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読書室に灯る、最初の明かり

 読書室の窓から差し込む朝の光が、新しく磨かれた机の上に柔らかな模様を描いていた。


 壁際には、子供たちが描いた案内板が並んでいる。竜の絵に、鳥の絵、帆船や地図。それぞれ少しずつ違う色使いと形が、この部屋を特別な場所にしていた。


 エレナ・ヴァレンティアは、最後の本を棚に戻してから、部屋の中をゆっくりと見渡した。


「……本当に、ここまで来たのね」


 思わずこぼれた言葉に、隣で帳面を確認していたルシアンが顔を上げる。


「まだ終わっていないだろう?」


「そうだけれど……最初は、古い集会所を見つけただけだったのよ。子供たちが本を読める場所があったらいいな、って思っただけで」


「そして、君はその思いを形にするために、ここまで進めてきた」


 ルシアンは穏やかに微笑んだ。


「俺は手伝っただけだ。ここまで動かしてきたのは、君自身だよ」


 その言葉が、胸の奥にじんわりと広がった。


 以前のエレナなら、こんな大きなことを自分にできるとは思わなかったかもしれない。


 けれど今は違う。


 できるかどうか分からなくても、まず一歩を踏み出してみる。誰かに相談し、失敗しそうになれば考え直し、それでも諦めずに進んでいく。


 そうして少しずつ、目の前の景色を変えてきたのだ。


「よし。では、今日は最後の確認だな」


 ルシアンが帳面を閉じる。


「マルタさんとの約束は午後だったね」


「ええ。修繕箇所の確認と、運営の方法について相談する予定よ」


「問題がなければ、開室日を決められるかもしれない」


「……そうね」


 期待が膨らむ一方で、エレナの指先には少し力が入っていた。


 部屋を整えることと、実際に子供たちを迎えることは違う。


 安全に過ごせる場所であること。誰が鍵を管理するのか。毎日誰かが見守れるのか。具合が悪くなった子がいたときにはどうするのか。


 楽しいことだけを考えていてはいけない。


 だからこそ、マルタの最終確認を受けることは大切だった。


「大丈夫。気になることがあれば、今日のうちに一つずつ解決しましょう」


 ルシアンの言葉に、エレナは頷いた。


「ええ。ちゃんと準備をして、子供たちを迎えたいもの」


 そのとき、入口から聞き慣れた声が響いた。


「その意気よ、エレナ!」


 振り返ると、ミレイユが大きな籠を抱えて立っていた。籠の中には、色とりどりの布や紙、それに小さな袋がいくつも入っている。


「ミレイユ? それは何?」


「読書室で使うものよ。余った布を小さな敷物にできないかと思って、職人街の人たちに相談してきたの。それから、しおりに使えそうな紙も!」


「こんなにたくさん?」


「みんな、楽しみにしているのよ。自分たちが手伝った場所に、子供たちが来るんでしょう?」


 ミレイユは籠を机に置き、誇らしげに胸を張った。


「それに、私が何もしないで待っていられると思う?」


「……思わないわね」


「ちょっと! そこは否定してくれてもいいじゃない!」


 エレナが笑うと、ミレイユもすぐに笑い出した。


 その明るい声に、部屋の空気まで温かくなる。


「敷物は、窓際の椅子に使えそうね。しおりも、子供たちが自分で選べるようにしたら楽しそう」


「でしょう? 絵を描いてもらって、それをしおりにするのもいいと思うの!」


「それは素敵ね」


 話が弾み始めたところで、ルシアンが帳面をそっと持ち上げた。


「その前に、最後の確認を済ませよう。飾り付けを増やすのは、そのあとだ」


「……ルシアン様、こういうときだけ妙に現実的ですね」


 ミレイユがじっと彼を見つめる。


「こういうときだけ、とは?」


「いえ、なんでもありません!」


 ミレイユは素早く籠を抱え直した。


 エレナは二人のやり取りに笑いながら、棚の端に置かれた小さな木の机を見た。


 家具職人の見習いが、子供たちのために作ってくれたものだ。


 角は丁寧に丸められ、表面も滑らかに磨かれている。まだ何も置かれていないその机は、これからここで始まる時間を静かに待っているようだった。


 午後になり、マルタが読書室を訪れた。


 彼女は入口で一度立ち止まり、室内を見渡したあと、ゆっくりと中へ入ってきた。


「ずいぶん変わったね」


「はい。皆さんのおかげです」


 エレナは少し緊張しながら頭を下げた。


 マルタは壁の案内板に目を留めた。竜の絵の隣には、少し不格好な鳥が描かれている。翼が片方だけ大きく、足も妙に長い。


「これは……なかなか元気のいい鳥だね」


「ミレイユが描いたものです」


「なるほど。描いた人の性格がよく出ている」


「マルタさん!?」


 すぐ後ろでミレイユが声を上げた。


 マルタは口元をほころばせ、それから真面目な表情に戻った。


「さて。部屋の様子は、前に見たときよりずっと良くなっている。棚も安定しているし、机の角も安全に処理されているね」


 彼女は棚を一つずつ確かめ、窓の留め具や扉の開閉も確認した。


 エレナたちは、その間、余計な口を挟まずに見守った。


 やがてマルタは帳面を開き、エレナがまとめた計画書に目を通した。


「本を読む時間と、読み聞かせの時間。それから、絵を描くための場所も設けるんだね」


「はい。子供たちが好きなことを見つけられるようにしたいんです。ただ、誰でも自由に使える場所にするなら、見守る人が必要ですし、利用の決まりも明確にしておきたいと思っています」


「その考えは大切だよ。では、運営についてはどうするつもりだい?」


 エレナは用意していた別の紙を差し出した。


「開室日は、まず週に三日から始めたいと考えています。私が来られる日は読み聞かせを担当して、ほかの日は、協力してくださる方に交代で見守っていただく形です」


 職人街の人々には、すでに何人か協力を申し出てくれた人がいる。


 ただし、全員が毎週決まった時間に来られるわけではない。そこでエレナは、無理のない範囲で参加できる当番表を作り、人数が足りない日は開室しない方針も記していた。


「鍵の管理は、私とマルタさんにお願いできればと思っています。利用する子供たちの名前も簡単に記録して、帰る時間を確認します。けがや体調不良があった場合の連絡先も、保護者の方に事前に伺うつもりです」


「よく考えているね」


 マルタは計画書を見つめた。


「けれど、最初から週に三日と決めてしまうと、人手が足りない週に困ることもある。初めの一か月は、週に二日から始めてみるのはどうだろう。実際に子供たちを迎えながら、必要な人数や時間を確かめていけばいい」


