まだ言葉にできない、胸の奥の願い
朝の光が窓辺を照らす中、エレナ・ヴァレンティアは青い帳面を開いていた。
ここ数日、少しずつ書き足してきた文章を読み返す。
読書室で子供たちと作った物語。
ミレイユとカイルの、思わず笑ってしまうやり取り。
そして、ルシアンと交わした小さな約束。
どれも、今の自分にとって大切な記録だった。
けれど、ページをめくるうちに、エレナはあることに気づいた。
自分は、出来事を書き留めることはできても、その先にある気持ちを、まだ十分に言葉にできていない。
楽しかった。
嬉しかった。
幸せだった。
それだけでは足りない気がするのに、ほかにどんな言葉があるのか分からなかった。
「……難しいわね」
羽根ペンを置き、エレナは椅子の背にもたれた。
誰かを大切に思う気持ち。
未来を楽しみにする気持ち。
自分の力で何かを始めようとする気持ち。
そのどれもが、以前よりずっと身近になった。
それなのに、いざ言葉にしようとすると、心の中にあるものは簡単には形になってくれない。
エレナは帳面を閉じた。
今は無理に書かなくてもいい。
そう思えるようになったことも、以前の自分とは違うところだった。
昼過ぎ、読書室を訪れると、入口の前でミレイユ・ローゼンが待っていた。
「エレナ!」
「ミレイユ? どうしたの、こんなところで」
「ちょっと相談があるの」
いつもなら、笑顔と一緒に勢いよく話し始める彼女が、今日は少しだけ言いにくそうにしていた。
エレナは首を傾げた。
「何かあったの?」
「大したことじゃないのよ。ただ……カイルのことで」
その名前を聞いた瞬間、エレナは思わず微笑みそうになった。
けれど、ミレイユの表情がいつもより真剣だったので、すぐに気持ちを切り替えた。
「うん。聞かせて?」
「最近、あの人と一緒にいると、なんだか調子が狂うの」
「調子が?」
「そうなのよ。前は、あんなに真面目で融通が利かなくて、ちょっとくらい冗談を言っても、すぐに真剣に考え始める人だと思っていたのに」
「……それは、今も変わらない気がするわ」
「そう! そこは変わらないの!」
ミレイユは勢いよく頷いた。
「なのに、最近はその真面目なところが、前より気になってしまうのよね」
言い終えてから、彼女は自分の言葉を確かめるように黙り込んだ。
エレナは急いで答えを出そうとはしなかった。
「それで、どうしたいと思っているの?」
「どうしたい、って……」
ミレイユは視線を落とした。
「分からないの。ただ、あの人がほかの人と話していると、なんとなく気になったりするし。私が何か言うと、ちゃんと聞いてくれるのが嬉しかったりするし」
そこで彼女は、困ったように笑った。
「こんなの、私らしくないでしょう?」
「どうして?」
「だって、私はもっと簡単に、自分の気持ちが分かる人間だと思っていたんだもの」
エレナは、今朝の自分を思い出した。
自分も同じだった。
心の中には確かに何かがあるのに、それをどんな言葉で呼べばいいのか分からない。
「……私も、似たようなことがあるわ」
「エレナも?」
「ええ。自分の気持ちなのに、言葉にしようとすると難しいことがあるの」
ミレイユは少し驚いたように彼女を見つめた。
「あなたでも、そんなことがあるのね」
「もちろんよ」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「だから、今すぐ答えを決めなくてもいいんじゃないかしら。気になるなら、その気持ちがどんなものなのか、少しずつ確かめていけばいいと思うわ」
「少しずつ……」
「ええ。無理に名前をつけなくても、今の自分が何を嬉しいと思うのか、何を大切にしたいのか。それを知っていくことも大事だと思うの」
ミレイユはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと肩の力を抜く。
「……ありがとう、エレナ。なんだか、少し楽になったわ」
「よかった」
「でも、カイルにはこの話を絶対にしないでね!」
「分かっているわ」
「本当に?」
「本当よ」
エレナが笑うと、ミレイユもようやくいつもの明るい表情を取り戻した。
「よし! それじゃあ、今日も子供たちの物語を手伝いましょう!」
「ええ、そうしましょう」
二人は並んで読書室へ入った。
中では、子供たちが空の国の冒険について話し合っていた。
雲の花を探すために、竜と小鳥はどこへ向かうのか。
空を飛べるお菓子を作るためには、どんな材料が必要なのか。
話し合いは白熱していたが、肝心の目的地はまだ決まっていないらしい。
「エレナお姉さん! どこへ行けばいいと思う?」
男の子が尋ねてきた。
エレナは机の上に広げられた地図を見た。
「そうね……みんなは、どんな場所に行ってみたい?」
「雲の上!」
「虹の向こう!」
「星が落ちてくるところ!」
子供たちは次々に答えた。
「じゃあ、その中から一つだけ選ぶとしたら?」
今度は、みんなが顔を見合わせた。
一人ひとり、行きたい場所が違うのだ。
エレナはその様子を見て、少し考えた。
