ⅩⅩⅢー1 魔の谷
■魔の谷
帰国後、マキは村に戻った。争乱の中で、しばらく研究できる環境はない。
村は静かだった。そして、相変わらず貧しかった。三歳下の弟マオリはすでに村を出ていた。行方もわからないとか。弟は両親を奪ったこの火の谷を憎んでいた。貧しい村も嫌っていた。弟は二度と村に戻るまい。
老人ばかりの村で、祖母はうれしそうに孫娘を迎えてくれた。
火の山は変わっていなかった。
翌日、マキは火の山に向かった。村人が「五里霧の谷」と呼んで怖れる魔の谷に、マキだけが知る秘密の洞窟があった。
五里霧の谷は、常に深い霧に覆われる谷だ。霧には硫黄が含まれ、有毒だった。さらに、ひとたび迷い込むと方向感覚を失い、出られなくなる。
マキが五歳の頃、一瞬霧が晴れた。火砕流で村が焼けたあとだった。マキは食べ物を探して谷に迷い込み、洞窟を見つけた。洞窟には清水が湧き、地熱で一定温度が保たれ、快適だった。近くには薬効豊かな温泉がある。いくつかのきのこや木の実を見つけた。村に戻って祖母に言うと、祖母はきつく叱った。二度とそこに行ってはいけない。霧の向こうにいったことを誰にも言ってはいけない。
だが、マキは秘かに洞窟に通うようになった。霧にはわずかにいくつかの色があり、色を見分けて進めば、害はなかった。洞窟はマキの秘密基地となった。マキはそこにいくつかのものを隠し続けた。村にいたころからずっと、ルキアに行っても、年に数度戻ってきては補充を続けた。いつか、この秘密基地が必要になるときが来る――そんな気がしていた。
いつものように火を灯し、本を開いた。
奥に何か異変を感じた。マキは身構えた。
「だれっ?」
のっそりと男が姿を現した。大きく見開いたマキの目が熱く潤んだ。
「サアム!」
「やあ、マキちゃん。ごめんね。キミの秘密基地を侵害しちゃった。非常食も多少失敬したよ」
マキはサアムに飛びついた。ワンワン、大声で泣いてしまった。サアムはじっとマキを受け止めた。
「どう? 落ち着いた?」
サアムの低めの声が耳元で響いた。
「あんた! いったいどうしてたのよっ?」
「ウン。心配してくれたの?」
「あたりまえじゃない! レッティーナだって、どれほど心配していたか!」
「うーん。ボクとしては、レッティーナよりもキミに心配してもらうほうがうれしいんだけど」
マキは思わずサアムの足を蹴り上げた。
「イテテッ!」と、蹴られた足を庇いながら、サアムはうれしそうに顔をほころばせた。
「何年ぶりだろう! 久しぶりの痛さと快感だ!」
「あんたは変わってないわねっ!」
サアムはマキを座らせ、マキの隣に座った。触れるか触れないかの距離をとる。
座ったサアムは黙り込んだ。マキが心配そうにサアムを見た。父親が反逆罪で処刑され、妻子と別れ、自分にも反逆罪の容疑がかけられている。
「ごめんね。すぐに出ていくから。マキちゃんに一目会いたかったんだ」
「ここを出て、どこに行くつもり? そこかしこに憲兵が立ってるわよ」
「……ウン。ここがわかったら、キミまで共犯になっちゃうね。迷惑だったね。自分のことしか考えなかった」
「迷惑じゃないわよ。あんたを心配して眠れなかったほうがよほど迷惑だったわよ」
サアムがマキを愛しそうに見た。
「ふうん。はじめて聞いたよ。キミがボクのことで眠れないなんて」
「そりゃそうよ。研究仲間が冤罪で追われてるなんて、しゃれにもならない!」
「……研究仲間か。ホントにそうであったら良かったのにね。もうとっくにボクは研究を捨てちゃった……」
「あんたの研究はまだ生きてるわよ。いまも大勢があんたの論文を引用しているもの」
サアムは寂しそうに笑った。
「そうか。ボクは死んでも、論文は残るのか……」
「死ぬって? あんた、死ぬつもり?」
「遅かれ早かれつかまるさ。結果は明らかだろ? 処刑だ。こちらの言い分など聞きやしない」
マキはサアムの背中をさすった。
「リエンスキー将軍は冤罪よ。国民の多くがそう思ってる。外国の人はもっとそう信じてる。将軍が大統領を殺す理由がないもの」
サアムは力なく笑った。マキは付け加えた。
「でも、大統領が倒れてひそかに喝采を送ってる人は多い。大統領は嫌われてたからね。独裁者だったから」
「そうだね。そして、ボクは独裁者の一人娘と結婚した大バカ者だ」
「仕方なかったんでしょ? あのときも思ったけど、ご両親のためだったんじゃないの? 疑われていたお父さんを守るために、あんたが生け贄になったも同然」
「……」
「ふつう、生け贄になるのはお姫様と相場が決まっているけど、あんたのようなハイスペック男も十分生け贄としての価値がある」
「あれ? そんなにボクのことを評価してたの?」
「まあね。あんたが気づいていなかっただけ」
「ボクがキミを好きなのをキミが気づいていなかったように?」
「おあいこだわよ」
サアムはマキをまじまじと見つめた。そして、瞳を外して、地面を見た。
「遅すぎたよね……」
マキは返事をしなかった。
サアムがボソボソとしゃべりはじめた。今回の暗殺事件の顛末だ。
■冤罪
――父は暗殺などしていない。
むろんボクも関わっていない。だが、大統領排除を望んでいなかったかといえば、ウソになる。父やボクが画策していたのは、いかに穏便に大統領を引退させるかだ。
その計画は、妻にもいっさい言わなかった。彼女は父親を敬慕していたが、それ以上に父親の政治的影響力がなくなることを怖れていた。ボクが離れていくと思っていたようだ。そして、それは正しい認識だった。ボクは彼女から離れる機会を覗い続けていたからね。
――ひどいだろ?
