まだ見ぬ物語を、あなたに届けたくて
翌朝、エレナ・ヴァレンティアは目を覚ますと、真っ先に机の引き出しを開けた。
そこには、銀色の星が散りばめられた青い帳面が収められている。
昨夜、ルシアンに自分の書いた文章を読んでもらったことを思い出すと、胸の奥がくすぐったくなった。
――君が何を見つけて、何を感じて、どんな言葉を選ぶのか。それを、もっと知りたい。
思い出すだけで、頬が熱くなる。
「……物語の話なのに」
小さく呟いてから、エレナは首を振った。
もちろん、彼が言ったのは自分の書く物語についてだ。
それでも、自分の考えたことを知りたいと言ってもらえたのは、嬉しかった。
エレナは帳面を開き、新しいページに羽根ペンを走らせた。
『私の物語を、いつか誰かに届けたい』
そこまで書いて、手が止まった。
誰か。
その言葉を見つめているうちに、自然と一人の顔が浮かんだ。
ルシアン。
最初に読んでもらうと約束した相手。
彼がどんな感想をくれるのか、想像するだけで楽しみになる。
けれど、同時に少し怖くもあった。
自分の中にあるものを言葉にして、誰かに渡す。
それは、思っていた以上に勇気のいることなのかもしれない。
エレナは帳面を閉じ、そっと胸に抱いた。
「まずは、一歩ずつね」
そう呟いて、彼女は朝の支度を始めた。
昼過ぎ、読書室にはいつもの賑やかな声が響いていた。
「エレナお姉さん! 昨日の絵、続きを描いてきたよ!」
竜の物語が大好きな男の子が、大きな紙を抱えて駆け寄ってきた。
そこには、雲の上に浮かぶ城と、竜の背中に作られた小さな家が描かれている。
窓から顔を出す小鳥の隣には、なぜか王冠をかぶった鳥までいた。
「まあ、空の国のお城ね」
「そう! ここに宝箱の地図があるんだ!」
男の子は城の一番高い塔を指差した。
「でも、地図を読むには、空の国の王様に会わなくちゃいけないんだよ」
「王様って、あの鳥?」
「違うよ! あの鳥は案内役!」
男の子は大真面目に説明した。
「王様は、もっとすごいんだ!」
「どんな王様なの?」
「それは……まだ決めてない!」
エレナは思わず笑ってしまった。
「それなら、みんなで考えましょうか」
子供たちは机を囲み、空の国の王様について話し始めた。
強い王様がいいという子もいれば、優しい王様がいいという子もいる。
中には、毎日お菓子を作ってくれる王様がいいと言い出す子までいた。
「王様なのに、お菓子を作るの?」
エレナが尋ねると、その子は不思議そうに首を傾げた。
「だって、お菓子を作ってくれる王様なら、みんな幸せでしょう?」
その言葉に、エレナは目を瞬かせた。
確かに、そうかもしれない。
王様らしさとは何か。
強さなのか、知恵なのか、それとも優しさなのか。
子供たちの考えを聞いているうちに、彼女自身も答えを探したくなった。
「それじゃあ、みんなが考えた王様のいいところを、一つずつ書いてみましょう」
エレナが紙を広げると、子供たちは元気よく頷いた。
その様子を、少し離れた場所から見守っていたのはルシアンだった。
今日は王宮の用事を終えてから立ち寄ったらしい。
彼は子供たちの話を聞きながら、ふとエレナの横顔に目を向けた。
彼女は誰かの意見を急いでまとめようとはしない。
自分の考えを押しつけることもない。
一人ひとりの言葉を受け止め、その中から新しいものが生まれるのを待っている。
そんな彼女の姿を見ていると、胸の奥が温かくなった。
かつての自分は、守るべきものを失わないために、何もかもを先回りして考えようとしていた。
けれど、エレナと過ごすうちに気づいたことがある。
相手を大切に思うことと、その人の未来を代わりに決めることは違う。
彼女が自分で考え、自分の足で歩き、時には迷うことさえ、今では愛おしく思えた。
「ルシアン様?」
声をかけられて顔を向けると、カイルが立っていた。
「どうした?」
「先ほどから、ずいぶん穏やかな顔をなさっていますね」
「そうかな?」
「ええ。王宮でも、そのくらい柔らかい表情をなさっていれば、文官たちも安心するでしょう」
「……カイル」
「はい」
「余計なことを言うようになったな」
「ルシアン様の影響かもしれません」
真顔で返され、ルシアンは小さく息をついた。
少し離れた場所で二人のやり取りを見ていたミレイユが、肩を震わせて笑っている。
「カイル、今のは一本取ったわね」
「何の勝負だ?」
「さあ?」
ミレイユは楽しそうに笑った。
カイルは納得していない様子だったが、それ以上追及することはなかった。
