読書室に届いた、次の物語
読書室が開室してから、数日が経った。
朝の職人街には、工房から聞こえる木槌の音と、人々の挨拶が響いている。その通りを歩きながら、エレナ・ヴァレンティアは腕に抱えた数冊の本をそっと持ち直した。
今日、彼女が向かっているのは、いつもの読書室だった。
初めて扉を開いた日、子供たちは思い思いに本を選び、絵を描き、物語の続きを想像してくれた。
なかでも、竜と小鳥が海へ旅立つ絵は、今も壁の一角に飾られている。
そして、エレナには一つの新しい考えが浮かんでいた。
「……子供たちが考えた物語を、もう少し形にできたらいいわね」
呟きながら歩いていると、隣から穏やかな声が返ってきた。
「昨日からずっと考えているね」
ルシアン・アストレアだった。
今日は王宮での仕事を午前中に済ませ、読書室まで同行してくれることになっていた。
「分かる?」
「君が考え事をしているときは、歩く速度が少し遅くなるから」
「まあ……そんなところまで見ているの?」
「いつも一緒にいるからね」
あまりにも自然に返されて、エレナは頬をわずかに赤くした。
ルシアンはそれ以上からかわず、彼女の腕にある本へ視線を向けた。
「今日は新しい本を持っていくのかい?」
「ええ。昨日、王立図書館で見つけたの。海を旅する船乗りの物語と、遠い国の動物について書かれた本よ」
「竜と小鳥の冒険に役立ちそうだね」
「そうなの! あの子が次にどんな絵を描くのか、楽しみで」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
子供たちが描いた絵を見てから、彼女は何度も続きを想像していた。
小鳥と竜は、海の向こうで何を見つけるのだろう。
宝箱の中には何が入っているのだろう。
そして、旅の途中で新しい友達と出会うのだろうか。
考え始めると、次々に想像が広がっていく。
けれど、エレナは自分だけで答えを決めないことにしていた。
あの物語は、子供たちが考えたものでもあるのだから。
読書室に到着すると、入口の看板が朝日に照らされていた。
王冠をかぶった鳥の絵も、相変わらず堂々と飾られている。
「……やっぱり、あの鳥は目立つね」
ルシアンが呟いた。
「ミレイユが一生懸命描いてくれたものよ」
「それは分かっている。だが、あの足の長さは……」
「ルシアン?」
「何でもないよ」
エレナは彼の顔を見つめたあと、くすりと笑った。
「あなた、ミレイユにはその感想を言わないほうがいいわ」
「もう本人に言ったことがある」
「えっ?」
「鳥を見て、走るのが得意そうだと言ったら、なぜか怒られた」
エレナはとうとう笑い声を上げた。
「それは、ミレイユが鳥を王様にしたかったからよ」
「王様なら、走る必要はないと思うんだが……」
「そういう問題ではないの!」
笑いながら扉を開けると、室内にはすでにミレイユ・ローゼンの姿があった。
「おはよう、二人とも!」
彼女は机の上に紙を広げていた。
その隣には、木製の駒を入れた箱と、色鉛筆が並んでいる。
「ミレイユ、何をしているの?」
「子供たちが描いた絵を、少し整理していたの。それでね、これを見て!」
ミレイユは一枚の紙を差し出した。
そこには、前回の竜と小鳥の冒険とは別に、子供たちが描いた小さな絵が並んでいた。
海の上を進む船。
森の中で眠る動物。
空に浮かぶ、見たこともない形の島。
どれもまだ幼い筆跡だったが、一枚一枚に違った想像が込められている。
「素敵ね……」
エレナは紙を見つめた。
「これ、みんなが自分で描いたの?」
「ええ。前に来た子たちが、次は何を描きたいか教えてくれたでしょう? それを覚えておいて、次に来たときに描けるようにしておいたの」
「ありがとう、ミレイユ。子供たちも喜ぶと思うわ」
「ふふん。こういうことなら任せて!」
ミレイユが胸を張った、そのときだった。
「おはようございます」
入口から、落ち着いた声が聞こえた。
カイル・フェルディナが、いつもの騎士服姿で立っていた。
彼は片手に小さな木箱を持っている。
「カイル? 今日はどうしたの?」
ミレイユが尋ねると、彼は木箱を机に置いた。
「先日、玩具を作った見習いから頼まれた。前回のものが子供たちに好評だったと聞いて、追加で作ったそうだ」
箱を開けると、今度は小さな木製の船がいくつも入っていた。
船体は丸みを帯び、帆にはそれぞれ違う模様が刻まれている。
