初めて扉を開く日
読書室の開室まで、あと二週間。
その日から、エレナ・ヴァレンティアの毎日は、これまで以上に慌ただしくなった。
朝は協力してくれる人たちの当番表を確認し、昼には職人街を訪れて必要なものを揃え、夕方には読書室へ戻って最終的な準備を進める。
もちろん、すべてが順調に進むわけではない。
「……どうして、しおりがこんなに増えているの?」
読書室の机に積み上がった紙の束を見つめ、エレナは首を傾げた。
「子供たちが好きな絵を描けるようにと思って、少し多めに用意したのよ!」
向かい側では、ミレイユ・ローゼンが満足そうに頷いている。
「少し?」
「ええ、少し!」
「これ、百枚以上あるわよ……?」
「子供たちが気に入ったら、何枚でも使えるでしょう?」
ミレイユの言い分は、決して間違っていない。
しかし、目の前の紙の山を見ていると、エレナは本当にこれをすべて使い切れるのだろうかと心配になった。
「それに、見て!」
ミレイユは一枚の紙を取り上げた。
そこには、緑色の羽根を持つ鳥が描かれている。大きな目に、長い足。そして、なぜか頭の上には小さな王冠まで載っていた。
「子供たちが自分で描いた絵をしおりにできたら、きっと喜ぶと思うの」
「それは素敵ね。でも、この鳥は……」
「かわいいでしょう?」
「ええ。とても個性的だと思うわ」
「その言い方、少し気になるのだけれど?」
ミレイユが頬を膨らませたところで、入口から落ち着いた声が聞こえた。
「何の話をしているんだ?」
振り返ると、濃い茶色の髪に灰色の瞳を持つ騎士、カイル・フェルディナが立っていた。
彼は腕に木箱を抱えている。
「カイル! ちょうどいいところに来たわ!」
ミレイユは待っていましたと言わんばかりに駆け寄った。
「これを見て!」
差し出された鳥の絵を見て、カイルは数秒間、黙り込んだ。
「……鳥、なのか?」
「そうよ!」
「そうか」
「それだけ!?」
「ほかに何を言えばいい?」
「もう少し感想があるでしょう! たとえば、かわいいとか、元気が出るとか!」
カイルは改めて絵を見つめた。
「元気なのは伝わってくる」
「ほら! やっぱり分かってくれる人はいるのよ!」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
エレナは思わず口元を押さえた。
どうやら、カイルの何気ない一言で、ミレイユの機嫌はすっかり直ってしまったらしい。
「それで、木箱には何が入っているの?」
エレナが尋ねると、カイルは机の上に箱を置いた。
「職人街の見習いから預かってきた。子供たちが使うための木製の駒と、積み木だそうだ」
蓋を開けると、丁寧に磨かれた小さな木片が並んでいた。
丸や三角、四角の形をしたものに加え、家や塔を作れそうな細長い部品もある。
「本を読むだけでは、長い時間じっとしているのが苦手な子もいるだろう。そういう子が休憩中に使えるように、と言っていた」
「まあ……!」
エレナは木片を一つ手に取った。
角は滑らかに削られ、ささくれもない。小さな子供が触れても危なくないよう、細かいところまで気を配って作られている。
「見習いの方が、こんなに丁寧に作ってくださったのね」
「本人は、まだ練習のようなものだと言っていたがな」
「それでも、こんなに素敵なものを作れるなんてすごいわ」
エレナは木箱を大切そうに閉じた。
この読書室は、エレナ一人の力で作られているわけではない。
誰かが本を寄付してくれた。
誰かが布を提供してくれた。
誰かが棚を直し、誰かが案内板を作り、そして今、新しい遊び道具まで届けてくれた。
それぞれができることを持ち寄り、少しずつ形になっている。
そのことが、何より嬉しかった。
「カイルも、わざわざ届けてくれてありがとう」
「俺は運んできただけだ」
「でも、助かったわ」
エレナが微笑むと、カイルは小さく頷いた。
その横で、ミレイユがじっと彼の顔を見つめている。
「……何だ?」
「別に?」
「何か言いたそうだが」
「カイルって、こういうところでは意外と気が利くのね」
「こういうところでは、とはどういう意味だ?」
「そのままの意味よ」
ミレイユは悪戯っぽく笑った。
「いつも難しい顔をしているから、子供たちにも怖がられるんじゃないかと思っていたけれど、案外優しいのね」
「俺は、子供たちを怖がらせるつもりはない」
「でも、あなたが入口に立っていたら、悪いことをした子は逃げ出しそうだわ」
「……それは、君が余計なことを言うからではないか?」
「まあ!」
二人のやり取りを聞きながら、エレナは静かに笑った。
以前なら、こうした何気ない会話の中にも、周囲の運命を示す糸を探していたかもしれない。
けれど今のエレナに見えるのは、目の前にいる人たちの表情と、その言葉に込められた気持ちだけだ。
そして、それで十分だった。
誰かの心を理解するために、特別な力は必要ない。
相手を見て、話を聞いて、分からないことがあれば尋ねる。
そうやって少しずつ知っていけばいいのだ。
「さて、準備を進めましょう」
エレナは手を叩き、気持ちを切り替えた。
「まずは、木のおもちゃをどこに置くか決めたいわ。それから、しおり用の紙も整理して……」
「待って、エレナ!」
ミレイユが勢いよく手を挙げた。
「その前に、ひとつ大事なことがあるわ!」
「大事なこと?」
「ええ。読書室の名前を、子供たちにも覚えてもらわなくちゃ!」
エレナは少し考えた。
「名前なら、もう決めてあるでしょう?」
「もちろん。でも、名前を書いた看板を、入口に飾ったらどうかしら?」
「あ……!」
エレナの顔が明るくなった。
