初めて迎えた、小さな読者たち
朝の光が職人街の屋根を照らし始めた頃、エレナ・ヴァレンティアは読書室の扉の前に立っていた。
今日は、待ちに待った開室の日。
昨日まで何度も確認した本棚も、机も、子供たちが描いた案内板も、すべていつもと変わらない場所にある。
それなのに、今朝は何もかもが違って見えた。
「……よし」
エレナは小さく頷き、扉の鍵を開けた。
室内に入ると、まず窓を開けて空気を入れ替える。それから、机の位置を確かめ、椅子を整え、本が棚からはみ出していないかを確認した。
最後に、読み聞かせに使う本を机の上に置く。
準備は整っている。
それでも、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
「エレナ、もう三回目よ」
入口から声がして、振り返る。
そこには、籠を片手に持ったミレイユ・ローゼンが立っていた。
「何が?」
「机の位置を確認するの。さっきから、同じところを何度も見ているわ」
「そ、そうだったかしら?」
「ええ。あなたが緊張しているのは分かるけれど、机は逃げたりしないわよ」
「分かっているわ!」
エレナは思わず頬を膨らませた。
ミレイユは楽しそうに笑い、籠を机の上に置いた。
「はい。今日のお手伝い道具よ」
「何を持ってきたの?」
「予備の紙と鉛筆。それから、子供たちが使えるように、小さな布も用意したの。机を汚してしまっても、すぐに拭けるでしょう?」
「ありがとう、ミレイユ。助かるわ」
「どういたしまして!」
ミレイユは得意げに胸を張った。
そのとき、入口の外から足音が聞こえてきた。
「おはようございます」
現れたのはマルタだった。
彼女は室内を見渡し、エレナに向かって頷いた。
「準備は問題なさそうだね。今日は私もここにいるから、困ったことがあれば遠慮なく言っておくれ」
「ありがとうございます」
「それから、子供たちが一度にたくさん来たら、入口で名前を確認して、保護者の迎えの時間も忘れずにね」
「はい。確認表も用意してあります」
エレナが帳面を見せると、マルタは満足そうに微笑んだ。
「よし。それじゃあ、始めようか」
その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸が大きく跳ねた。
いよいよだ。
自分が願い、たくさんの人に助けてもらいながら準備してきた場所に、初めて子供たちがやって来る。
エレナは扉のそばに立ち、外の様子を窺った。
しばらくすると、通りの向こうから小さな影が二つ現れた。
母親らしき女性と、その手を握った男の子だった。
男の子は入口の看板を見上げている。
王冠をかぶった鳥の絵に気づくと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「お母さん、あの鳥、王様なの?」
「どうかしら。聞いてみたら?」
女性は男の子の背中を優しく押した。
エレナは慌てて姿勢を正した。
「お、おはようございます!」
少し声が大きくなってしまった。
男の子は驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく頭を下げた。
「……おはよう」
「今日は来てくれてありがとう。ここでは本を読んだり、お絵描きをしたりできるのよ。好きなものを見つけて、ゆっくり過ごしていってね」
男の子はエレナの顔を見てから、そっと室内を覗いた。
「本、いっぱいある?」
「ええ。竜のお話も、動物のお話もあるわ」
「竜!?」
それまで少し緊張していた男の子の表情が、ぱっと明るくなった。
「竜の本、あるの!?」
「もちろんよ」
エレナが棚を指さすと、男の子は母親を振り返った。
「お母さん、入ってもいい?」
「ええ。約束を守って、楽しく過ごすのよ」
「うん!」
男の子は元気よく返事をすると、読書室へ駆け込んだ。
その背中を見送ったエレナは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
最初の一人。
この場所を、自分の足で訪れてくれた子供。
その事実だけで、これまでの苦労が報われたような気がした。
しかし、感動に浸っている暇はなかった。
「エレナ! 竜の本はどこ!?」
「こっちよ。走らないでね!」
男の子は棚の前まで行くと、並んだ本の背表紙を一つずつ見つめた。
エレナは彼の隣にしゃがみ、竜の絵が描かれた一冊を取り出した。
「これが竜のお話よ」
「わあ……!」
表紙には、大きな翼を広げた竜と、その背中を見上げる小さな旅人が描かれていた。
男の子は本を受け取ると、まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせた。
「これ、読んでもいい?」
「もちろん。椅子に座って読もうか?」
「うん!」