「わあ! かわいい!」
ミレイユが声を上げた。
「これなら、海の冒険を想像するときにも使えるわね!」
「そのために作ったのだろう」
カイルは短く答えた。
「それにしても、あなたって本当に頼りになるわね」
「運んできただけだ」
「またそれ?」
ミレイユは呆れたように肩をすくめた。
「どうして、いつも自分のしたことを小さく言うのかしら」
「事実だからだ」
「でも、あなたが届けてくれなかったら、私たちは受け取れなかったでしょう?」
カイルは返事に迷ったように、わずかに視線を逸らした。
「……そういうものか」
「そういうものよ」
ミレイユは満足そうに頷いた。
そのやり取りを見ていたエレナは、ルシアンと目を合わせた。
ルシアンは何も言わなかったが、どこか面白そうな表情をしていた。
カイルが気づいて眉を寄せる。
「殿下。何か?」
「いや。君も職人街の人たちと、ずいぶん親しくなったようだと思ってね」
「必要な連絡をしているだけです」
「そうか」
ルシアンは穏やかに頷いた。
その返事が妙に含みを持って聞こえたのか、カイルは少しだけ不審そうな顔をした。
ミレイユはそんな二人を見比べてから、楽しそうに笑った。
「さあ、せっかく船が届いたんだから、子供たちが来る前に置き場所を決めましょう!」
彼女は木箱から船を取り出し、机の上に並べ始めた。
そのとき、エレナはふと、壁に飾られた竜と小鳥の絵に目を向けた。
その下には、子供たちが続きを描くための白い紙が貼られている。
前回、エレナはそこに『つづきは、みんなで』と書いた。
まだ、何も描かれていない。
けれど、その白い紙を見るたびに、彼女は新しい物語が始まる瞬間を想像していた。
やがて、扉の外から子供たちの声が聞こえてきた。
「お姉さん! 今日は船があるの!?」
最初に駆け込んできたのは、竜の物語が大好きな男の子だった。
彼は机に並んだ木製の船を見つけると、目を輝かせた。
「すごい! 本当に船がある!」
「今日はこれを使って、海の冒険を考えてみましょうか」
エレナが提案すると、男の子は大きく頷いた。
「うん! 竜と小鳥が船に乗るんだ!」
「竜も船に乗るの?」
ミレイユが尋ねる。
「もちろん! 大きな船なら乗れるよ!」
「でも、竜が大きすぎたら船が沈んでしまうかもしれないわ」
「じゃあ、竜が小さくなれる魔法を使うんだ!」
男の子は即座に答えた。
ミレイユは感心したように目を丸くした。
「まあ、便利な魔法ね!」
「そうでしょう?」
男の子は得意げに胸を張った。
その会話を聞いていたほかの子供たちも集まり、それぞれの考えを口にし始めた。
竜は船の帆を風で動かす。
小鳥は高い空から宝島を探す。
船の底には、海の生き物たちが道を教えてくれる秘密の窓がある。
子供たちの想像は、止まることなく広がっていった。
エレナは一つひとつの言葉に耳を傾け、紙に書き留めていく。
最初は、物語の続きをどうすればいいのか分からなかった子も、誰かの案を聞くうちに新しい考えを思いついていた。
その様子を見て、エレナは気づいた。
物語を作るというのは、必ずしも一人で机に向かって考えることではないのだ。
誰かの言葉を聞き、自分の考えを伝え、時には違う意見に驚きながら、一緒に形にしていくこともできる。
「エレナお姉さん!」
男の子が彼女を呼んだ。
「このお話、最後はどうなるの?」
エレナはすぐには答えなかった。
以前なら、物語をきれいにまとめる方法を考えたかもしれない。
けれど、今は違う。
「そうね……みんなは、どうなったら嬉しい?」
彼女が尋ねると、子供たちは顔を見合わせた。
「宝物を見つける!」
「海の向こうにある国へ行く!」
「最後は、みんなでお祝いするの!」
それぞれの声が重なった。
エレナは微笑み、紙の上に新しい一文を書いた。
『竜と小鳥は、仲間たちと一緒に、まだ誰も知らない海へ旅立ちました』
「この続きは、また次に考えましょう」
「ええっ、もう終わり?」
男の子が残念そうに声を上げた。
「大丈夫よ。物語は逃げていかないもの。またここへ来たときに、続きを作ればいいわ」
男の子は少し考えてから、頷いた。
「……うん! 次は、宝島を見つけるんだ!」
その言葉に、周りの子供たちも嬉しそうに笑った。
エレナは壁の白い紙を見つめた。
そこには、子供たちの新しい絵が少しずつ増えていた。
竜が船に乗る絵。
小鳥が空を飛ぶ絵。
海の底で道を示す魚の絵。
