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あなたの知らない私を、少しずつ

 朝、エレナ・ヴァレンティアは青い帳面を開き、昨日書いた文章を読み返していた。


 窓から差し込む光が、銀色の星を散りばめた表紙を照らしている。


 帳面には、読書室で子供たちと過ごした時間や、ルシアンと交わした言葉が少しずつ記されていた。


 まだ物語と呼べるほどのものではない。


 けれど、ページをめくるたびに、そのときの景色や声が鮮やかに蘇ってくる。


「……もう少し、自分のことも書いてみようかしら」


 エレナは羽根ペンを持ち直した。


 今まで書き留めてきたのは、ほとんどが読書室で起きた出来事だった。


 子供たちの笑顔。

 ミレイユの楽しそうな声。

 カイルが真面目な顔で物語の設定を考えていたこと。

 そして、ルシアンと過ごした穏やかな時間。


 どれも大切な思い出だ。


 けれど、それらを見て、自分が何を感じたのか。


 自分は何を望み、何を恐れ、これからどうなりたいと思っているのか。


 それも書いてみたいと思った。


 エレナはしばらく考えてから、ゆっくりと文字を綴った。


『私は、まだ自分の知らない自分に出会っていないのかもしれない』


 書き終えると、彼女はその一文をじっと見つめた。


 少し不思議な言葉だった。


 自分のことなら、自分が一番よく知っているはずなのに。


 けれど、新しいことに挑戦するたび、知らなかった気持ちが胸の中から顔を出す。


 物語を書きたいと思ったことも、その一つだった。


「……不思議ね」


 エレナは小さく笑い、帳面を閉じた。


 今日もまた、新しい自分を見つけられるだろうか。


 そんな期待を胸に、彼女は読書室へ向かった。


 昼過ぎ、読書室では子供たちが大きな紙を囲んでいた。


「エレナお姉さん、見て!」


 竜の物語が大好きな男の子が、勢いよく手を挙げる。


「空の国の王様が決まったんだ!」


「まあ、どんな王様になったの?」


「お菓子を作る王様!」


 エレナは思わず目を瞬かせた。


「……この前、お菓子を作る王様がいいって言っていたわね」


「うん! でも、ただのお菓子じゃないよ。食べた人が元気になるんだ!」


「それは素敵ね」


「それでね、王様は空の国のみんなにお菓子を配っているんだ。でも、最近、材料がなくなっちゃったんだよ!」


 男の子は一息に説明した。


 どうやら物語は、空の国を救う新しい冒険へと進んでいるらしい。


「それなら、材料を探す旅に出なくちゃいけないわね」


 エレナがそう言うと、子供たちは一斉に頷いた。


「そう! 竜と小鳥が探しに行くんだ!」


「どんな材料が必要なのかしら?」


「雲の花!」


「星の砂糖!」


「虹の果物!」


 次々と奇想天外な材料が挙がる。


 エレナは一つずつ紙に書き留めていった。


 そのとき、入口からミレイユ・ローゼンが顔を覗かせた。


「まあ、今日はお菓子の話なの?」


「ミレイユお姉さんも一緒に考えて!」


 子供たちに呼ばれ、ミレイユは嬉しそうに机へ近づいた。


「もちろんよ! それなら、私からも一つ提案があるわ!」


 彼女は大きく胸を張った。


「王様のお菓子を食べたら、誰でも一日だけ空を飛べるようになるの!」


「本当!?」


「ええ!」


 子供たちは大喜びした。


 ただ一人、少し離れた場所にいたカイル・フェルディナだけが、難しい顔をしていた。


「……飛べるようになるなら、着地の方法も考えなければ危険ではないか?」


 ミレイユは彼を振り返った。


「カイル、これは物語なのよ?」


「物語でも、空から落ちたら痛いだろう」


「じゃあ、落ちる前に竜が助けてくれることにしましょう!」


「それなら問題はないな」


 あまりにも真面目な返答に、ミレイユは一瞬ぽかんとした。


 それから、とうとう吹き出した。


「あなたって、本当に面白い人ね!」


「……俺は普通に考えただけだが」


「そういうところが面白いの!」


 ミレイユは笑いながら、カイルの隣に腰を下ろした。


「ねえ、あなたなら、どんなお菓子がいい?」


「俺か?」


「そう。空を飛べるお菓子よ」


 カイルは少し考えた。


「……任務の途中でも食べられるものがいいな。持ち運びやすく、簡単に食べられて、腹持ちがいいものだ」


 ミレイユは口元を押さえた。


「それ、空を飛ぶためのお菓子というより、携帯食ではなくて?」


「実用性は重要だろう」


「ふふっ。もう、あなたに聞いた私が間違いだったわ」


 そう言いながらも、ミレイユは楽しそうだった。


 カイルは彼女の笑顔を見て、ほんの少し表情を緩めた。


「……だが、君が考えたお菓子なら、味も大切だろうな」


 ミレイユの笑い声が、ぴたりと止まった。


「え?」


「空を飛べるとしても、食べて美味しくなければ、子供たちは喜ばないだろう」


「……そ、そうね」


 ミレイユはなぜか視線を泳がせた。


 いつもならすぐに冗談を返せるのに、今は言葉が出てこない。