ボクなりに頑張ったんだけど、無理だったんだ。嫌いじゃないというのと、好きというのには天と地ほどの差がある。嫌いじゃないからやっていけると思ったけど、ダメだった。ホントに好きな人がほかにいるのに、好きでもない相手と一緒に暮らし、夜を過ごすのはこの上ない苦痛だ。彼女も知っていたよ。ボクに好きな人がいるってこと。彼女はそれでもいいと言い張った。いつかはボクの気持ちが変わると信じてたんだ。子ども も生まれたしね。
――子どもは可愛いよ。
子どもには何の罪もないんだから。でも、ボクはもう用なしのはずだ。だから、お役御免にしてほしいと彼女に言った。離婚届はいつでも彼女が提出できるよう、彼女に預けていた。残酷だよね。
――妻には大統領がついていて、彼女自身も才能に溢れている。
本来なら、ボクの妻にとどまるような人じゃないんだ。ボクにこだわらない方が、彼女にとっても未来が開けるはず……そう思ってたんだけど、今回の事件ですべてひっくり返っちゃった。ボクの存在は彼女と子どもを危険に晒す。もう離婚が成立して、子どもの親権は彼女が取ったよ。これで、ボクが処刑されても彼女と子どもに咎が及ぶことはない。でも、軟禁生活だ。いつまで続くか……。大統領が悲劇のヒーローである限りは、彼女と子どもが害されることはないと思うけどね。
マキは尋ねた。
「お父さんとあんたの冤罪を晴らすつもりはないの?」
「そうしたいよ。でも、相手が悪すぎる。うかうか動くと、被害者が増える」
「副大統領の魂胆はわかってるはず。大統領よりはるかに悪質で、はるかに陰険、はるかに徹底している」
「よくわかってるね」
「このまま逃げ続けることができる?」
「さあ、どうだろう……。外国への亡命も難しそうだしね」
「反政府運動が強まっているとも聞く。匿ってもらえない?」
「ありえないね。ボクは体制側の人間だ。ボクを匿ったら、反政府運動から離反者が出る」
「体制側から冤罪で切り捨てられたのに? 大統領暗殺だったら、むしろ手柄じゃない!」
「怖いこと言うね……」
「ともかくしばらくここにいて。誰にも見つからない場所だから」
「でも、ボクは見つけたよ。だから、いずれはここも見つかる」
元妻は、結婚したときから、サアムの愛する人を見つけようと躍起になっていた。留学時代とカトマール帰国後を含めて、サアムが接触した女性をことごとく調べさせたはずだ。当然、マキも含まれるだろう。父を失い、サアムが去った今、元妻の怒りは、サアムとサアムが愛した人に向けられているはずだ。マキのそばにサアムがいることがわかったら、元妻はマキの罪をでっちあげるに違いない。
「……だろ?」
「どうやって見つけた? あの霧をくぐり抜けるなんて普通はムリ」
「普通はね。で、ボクが普通だと思う?」
「いや……変人」
「あはっ。変人はひどいだろ? ボクの科学知識をバカにしちゃいけないよ」
「じゃあ、わたしが優秀な科学者たるあんたを逃がしてあげる」
「どうやって?」
「まだわからない。でも、考えてみる!」
「その気持ちだけで十分だよ。やっぱり来てよかった。ボクがキミを本気で好きだってこと、やっとわかってくれた?」
サアムの目はこの上なくやさしかった。いつもの冗談ではない。マキの心の檻が解き放たれた。
「わたしもあんたを好きだってこと、わかった?」
サアムが照れたように少し笑った。
「ウン、なんとなく……ひょっとしてそうかなって」
「ずっと好きだったわよ」
マキはサアムをしっかり見据えて告白した。五年以上封じ込めてきた思いだ。サアムもマキを正面から見つめた。
「ウン、ボクもずっと好きだった……キミだけを好きだった」
「キスしていい?」
マキはサアムの首に腕を回して口づけた。サアムはマキの細い腰を固く抱きしめた。




