まだ知らない夢と、隣にいる人
読書室が開室してから、十日ほどが過ぎた。
職人街の人々の間では、子供たちが自由に本を読んだり、絵を描いたりできる場所ができたことが、少しずつ知られるようになっていた。
訪れる子供の数も、最初の日より増えている。
エレナ・ヴァレンティアは、壁に飾られた宝島の地図を眺めながら、満足そうに微笑んだ。
竜と小鳥の冒険は、今では子供たちの間ですっかり人気になっている。
宝島にあるお城の中には何があるのか。
竜はどうやって山の上まで船を運んだのか。
そして、あの宝箱には何が入っているのか。
訪れるたびに新しい意見が飛び出し、物語は少しずつ形を変えていた。
「次は、宝箱の中身を決めるんだったわね」
エレナが呟くと、隣で帳面を確認していたミレイユ・ローゼンが顔を上げた。
「そうよ! 私は、宝石がたくさん入っていると思うわ!」
「私は、誰かからの手紙でも素敵だと思うの」
「手紙?」
「ええ。宝島を見つけた人に向けて、ずっと昔の誰かが残した手紙よ。そこには、宝物よりも大切なものが書かれているの」
ミレイユは少し考えたあと、目を輝かせた。
「それ、素敵ね! でも、手紙の隣に宝石も入れておきましょう!」
「ふふっ。どちらも入っていたら、きっと子供たちは喜ぶわね」
二人が楽しそうに話していると、入口から落ち着いた声が聞こえた。
「ずいぶん盛り上がっているね」
ルシアン・アストレアだった。
彼は王宮での仕事を終え、エレナを迎えに来たところだった。
「ルシアン。ちょうど、宝箱の中身について話していたのよ」
「なるほど。君たちなら、宝石と手紙の両方を入れそうだね」
「どうして分かったの?」
「二人とも、どちらか一つに決めるのが苦手そうだから」
「そんなことないわよ!」
ミレイユが即座に反論した。
「私は、必要ならきちんと選べるもの!」
「それなら、宝石と手紙のどちらか一つにしてみたらどうかな?」
「……それは、物語を考えてから決めるわ!」
ルシアンは小さく笑った。
エレナも笑いながら、机の上の帳面を閉じた。
「今日は、そろそろ帰るわね。マルタさんに、明日の当番についても確認しておかなくちゃ」
「分かったわ。こっちは任せて!」
ミレイユは元気よく答えた。
そのとき、入口の外をカイル・フェルディナが通りかかった。
彼は読書室の中を確認すると、軽く頭を下げた。
「失礼する。ミレイユ、先ほど頼まれた紙の追加分を持ってきた」
「まあ、ありがとう!」
ミレイユは嬉しそうに駆け寄った。
「ちょうど足りなくなりそうだったの。助かったわ!」
「それならよかった」
「ねえ、カイル。せっかくだから、宝島の物語も一緒に考えていかない?」
「俺が?」
「そうよ。前に船を山へ運ぶ方法を考えてくれるって言ったでしょう?」
「……覚えていたのか」
「もちろんよ!」
ミレイユは得意げに笑った。
カイルは一瞬だけ困ったような顔をしたが、やがて頷いた。
「分かった。時間があるときに考えておこう」
「約束よ!」
その様子を見ながら、エレナは微笑んだ。
ミレイユは、相手が誰であっても臆せず話しかける。カイルのように言葉数の少ない人にも、自然に自分の世界へ招き入れてしまう。
それは彼女の長所なのだろう。
そして、そんなミレイユの誘いを、カイルも以前より素直に受け入れるようになっていた。
まだ本人たちが気づいているかどうかは分からない。
けれど、二人の間にも、少しずつ新しい関係が育ち始めているように見えた。
読書室を出ると、夕方の風が頬を撫でた。
エレナはルシアンと並んで、王宮へ続く道を歩き始める。
「今日は、少し遠回りして帰らないか?」
ルシアンが尋ねた。
「遠回り?」
「うん。君に見せたい場所があるんだ」
「どこなの?」
「着いてからのお楽しみ」
彼がそう言って微笑んだので、エレナはそれ以上尋ねないことにした。
二人は職人街を抜け、花屋の並ぶ通りを歩いた。
道の両側には、夕方の買い物をする人々が行き交っている。焼きたてのパンの香りが漂い、店先では色とりどりの花が並べられていた。
しばらく歩くと、ルシアンは小さな店の前で足を止めた。
「ここだよ」
そこは、文具や紙を扱う店だった。
窓辺には美しい便箋や封筒が並び、棚には小さな帳面や絵を描くための道具が置かれている。
「文具店?」
「君が読書室で、子供たちと物語を作っていると聞いたからね。何か役に立つものがあるかもしれないと思ったんだ」
エレナは驚いたように彼を見つめた。
「私のために、わざわざ?」
「君が楽しそうに話していたから、もっと聞いてみたくなったんだ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