 エレナは少し考えたあと、頷いた。


「はい。そのほうが無理なく続けられそうです」


「それから、見守る人が一人だけになる日は開けないこと。子供たちが増えたときには、人数に合わせて担当を増やすこと。この二つは必ず守ってほしい」


「分かりました」


 マルタは最後の項目に目を通し、計画書を閉じた。


 短い沈黙が訪れる。


 エレナは膝の上で手を握った。


 ここまで準備を進めてきた。たくさんの人が力を貸してくれた。それでも、最後に判断するのは、この場所を管理するマルタだ。


 やがて彼女は、はっきりと頷いた。


「この内容なら、始めてみてもいいだろう」


「……本当ですか?」


「もちろん。ただし、最初は試験的な開室だよ。問題があれば、その都度話し合って改善すること。それを約束できるなら、私も協力しよう」


 胸の奥で、何かがふっとほどけた。


「ありがとうございます、マルタさん!」


 エレナは深く頭を下げた。


 何度も準備をやり直し、考え、相談してきた。その時間がようやく、一つの形になろうとしている。


 マルタはそんなエレナを見て、優しく微笑んだ。


「礼を言うのは、まだ早いよ。これからが本番なんだからね」


「はい!」


 エレナの返事には、先ほどまでの緊張とは違う力がこもっていた。


 開室日は、二週間後の火曜日に決まった。


 最初は午前中だけ。読み聞かせを一度行い、子供たちが本を選んだり、絵を描いたりする時間を設ける。参加する人数は事前に確認し、見守る人員も確保する。


 決して大きな催しではない。


 けれどエレナにとっては、自分の願いが初めて誰かの暮らしの中に根を下ろす、大切な一日になるはずだった。


 確認を終えたマルタが帰ると、ミレイユは籠を抱えたまま、ぱっと顔を輝かせた。


「やったわね、エレナ!」


「ええ……本当に」


「二週間後よ! 子供たちに知らせなくちゃ!」


「待って、まずは当番表を仕上げて、それから保護者の方にも案内を……」


「分かっているわ! ちゃんと順番にやるもの!」


 そう言いながら、ミレイユはすでに案内板の横に立ち、どこに告知を貼れば目立つか考えていた。


 エレナは苦笑しつつも、その姿を止めなかった。


 楽しみにしてくれる人がいる。


 力を貸してくれる人がいる。


 そして、この場所を必要としてくれるかもしれない子供たちがいる。


 それだけで、次にやるべきことが自然と見えてくる気がした。


「エレナ」


 ルシアンが静かに呼びかけた。


「少し、外の空気を吸いに行かないか?」


「今から?」


「うん。今日は朝からずっとここにいただろう。少しくらい休んでもいいと思う」


 エレナは部屋を見渡した。


 机も棚も、案内板も、ようやく整った。残りの準備はあるけれど、今すぐすべてを終わらせる必要はない。


「……そうね。少しだけなら」


 二人はミレイユに後を任せ、集会所の外へ出た。


 夕暮れが職人街の屋根を柔らかく染めている。工房からは木を削る音が聞こえ、通りには仕事を終えた人々の声が行き交っていた。


「開室日が決まって、ほっとした?」


 ルシアンに尋ねられ、エレナは頷いた。


「ええ。でも、少し怖くもあるわ。子供たちが本当に楽しんでくれるのか、私にちゃんとできるのか……考え始めると、いくらでも不安が出てくるの」


「それは、きっと自然なことだよ」


「自然なこと?」


