
「エレナお姉さん、これ、あげる」
「私に?」
受け取った紙には、銀色の髪をした女性と、黒みがかった青い髪の男性が描かれていた。
二人は手をつなぎ、花の咲く道を歩いている。
「これは……私とルシアン様?」
「うん! この前、二人が一緒に歩いているのを見たの。とっても仲良しだったから!」
女の子は照れくさそうに笑った。
「だから、描いてみたの」
エレナは絵を見つめた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「ありがとう。とても嬉しいわ」
「本当?」
「ええ。大切にするわね」
女の子は満足そうに頷くと、母親のもとへ走っていった。
エレナは、しばらく絵を見つめていた。
子供の目には、自分たちはこんなふうに映っているのだろうか。
ただ一緒に歩いて、話して、笑っている。
特別な出来事がなくても、そんな時間を幸せだと思える。
彼女は絵を青い帳面に挟み、そっと胸に抱いた。
いつか自分の物語を書くとき、この絵のことも思い出すだろう。
夕方、読書室を出ると、ルシアンが入口で待っていた。
「お待たせしたわね」
「いや。今日は、何かいいことがあったのかな?」
エレナの表情を見て、彼はそう尋ねた。
「ええ。子供から、素敵な贈り物をもらったの」
「見せてもらってもいい?」
エレナは少し迷ったあと、帳面に挟んだ絵を取り出した。
ルシアンはそれを受け取り、丁寧に眺めた。
「……よく描けているね」
「そうでしょう?」
「君の髪も、俺の髪も、ちゃんと描いてくれている」
「ふふっ。そうね」
ルシアンは絵を返しながら、少しだけ目を細めた。
「この絵のように、これからも君と一緒に歩いていけたら嬉しいよ」
エレナの頬が赤くなった。
「……私もよ」
言葉にすると、胸の奥にあった気持ちが、少しだけはっきりした形になる。
彼と一緒に歩きたい。
まだ知らない場所へ行きたい。
自分の夢を追いかけながら、その喜びを彼と分かち合いたい。
そして、彼が何を望んでいるのかも、もっと知っていきたい。
それは、誰かに決められた未来ではない。
自分で選び、彼と一緒に育てていきたい未来だった。
「ルシアン」
「うん?」
「私、もっといろいろなことに挑戦してみたいわ」
「物語を書くことも?」
「ええ。それに、いつか旅にも出たいし、読書室も、もっと子供たちが楽しめる場所にしたいの」
「いいね」
彼は迷わず頷いた。
「君がやってみたいことを、これからも聞かせてほしい」
「……全部?」
「全部だよ」
ルシアンは優しく微笑んだ。
「俺も、自分がやりたいことを君に話したいからね。お互いに知っていけば、二人で考えられることも増えるだろう?」
エレナは、彼の手を取った。
「そうね。私も、あなたのことをもっと知りたいわ」
二人はゆっくりと歩き始めた。
夕暮れの街に、柔らかな風が吹いている。
エレナの鞄の中には、青い帳面と、一枚の小さな絵が入っていた。
まだ言葉にならない夢もある。
まだ自分でも気づいていない願いもある。
けれど、それらを一つずつ見つけていくことが、今は楽しみだった。
誰かと一緒に笑ったこと。
誰かが自分のために考えてくれたこと。
そして、自分が誰かを大切に思っていること。
その一つひとつが、未来へ続く小さな道になる。
エレナは隣を歩くルシアンを見上げた。
「ねえ、ルシアン。今度、時間があるときに、あの絵を一緒に見ながら物語を考えてみない?」
「君と一緒に?」
「ええ。二人で歩いている、この絵から始まる物語よ」
ルシアンは、嬉しそうに笑った。
「それは楽しみだね」
エレナも笑顔を返した。
物語の始まりは、いつだって小さなものなのかもしれない。
一枚の絵から。
一つの言葉から。
誰かと交わした、ささやかな約束から。
そして、その続きをどう描くかは、自分たちで選んでいける。
エレナは帳面の中にある小さな絵を思い浮かべながら、彼と並んで歩き続けた。
この先にどんな物語が待っているのか。
まだ、誰にも分からない。
だからこそ、二人で見つけていきたいと思った。