今ある案内板には、子供たちが描いた絵がたくさん並んでいる。しかし、読書室そのものの名前は、まだ入口に掲げていなかった。
「そうね。初めて来る子にも、ここがどんな場所なのか分かるようにしたいわ」
「でしょう? それなら、私が文字を書いてもいいわよ!」
「ミレイユ、文字は丁寧にお願いね」
「もちろんよ!」
自信満々に答えるミレイユを見て、カイルが小さく呟いた。
「鳥の絵のような文字にならなければいいが……」
「カイル!」
「事実を述べただけだ」
「もう! あなたには絶対に看板を見せてあげないんだから!」
そんな二人の声を聞きながら、エレナは新しい板を取り出した。
看板の上には、読書室の名前を書くための余白がある。
その下には、子供たちの絵を飾るつもりだった。
どんな看板になるだろう。
きっと、立派な宮殿にあるような豪華なものではない。
けれど、ここに集まる人々の思いが詰まった、温かい看板になるはずだ。
それから数日間、読書室では開室に向けた準備が続いた。
エレナは協力者たちと当番表を完成させ、利用する子供たちの人数を確認するための案内を作った。
マルタは鍵の管理方法を決め、開室前には必ず二人以上の担当者が室内を確認することになった。
本棚の近くには、子供たちが使える小さな椅子が置かれた。
窓際には、寄付された布を使った敷物が敷かれた。
そして入口には、ミレイユが心を込めて書いた看板が掲げられた。
その文字は少し大きさが不揃いだったが、遠くからでもよく見えた。
看板の下には、あの王冠をかぶった鳥の絵も飾られている。
「……本当に、これでよかったのかしら」
エレナは看板を見上げ、苦笑した。
「もちろんよ! この鳥は、読書室の立派な案内役なんだから!」
ミレイユは胸を張った。
「そうか。では、迷子になった子供たちを案内してくれるのか?」
通りかかったカイルが真顔で言った。
「そういう意味じゃないわよ!」
ミレイユの抗議に、エレナはとうとう声を上げて笑った。
準備は、少しずつ整っていった。
そして、開室前日の夕方。
エレナは一人で読書室を訪れた。
明日になれば、ここに子供たちがやって来る。
扉を開け、本棚の前に立ち、初めての一冊を選ぶ子がいるだろう。
絵を描くことに夢中になる子もいるだろう。
知らない物語に目を輝かせる子もいるかもしれない。
けれど、すべてが思い描いたとおりに進むとは限らない。
子供たちが本に興味を持たなかったら。
読み聞かせがうまくいかなかったら。
用意したものが足りなくなったら。
考え始めると、不安は次々と浮かんできた。
エレナは小さく息を吐いた。
「……大丈夫。困ったら、また考えればいいのよね」
そう呟いてから、彼女は最初に読む予定の本を手に取った。
小さな鳥が、まだ見ぬ世界を目指して旅立つ物語だった。
鳥は途中で道に迷い、雨に降られ、何度も帰ろうとする。
それでも、出会った仲間たちに助けられながら、少しずつ前へ進んでいく。
最後には、自分の翼で空を飛び、ずっと遠くにある景色を見つけるのだ。
読み終えたエレナは、本を胸に抱いた。
この物語を選んだのは、子供たちがどんな感想を持つか知りたかったからだ。
勇気をもらう子がいるかもしれない。
鳥の旅よりも、途中で出会う動物たちのほうを気に入る子がいるかもしれない。
それなら、それも素敵なことだ。
物語の受け取り方は、人それぞれなのだから。
「明日、みんなに会えるのね」
そのとき、入口から足音が聞こえた。
「エレナ?」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
「ルシアン。どうしてここに?」
「君がまだ準備をしているかもしれないと思ってね。迎えに来たんだ」
彼は室内を見渡し、柔らかく微笑んだ。
「ずいぶん素敵な場所になったね」
「みんなのおかげよ。私一人では、ここまでできなかったわ」
「それでも、最初にこの場所を作りたいと思ったのは君だ」
ルシアンは、エレナが抱えている本に目を向けた。
「明日の読み聞かせに使う本?」
「ええ。どんな反応をしてくれるか、今から楽しみなの」
「きっと、君が思っている以上に、いろいろな反応があるだろうね」
「……それは、少し怖いわ」
「なら、俺も一緒に楽しみにしておくよ」
ルシアンはそう言って、彼女の隣に立った。
二人はしばらく、静かな読書室を眺めていた。
かつてエレナは、目に見えない糸によって人と人とのつながりを知ろうとしていた。
けれど今、彼女の周りには、手を差し伸べてくれる人たちがいる。
自分の言葉を聞いてくれる人がいる。
そして、自分が大切にしたいものを、一緒に守ろうとしてくれる人がいる。
それは、目に見える糸がなくても、確かに感じられるつながりだった。
「ルシアン」
「うん?」
「明日、もし私が緊張してしまったら……そばにいてくれる?」
「もちろん」
彼は迷うことなく答えた。
「ただし、読み聞かせの途中で俺の顔ばかり見ていたら、子供たちに気づかれるかもしれないよ」
「もう。そんなことしないわ」
「それなら安心だ」
ルシアンの微笑みに、エレナも笑顔を返した。
やがて二人は扉を閉め、帰り道を歩き始めた。
明日、この部屋に初めて子供たちがやって来る。
どんな一日になるのか、まだ誰にも分からない。
けれど、分からないからこそ、楽しみにできることもある。
エレナは夜空を見上げた。
星々が、静かに輝いている。
明日はきっと、忘れられない一日になる。
そう思いながら、彼女はルシアンの手を握った。
そして翌朝。
読書室の扉が、初めて子供たちを迎えるために開かれることになる。