「大切にしたいものがあるから、不安になるんだろう。何もかも思いどおりにいくとは限らない。でも、うまくいかなかったときに考え直せるように、君は準備をしてきた」


 ルシアンは、エレナの歩調に合わせてゆっくり歩いた。


「それに、君一人で全部を背負う必要はない。困ったときには、助けてほしいと言えばいいんだ」


「……あなたにも?」


「もちろん。俺にできることなら、喜んで」


 その返事があまりにも自然だったので、エレナは思わず笑ってしまった。


「そう言ってくれると思っていたわ」


「それなら、遠慮せずに頼ってくれ」


「ええ。でも、私が頼りすぎてしまったら?」


「そのときは、二人で相談しよう」


 彼らしい答えだった。


 未来を一人で決めつけず、困ったときには話し合う。以前、二人で交わした約束と同じだ。


 エレナはそっと手を伸ばした。


 ルシアンはその手を受け止め、指を絡める。


「ねえ、ルシアン」


「なんだい?」


「読書室が始まったら、最初の読み聞かせを聞きに来てくれる?」


「俺が?」


「ええ。子供たちの反応を見て、改善したほうがいいところがあったら教えてほしいの」


 ルシアンは少しだけ考えるふりをした。


「そうだな。では、俺も一人の利用者として参加しよう」


「利用者?」


「本を選ぶ時間もあるんだろう?」


「もちろんだけれど……あなたが子供たちと一緒に本を選ぶの?」


「何か問題があるかな?」


「いいえ。ただ、あなたが竜の物語を真剣に読んでいる姿を想像してしまって」


「それなら、君が読み聞かせをしてくれる姿を、俺も楽しみにしているよ」


 今度はエレナが言葉に詰まる番だった。


 夕暮れの中で、ルシアンの瞳が優しく細められる。


「最初の一冊は、もう決めたのかい?」


「まだよ。子供たちが選んだ本の中から、その日にみんなで決めたいと思っているの」


「いい考えだね」


「どんな物語を読みたいか、みんな違うでしょう? 竜の冒険が好きな子もいれば、動物のお話が好きな子もいる。遠い国を知りたい子もいるはずだわ」


 エレナは、読書室の棚に並んだ本を思い浮かべた。


 あの場所で、子供たちは何を見つけるだろう。


 物語の中に勇気を見つける子がいるかもしれない。絵を描く楽しさを知る子もいるかもしれない。今まで知らなかった世界に興味を持ち、いつか自分の足で旅立つ子もいるかもしれない。


 そのすべてを、エレナが決めることはできない。


 けれど、選ぶための場所を用意することならできる。


「私、やっぱりこの読書室を作ってよかったと思う」


 エレナがそう言うと、ルシアンは繋いだ手をそっと握り返した。


「まだ始まってもいないのに?」


「始まる前だからこそ、よ。これから何が起こるのか、楽しみにできるでしょう?」


「……そうだね」


 ルシアンは微笑んだ。


「俺も、楽しみにしている」


 通りの向こうでは、工房の窓に一つ、また一つと明かりが灯り始めていた。


 二週間後、あの読書室にも最初の明かりが灯る。


 それは大きな魔法でも、運命によって与えられた奇跡でもない。


 誰かが願い、誰かが手を貸し、何度も話し合いながら、一つずつ積み重ねてきたものだ。


 エレナは繋いだ手を見つめ、それから前を向いた。


 まだ知らない物語が、あの部屋で待っている。


 その最初のページを開く日は、もうすぐそこまで来ていた。

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