男の子が机に向かうのを見届けたところで、次の子供たちがやって来た。
今度は、姉妹らしい二人組だった。
姉は少し恥ずかしそうに入口で立ち止まり、妹は案内板の鳥を指さして笑っている。
「お姉ちゃん、あの鳥、足が長いよ!」
「本当ね。どうしてこんなに長いのかな?」
「飛ぶより走るほうが得意なんじゃない?」
そんな会話が聞こえてきて、ミレイユが肩を震わせた。
「……ふふっ」
「ミレイユ、笑っては駄目よ」
「笑ってないわ。ちょっと感動しているだけ!」
そう言いながら、ミレイユの口元は明らかに緩んでいた。
エレナは苦笑しつつ、姉妹を迎え入れた。
「いらっしゃい。好きな本を探してみてね」
姉は動物の絵本を手に取り、妹は紙と鉛筆の置かれた机に興味を示した。
やがて、さらに二人、三人と子供たちが集まり始めた。
予定していた人数を大きく超えることはなかったが、初めての場所に戸惑う子もいれば、目当ての本を見つけて夢中になる子もいた。
エレナは一人ひとりに声をかけ、読みたい本を探す手伝いをした。
ミレイユは子供たちと一緒に絵を描き、マルタは室内全体を見守りながら、必要なときには静かに助言をしてくれた。
最初の緊張は、少しずつ薄れていった。
そして、読み聞かせの時間がやって来た。
「みんな、少しだけこちらに集まってくれる?」
エレナが声をかけると、子供たちはそれぞれ本を置いて集まってきた。
竜の本を読んでいた男の子は、名残惜しそうに表紙を撫でている。
「その本も、あとでまた読めるわよ」
「本当?」
「ええ。今日は、みんなに一つのお話を聞いてもらいたいの」
エレナは用意していた本を手に取った。
「小さな鳥が、まだ見たことのない世界を目指して旅をするお話よ」
子供たちは椅子に座ったり、敷物の上に腰を下ろしたりして、エレナを見つめた。
エレナは一度、ゆっくりと息を吸った。
大丈夫。
いつものように、物語を読めばいい。
彼女は本を開いた。
「むかしむかし、小さな森に、一羽の鳥が住んでいました――」
最初は、少し緊張していた。
声が震えないように気をつけながら、一文ずつ丁寧に読んでいく。
小鳥が旅立つ場面では、子供たちが身を乗り出した。
雨に降られる場面では、妹のほうが心配そうに眉を寄せた。
そして、道に迷った小鳥が仲間と出会う場面では、姉が小さく笑った。
「よかったね……」
その呟きが聞こえ、エレナは思わず微笑んだ。
物語の中の小さな出来事が、子供たちの心に届いている。
それが分かるだけで、声を出すことが楽しくなっていった。
やがて、最後のページにたどり着いた。
「小鳥は、自分の翼で空を飛び、まだ知らなかった美しい景色を見つけました。そして、いつかまた新しい場所へ旅立とうと、心に決めたのでした」
エレナは本を閉じた。
「……おしまい」
静かな時間が流れた。
誰もすぐには口を開かなかったので、エレナは少し不安になった。
もしかして、退屈だったのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった、そのとき。
「ねえ、お姉さん!」
竜の本を読んでいた男の子が、勢いよく手を挙げた。
「この鳥、次はどこに行くの!?」
「え?」
「だって、最後に新しい場所へ行くって言ったでしょう? 今度は海に行くのかな。それとも、竜がいる山?」
その言葉を聞いた途端、周りの子供たちも口々に話し始めた。
「私は、雪がいっぱいあるところがいい!」
「ぼくは、お菓子の国!」
「そんな国、本当にあるの?」
「物語の中ならあるかもしれないよ!」
子供たちの声が、部屋いっぱいに広がった。
エレナは目を丸くしたあと、ゆっくりと笑顔になった。
「そうね。どこへ行くかは、まだ決まっていないのかもしれないわ」
「じゃあ、ぼくたちで考えてもいい?」
「もちろんよ」
エレナは頷いた。
「物語の続きを想像するのも、読書の楽しみの一つだから」
その言葉に、子供たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
読み聞かせが終わると、今度は絵を描く時間になった。
小鳥の続きを描く子もいれば、自分の好きな動物を描く子もいる。
竜の本を読んでいた男の子は、紙いっぱいに大きな竜を描き、その背中に小さな鳥を乗せていた。
「すごいわね。鳥が竜と一緒に旅をしているの?」
「うん! 今度は二人で海を見に行くんだ!」
「素敵ね」
エレナがそう言うと、男の子は照れくさそうに笑った。
その様子を見ていたミレイユが、隣から紙を覗き込んだ。
「ねえ、私も描いていい?」
「いいよ!」
「それじゃあ、私も鳥を描こうかしら」
ミレイユは鉛筆を手に取り、勢いよく紙の上を走らせた。
数分後。
「……ミレイユ?」
エレナは出来上がった絵を見つめた。
そこには、翼を広げた鳥が描かれていた。
ただし、その足はやはり妙に長く、頭には王冠が載っている。