 カイルは不思議そうに首を傾げた。


「どうした?」


「な、何でもないわ!」


 ミレイユは慌てて紙に向き直った。


 頬がほんのり赤くなっていることに、本人だけが気づいていなかった。


 エレナはその様子を見て、そっと微笑んだ。


 二人の関係は、少しずつ変わっているのかもしれない。


 けれど、それを急いで確かめる必要はない。


 今は、この自然なやり取りを大切に見守っていたかった。


 しばらくして、読書室にルシアンがやって来た。


「今日は、ずいぶん賑やかだね」


「ルシアン! 見て、空の国のお菓子を考えているの!」


 エレナが説明すると、彼は机の上の絵を眺めた。


「雲の花に、星の砂糖……虹の果物か」


「どれも、まだ見たことがないものばかりよ」


「なら、想像するしかないね」


 ルシアンは微笑んだ。


「見たことがないものを思い描けるのは、素敵なことだと思うよ」


 エレナは彼の言葉に頷いた。


「ええ。私も、そう思うわ」


 その返事をしたあと、彼女はふと、朝に書いた一文を思い出した。


 自分の知らない自分。


 まだ見たことのない世界。


 どちらも、最初から答えが用意されているわけではない。


 自分で歩いて、考えて、少しずつ見つけていくものなのだろう。


 読書室が閉まる頃、子供たちは完成した絵を壁に飾った。


 空の国の王様が作った、空を飛べるお菓子。


 それを食べた竜と小鳥が、雲の上を飛び回っている。


 絵の隅には、小さな王冠をかぶった鳥も描かれていた。


「この鳥、また出てきたわね」


 エレナが笑うと、ミレイユが誇らしげに答えた。


「もちろんよ! あの鳥は、もう物語に欠かせない存在だもの!」


「そのうち、竜よりも目立つんじゃないか?」


 カイルが呟く。


「それもいいじゃない!」


「……そうか」


 カイルは、少しだけ困ったように笑った。


 ミレイユはその表情を見て、また嬉しそうに目を細めた。


 子供たちが帰ったあと、エレナは青い帳面を取り出した。


 今日の出来事を書き留めるためだ。


 けれど、羽根ペンを持ったまま、彼女はしばらく考え込んでいた。


 空を飛べるお菓子。


 雲の花。


 星の砂糖。


 子供たちの想像力には、限界がない。


 それに比べて、自分はどうだろう。


 もっと自由に考えてみてもいいのではないだろうか。


 上手に書けるかどうか。

 誰かに気に入ってもらえるかどうか。


 そうしたことを気にする前に、自分が本当に書きたいものを探してみたい。


 エレナは、ゆっくりとペンを動かした。


『今日、子供たちは空を飛べるお菓子を考えた。私も、まだ知らない世界を想像してみたい』


 そして、もう一文を付け加える。


『いつか、自分の物語を誰かに読んでもらうとき、そこに私自身の見つけた景色を描けていたらいいと思う』


 書き終えたエレナは、満足そうに微笑んだ。


「少しずつ、ね」


 帳面を閉じると、隣から優しい声がした。


「また書いていたんだね」


 ルシアンが、机の向こうから彼女を見つめていた。


「ええ。今日のことを少しだけ」


「何か、新しい発見はあった?」


 エレナは考えた。


 今日、何を見つけたのだろう。


 子供たちの想像力の豊かさ。

 ミレイユとカイルの、少し不思議で温かなやり取り。

 そして、自分ももっと自由に物語を書いてみたいという気持ち。


「……自分が何を書きたいのか、少しだけ分かった気がするわ」


「それは、どんなもの?」


「まだ秘密」


 エレナは、いたずらっぽく微笑んだ。


「もう少し形になったら、あなたに読んでもらうわ」


「分かった。楽しみに待っているよ」


 ルシアンは、彼女の答えを無理に聞き出そうとはしなかった。


 その代わり、そっと手を差し出した。


 エレナは自然にその手を取った。


「でも、一つだけ教えてくれないかな」


「何?」


「その物語には、俺も登場するのだろうか?」


 エレナは目を丸くした。


 それから、頬を赤くしながら笑った。


「……どうかしらね?」


「それは、少し気になるな」


「主人公にふさわしいかどうか、考えておくわ」


「厳しい審査になりそうだね」


「ええ。とても厳しいわよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 エレナの帳面には、まだ白いページがたくさん残っている。


 そこにどんな物語が生まれるのかは、まだ誰にも分からない。


 けれど、彼女はもう、最初の一文を書くことを恐れてはいなかった。


 知らないものを想像すること。


 自分の気持ちを言葉にすること。


 そして、大切な人と一緒に未来を思い描くこと。


 その一つひとつが、彼女の新しい物語を形作っていく。


 エレナはルシアンの手を握り、夕暮れの街へと歩き出した。


 明日は、どんな自分に出会えるだろう。


 その答えを楽しみにしながら。

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