「それなら、全部を巡る旅にしてみるのはどうかしら?」
「全部?」
「ええ。最初は雲の上へ行って、次に虹の向こうへ。それから、星が落ちてくる場所を探すの」
子供たちの顔が明るくなった。
「それなら、全部行けるね!」
「でも、どの順番で行くの?」
「それも、みんなで決めましょう」
子供たちは地図を囲み、旅の順番を考え始めた。
そのとき、読書室の入口からカイルが姿を現した。
「ミレイユ、頼まれていた道具を持ってきた」
彼の手には、木製の小さな駒が入った箱があった。
竜、小鳥、船、そして雲の形をした駒まである。
「まあ、ありがとう!」
ミレイユは箱を受け取り、嬉しそうに中身を眺めた。
「こんなにたくさん作ってくれたの?」
「子供たちが旅の順番を考えると聞いたからな。地図の上で動かせるようにしておいた」
「カイル、あなたって本当に気が利くのね」
「必要だと思っただけだ」
いつものように、彼は淡々と答えた。
けれど、ミレイユは箱の中の駒を一つずつ確かめながら、ふっと微笑んだ。
「……ありがとう。大切に使うわ」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
カイルは一瞬、彼女の顔を見つめた。
「ああ。壊れたら直すから、遠慮なく使ってくれ」
「ふふっ。そういうところよ」
「何がだ?」
「何でもないわ!」
ミレイユは慌てて子供たちのほうを向いた。
カイルは不思議そうにしていたが、追及はしなかった。
エレナは二人を見て、胸の中でそっと笑った。
きっと、二人には二人の歩き方がある。
自分がミレイユの代わりに答えを出すことはできない。
けれど、彼女が自分の気持ちと向き合う時間を、そばで支えることはできる。
それで十分なのだと思った。
夕方、読書室の片づけを終えたエレナは、ルシアンと街の広場を歩いていた。
彼は王宮の用事を終えたあと、迎えに来てくれたのだった。
「今日は、ミレイユと何か話していたの?」
ルシアンが尋ねる。
「ええ。少し、悩み事を聞いたの」
「そうか。彼女は元気そうに見えるけれど、いろいろ考えているんだね」
「そうね。でも、自分で考えてみたいと言っていたわ」
エレナは夕暮れの広場を見渡した。
噴水のそばでは、子供たちが笑いながら走り回っている。
店じまいを始めた商人たちの声が聞こえ、焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
「……私も、少し考えていることがあるの」
「どんなこと?」
エレナはすぐには答えなかった。
朝から胸の中にあった、小さな願い。
自分の物語を書いてみたい。
けれど、それだけではない。
いつか、その物語を誰かに読んでもらいたい。
自分が見てきた景色や、感じた気持ちを、言葉にして届けてみたい。
そして、できることなら。
「私ね、いつか自分の書いた物語を、読書室の子供たちにも読んでもらいたいの」
ルシアンは、優しく目を細めた。
「それは素敵な夢だね」
「でも、まだほとんど何も書けていないのよ?」
「それでも、夢にしていいと思う」
彼は迷いなく答えた。
「今は一行しか書けなくても、いつか十行になるかもしれない。十行が一ページになって、一冊の本になるかもしれないだろう?」
「……そうね」
「そのとき、子供たちが君の物語を読んで、どんな顔をするのか。俺も見てみたいな」
エレナの胸が、じんわりと温かくなった。
彼はいつも、自分の願いを小さく扱わない。
まだ形になっていない夢であっても、笑ったり、否定したりせず、そこにあるものとして受け止めてくれる。
「ありがとう、ルシアン」
「どういたしまして」
ルシアンは彼女の手を取った。
「それに、君が書く物語なら、俺も読者の一人になりたいからね」
「……一番最初の読者でしょう?」
「もちろん。そこは譲れないな」
あまりにも真剣な口調に、エレナは思わず笑ってしまった。
「分かったわ。最初に読んでもらう約束だものね」
「ああ。楽しみにしているよ」
二人は手をつないだまま、広場を抜けていった。
その夜、エレナは部屋に戻ると、青い帳面を開いた。
今日の出来事を書き留める。
ミレイユが悩みを打ち明けてくれたこと。
カイルが子供たちのために木製の駒を用意してくれたこと。
そして、ルシアンが自分の夢を応援してくれたこと。
一つずつ書き終えたあと、エレナは最後の行に、そっと言葉を添えた。
『いつか、自分の書いた物語を子供たちに読んでもらいたい。その日が来たら、今日のことを思い出すのだろう』
ペンを置く。
まだ、夢は遠い。
けれど、遠いからといって、手を伸ばしてはいけないわけではない。
エレナは窓の外を見つめた。
夜空には、いくつもの星が輝いている。
その一つひとつが、まだ知らない物語の始まりのように思えた。
「……明日も、少しだけ書いてみよう」
そう呟き、彼女は帳面を閉じた。
まだ言葉にできない願いも、まだ知らない自分も、きっとこれから少しずつ形になっていく。
急がなくてもいい。
自分の歩幅で進めばいい。
そう思えるようになったことを、エレナは静かに嬉しく感じていた。