しばらくして、子供たちが王様の絵を描き始めた。
長い髭を生やした王様。
花冠をかぶった王様。
お菓子の入った大きな袋を背負った王様。
そして、一人の女の子が描いた王様は、意外にも小さな姿をしていた。
「この王様は、どうしてこんなに小さいの?」
エレナが尋ねると、女の子は少し恥ずかしそうに答えた。
「大きくなくても、みんなを守れる王様がいいから」
エレナはその絵を見つめた。
「……素敵な考えね」
女の子は嬉しそうに笑った。
やがて、壁にはたくさんの王様の絵が並んだ。
どれも違っていて、どれもその子らしい。
エレナはその光景を見ながら、自分の青い帳面のことを思い出していた。
自分の物語にも、きっと決まった正解はない。
誰かに褒められるためだけに書く必要もない。
自分が本当に描きたいものを、まずは自分の言葉で表現すればいいのだ。
その日の読書室が閉まる頃、ルシアンはエレナに声をかけた。
「少し、散歩をしないかい?」
「ええ。もちろん」
二人は読書室を出て、夕暮れの街を歩き始めた。
通りには、仕事を終えた職人たちや、買い物帰りの人々が行き交っている。
パン屋の窓からは焼きたての香りが漂い、花屋の店先には、夕陽を受けた花々が並んでいた。
「今日は、子供たちとどんな話をしていたの?」
ルシアンが尋ねた。
「空の国の王様を考えていたの。みんな、それぞれ違う王様を思い浮かべていたわ」
「面白そうだね」
「ええ。私が考えていたら、きっとあんなにたくさんの王様は生まれなかったと思う」
エレナは微笑んだ。
「それにね、今日、少しだけ分かった気がするの」
「何が?」
「自分の物語を書くときも、上手に書こうとするより、まずは自分が何を伝えたいのかを考えればいいんだって」
ルシアンは彼女の言葉に頷いた。
「君が伝えたいことか」
「ええ。でも、まだはっきりとは分からないわ」
「なら、これから見つけていけばいい」
彼はごく自然に言った。
「急いで答えを出す必要はないよ。君が歩いていく中で、きっと見つかるものもあるだろうから」
エレナは彼を見上げた。
「……あなたは、いつもそう言ってくれるのね」
「何を?」
「私が迷っても、急がなくていいって」
ルシアンは少しだけ考えた。
「君が自分で選ぶことを、大切にしたいからだよ」
夕暮れの光が、彼の黒みがかった青い髪を柔らかく照らしていた。
「俺は、君に何かを諦めてほしくない。俺と一緒にいるために、君の夢を小さくしてほしくもないんだ」
エレナは足を止めた。
その言葉は、彼女がずっと大切にしてきた願いに触れていた。
誰かを愛することと、自分の人生を歩くこと。
その二つは、どちらかを選べば、もう一方を失うようなものではない。
「……ありがとう、ルシアン」
エレナはそっと彼の手を取った。
「私、あなたと一緒に、もっとたくさんのものを見てみたいわ」
ルシアンの瞳が、わずかに見開かれた。
「街の外にも行ってみたいし、知らない土地の本も読んでみたい。いつか、自分の物語も誰かに届けられたら嬉しい」
「うん」
「それから……」
エレナは少し照れながら、彼の手を握り直した。
「そのときは、あなたにも一番に読んでほしいの」
ルシアンは優しく微笑んだ。
「もちろん。何度でも読むよ」
「何度でも?」
「君が書き直したら、そのたびに読む。続きを書いたら、続きを読む」
「……そんなに読んでいたら、飽きてしまうかもしれないわ」
「君の物語なら、飽きる気がしないな」
あまりにも迷いのない返事に、エレナは頬を赤くした。
「もう……そういうことを、平気で言うんだから」
「本当のことだよ」
ルシアンは彼女の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
エレナもその隣を歩く。
まだ、彼女の帳面には短い文章しか書かれていない。
どんな物語になるのかも、誰かに届けられる日が来るのかも分からない。
けれど、焦る必要はなかった。
これから出会う景色も、誰かと交わす言葉も、何気ない日々の中で生まれる喜びも。
そのすべてが、いつか彼女の言葉になるかもしれないのだから。
そして、その物語の続きを読みたいと言ってくれる人が、隣にいる。
エレナは彼の横顔を見つめ、静かに笑った。
今夜、帳面を開いたら、最初の一文を少しだけ書き直してみよう。
誰かに届けたいと思った物語。
その始まりに、どんな言葉を選ぼうか。
まだ答えは見つからない。
けれど、明日が来るのが楽しみだった。