「この鳥、王様なの?」
男の子が尋ねる。
「そうよ! この鳥は、どんな場所へでも飛んでいける立派な王様なの!」
「でも、足が長いよ?」
「長い足があれば、歩くのも速いでしょう?」
「……そうなの?」
男の子は真剣に考え始めた。
エレナは笑いを堪えながら、そっと顔を背けた。
そのとき、入口のほうから低い声がした。
「ずいぶん賑やかだな」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
彼は室内を見渡し、子供たちの絵や机に並ぶ本に目を留めた。
「間に合ったようだね」
「ルシアン!」
エレナは嬉しそうに歩み寄った。
「来てくれたのね」
「約束したからね。どんな様子か、見てみたかったんだ」
その声を聞いた子供たちが、一斉に彼のほうを向いた。
「お兄さん、誰?」
「エレナの知り合い?」
「騎士様なの?」
質問が次々と飛んできて、ルシアンは一瞬だけ言葉に詰まった。
王宮では、彼に直接質問する者はほとんどいない。
ましてや、こんなに遠慮なく話しかけられることなど滅多になかった。
エレナは笑いながら紹介した。
「こちらはルシアン。今日は、みんなが楽しく過ごせているか見に来てくれたのよ」
「本、読むの?」
男の子が尋ねた。
「そうだね。俺も一冊選んでみようかな」
「じゃあ、竜の本がおすすめだよ!」
「竜か。面白そうだね」
ルシアンは男の子の隣に腰を下ろし、一緒に本を開いた。
その光景を見ていたエレナは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ここには、王子としてのルシアンも、過去の人生を覚えているルシアンもいない。
ただ、一人の青年が子供と一緒に物語を楽しんでいる。
それが、何より嬉しかった。
やがて、最初の利用時間が終わりに近づいた。
子供たちは使った鉛筆を戻し、本を棚へ返し、描いた絵を大切そうに持ち帰る準備を始めた。
「また来てもいい?」
帰り際、男の子がエレナに尋ねた。
「もちろんよ。次も、好きな本を探しに来てね」
「うん! 次は、竜が海を旅するお話を読みたい!」
「それなら、どんな本があるか一緒に探しましょう」
男の子は満面の笑みを浮かべ、母親の手を握って帰っていった。
ほかの子供たちも、次に読みたい本や描きたい絵の話をしながら、少しずつ帰っていった。
最後の子供を見送ったあと、エレナは扉を閉めた。
静けさが戻った室内には、子供たちが描いた絵が数枚残されていた。
片づけを始めようとしたエレナは、その中の一枚に目を留めた。
小さな鳥が、竜の背中に乗っている。
その隣には、少し歪んだ文字で、こう書かれていた。
『つぎは、うみへいく』
エレナはその絵を手に取り、そっと胸に抱いた。
「……楽しかった」
思わず、言葉がこぼれた。
準備の間、何度も不安になった。
うまくいくだろうか。
子供たちは喜んでくれるだろうか。
自分に、この場所を続けていけるだろうか。
その答えは、まだすべて分かったわけではない。
けれど、少なくとも今日、子供たちは笑ってくれた。
そして、また来たいと言ってくれた。
それだけで、最初の一歩としては十分だった。
「エレナ」
ルシアンが隣に立った。
「今日は、よく頑張ったね」
「ありがとう。でも、私だけじゃないわ。ミレイユも、マルタさんも、カイルも……協力してくれた人たちみんなのおかげよ」
「うん。だからこそ、君が最初の一歩を踏み出したことには意味があるんだと思う」
エレナは手の中の絵を見つめた。
「この子が、次はどんな本を選ぶのか楽しみだわ」
「次は竜が海を旅する話だったね」
「ええ。そんな本があるか、探してみなくちゃ」
「なければ、君が作ってみてもいいんじゃないかな?」
エレナは顔を上げた。
「私が?」
「今日の子供たちは、物語の続きを自分で考えていた。君がその続きを書いてあげたら、きっと喜ぶと思うよ」
その言葉に、エレナの胸の奥で小さな期待が芽生えた。
物語を書く。
今まで考えたこともなかった。
けれど、子供たちが自分の想像を楽しそうに話していた姿を思い出すと、少しだけ挑戦してみたいと思った。
「……いつか、やってみようかしら」
「君なら、きっと素敵な物語を書けるよ」
ルシアンは優しく微笑んだ。
エレナも笑顔を返し、子供たちの絵を棚の一角に飾った。
竜と小鳥の絵は、読書室の中でもよく見える場所に置かれた。
次に訪れた子供が、それを見て物語の続きを考えられるように。
ここでは、物語は本の中だけで終わらない。
読んだ人の心に残り、新しい想像を生み、誰かと分かち合うことで、また別の物語へとつながっていく。
そのことを、エレナは今日初めて実感した。
窓の外では、夕暮れの光が職人街を包み始めていた。
初めての開室日は、こうして無事に終わった。
けれど、読書室の物語は、まだ始まったばかりだった。