二人は店の中へ入った。
店主に挨拶をしてから、エレナは棚に並んだ紙を一枚ずつ眺めた。
柔らかな色合いの紙。
表紙に花の模様が入った小さな帳面。
子供でも扱いやすい、太めの鉛筆。
どれも読書室で使えそうなものばかりだった。
「この帳面、素敵ね」
エレナが手に取ったのは、淡い青色の表紙に小さな銀色の星が描かれた帳面だった。
「物語の案をまとめるのに使えそうだわ。子供たちが考えたことを書いておけば、次に来たときに続きを作れるでしょう?」
「いい考えだね」
ルシアンは隣から帳面を覗き込んだ。
「君自身の考えも、そこに書いておくといい」
「私の?」
「もちろん。子供たちの物語を手伝うだけじゃなく、君自身が書きたい物語もあるんじゃないかな?」
エレナは、帳面を持つ手を止めた。
自分が書きたい物語。
そう考えたことは、今まであまりなかった。
彼女は本を読むことが好きだった。知らない世界を知り、登場人物の気持ちを想像し、物語の中で新しい景色に出会うことが好きだった。
けれど、自分で物語を書くという発想は、これまで遠いものだった。
「……私に、書けるかしら」
「最初から上手に書く必要はないだろう?」
ルシアンは穏やかに答えた。
「君が見たものや、感じたことを言葉にする。それだけでも、最初の一歩になると思うよ」
エレナは帳面を見つめた。
読書室を作りたいと思ったときも、最初から何もかもできたわけではなかった。
分からないことを調べ、周囲の人に相談し、一つずつ準備を進めてきた。
ならば、物語を書くことも同じなのかもしれない。
「……少し、やってみたいわ」
そう言うと、ルシアンは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、いいね」
エレナはその帳面を購入することにした。
店を出ると、空は少しずつ夕焼けに染まっていた。
エレナは抱えた帳面を見下ろした。
まだ、何も書かれていない。
けれど、その白いページには、これからいろいろな言葉が並ぶかもしれない。
子供たちと作る物語。
読書室で出会った人々のこと。
そして、自分自身がこれから見つけていく景色のこと。
「ルシアン」
「うん?」
「私、もっといろいろなものを見てみたいわ」
エレナは夕焼けの空を見上げた。
「知らない国も、知らない本も、まだ出会っていない人たちも。そうして見つけたものを、自分の言葉で残してみたいの」
「いいと思うよ」
ルシアンは、いつものように彼女の言葉を否定せずに聞いてくれた。
「君が何を見つけて、どんな物語を書くのか、俺も楽しみにしている」
「……ありがとう」
エレナは微笑んだ。
そのとき、ふと気づいた。
以前の自分は、未来に何が起こるのかを知りたがっていた。
誰と出会い、どんな出来事が待っていて、どこへ進むことになるのか。
けれど今は、まだ知らないものがあることを、怖いとは思わなかった。
知らないからこそ、見つけに行ける。
知らないからこそ、自分の言葉で物語にできる。
そして、隣にいる人と、その景色を分かち合うこともできる。
「ねえ、ルシアン」
「何だい?」
「いつか、また旅に出るときは、私が見つけたものを全部、あなたにも見せたいわ」
ルシアンは少し驚いたあと、優しく微笑んだ。
「それなら、俺も君に見せたいものを探しておこう」
「ふふっ。約束よ」
「ああ。約束だ」
二人は手を繋いで、夕暮れの道を歩き続けた。
その頃、読書室では、ミレイユがカイルと一緒に子供たちの地図を眺めていた。
「ねえ、カイル。やっぱり、この山の上に船があるのはおかしいと思う?」
「いや。物語の中なら、あり得ないとは言い切れない」
「まあ! あなた、少し柔軟になったんじゃない?」
「子供たちの考えを否定する理由がないだけだ」
「ふふっ。そういうところ、嫌いじゃないわ」
ミレイユは何気なく言った。
カイルは地図に向けていた視線を止めた。
「……今、何と言った?」
「えっ?」
「いや、何でもない」
カイルは再び地図を見つめたが、その耳はほんの少し赤くなっていた。
ミレイユは気づかなかったのか、それとも気づかないふりをしたのか、楽しそうに地図の続きを考え始めた。
まだ、何も決まっていない。
けれど、二人の間にも、小さな変化が生まれ始めていた。
そしてエレナの手元には、新しい帳面がある。
そこにどんな言葉が書かれ、どんな物語が生まれるのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、彼女が自分の未来を、自分の手で少しずつ描き始めているということだった。