どれも一人では思いつかなかった、みんなで作った物語の一部だった。
その日の読み聞かせが終わり、子供たちが帰り始めた頃。
エレナは机の上に残された一枚の紙を見つけた。
そこには、小さな船と、船の上で手を振る竜が描かれている。
絵の下には、少し不揃いな文字でこう書かれていた。
『つぎは、みんなでたからじまへいく』
エレナは、その紙をそっと手に取った。
「……素敵な約束ね」
隣にいたルシアンが頷く。
「うん。次にここへ来る理由が、もうできている」
「ええ。子供たちが、自分たちで作った物語の続きを楽しみにしてくれるなんて……」
エレナは微笑んだ。
この場所を作ると決めたとき、彼女が願っていたのは、子供たちが自由に本を読める場所を用意することだった。
けれど、今はそれだけではない。
ここには、誰かの想像を受け止めてくれる人がいる。
自分の考えを話してもいいと思える空気がある。
そして、次に来る日を楽しみにできる、小さな約束が生まれている。
それは、どんなに立派な建物を用意しても、自然に手に入るものではないだろう。
人と人が一緒に過ごし、少しずつ育てていくものなのだ。
「ねえ、ルシアン」
「何だい?」
「私、この読書室をもっと大切に育てていきたいわ」
「うん。君ならできると思う」
「でも、いつか子供たちがここを卒業する日も来るのよね」
エレナは少しだけ寂しそうに笑った。
「本を読むことが好きになった子が、もっと遠い場所へ行きたいと思うかもしれない。新しい夢を見つけて、別の道を選ぶかもしれないわ」
「それなら、送り出してあげればいい」
ルシアンは静かに答えた。
「ここで何かを見つけた子が、自分の足で次の場所へ進んでいく。それも、君が望んでいることじゃないかな?」
エレナは目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
「……そうね」
子供たちを、いつまでもこの場所に留めておく必要はない。
ここで出会った物語を胸に、まだ知らない世界へ進んでいく。
それこそが、彼女の作りたかった場所なのかもしれない。
ルシアンは、エレナの手をそっと取った。
「君自身も、そうやって新しい場所を見つけてきたんだろう?」
「ええ。だからこそ、みんなにも自分の道を見つけてほしいの」
二人は微笑み合った。
その様子を、少し離れた場所から見ていたミレイユが、カイルの袖を軽く引いた。
「ねえ、カイル」
「何だ?」
「あの二人って、いつ見ても自然に手を繋ぐわね」
「そうだな」
「……あなたは、そういうことをしないの?」
何気ない口調だった。
けれど、カイルは一瞬だけ言葉を失った。
「どういうことだ?」
「だから、誰かと手を繋いだり、優しい言葉をかけたりすることよ」
「必要があればするだろう」
「必要があれば、なのね……」
ミレイユは小さく溜息をついた。
「あなたって、本当に騎士らしい答え方をするのね」
「それは褒めているのか?」
「どうかしら?」
彼女は笑って誤魔化した。
カイルは、なぜか少しだけ気になった。
ミレイユは普段、何を言われてもすぐに言い返してくる。
それなのに今は、いつものように笑いながら、どこか違うことを考えているように見えた。
「……ミレイユ」
「何?」
「何か気になることがあるなら、言えばいい」
ミレイユは彼の顔を見つめた。
そして、ふっと笑った。
「それなら、いつか聞いてみようかしら」
「何を?」
「秘密!」
また、それだった。
カイルは小さく息を吐いたが、今度は本気で困った顔をするだけだった。
ミレイユはそんな彼を見て、楽しそうに笑った。
まだ、二人の間に特別な約束があるわけではない。
互いの気持ちを、はっきりと言葉にしたこともない。
けれど、こうした何気ない会話が、少しずつ二人の距離を変えていくのかもしれなかった。
夕方、読書室の扉を閉める前に、エレナはもう一度、壁の絵を見上げた。
竜と小鳥は、船に乗って海へ向かおうとしている。
その先には、まだ描かれていない景色が広がっている。
宝島があるのか。
新しい仲間が待っているのか。
それとも、思いがけない出来事が起こるのか。
今は、誰にも分からない。
それでも、子供たちは次にここへ来たとき、その続きを自分たちで考えるだろう。
エレナは、そっと微笑んだ。
物語は、まだ終わらない。
そして、この読書室で生まれる小さな約束も、まだ始まったばかりだった。




