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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第二十二章 五里霧の谷
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ⅩⅫー3 パーティ

■出会い

 大学内の国際会議場に併設されたパーティルームでは、すでに学会の懇親会が始まっていた。


 着たこともないセミロングのワンピースを着こんで、マキは入り口付近でなおも逡巡していた。化粧は同僚女性がしてくれた。髪もセットしてくれた。

 研究室の仲間が「おおっ!」と感嘆の声を上げ、「頑張って来いよ!」と送り出してくれた。このまま帰るわけにもいかない。


 ドアの向こうでは、雑誌で見たことがある人物も含め、大勢がにぎやかに歓談している。心地よい音楽、おしゃれな軽食、色とりどりの果物、そして赤ワイン――。

 

――だめだ。あんなところに行っても、居場所がない。やっぱり帰ろう……。

 

 踵を返したとたん。襟首をつかまれた。

「だめだよ。マキちゃん! ほら、ボクについてきて!」

 サアムだ。見たこともないような蝶ネクタイ姿で、髪もセットしている。

――あれ? コイツ、こんなに背が高かったっけ?


 サアムは、マキの手を引きながら、順番に彼女を紹介していった。まずは、ノーベル賞学者として名高いおじいちゃん学者から。

「いやああ。はっはっは。この女性が、キミが自慢するカトマールの秘蔵っ子だね?」

 学者は、マキに笑顔を向けた。

「キミの論文は読んだよ。とてもいい論文だった」

 このまえ、権威ある科学ジャーナルに掲載された論文のことだろうか?

「どうぞお見知りおきください。まもなく、もっといい論文を発表しますので。ボクと共著です」

 

――え? そんなこと聞いてないぞ。


 何人かをめぐったあと、例の美女のところにやってきた。

「あら、サアム。その女性なの? 例の論文を書いたっていう人は」

 観察するような彼女の鋭いまなざしに、一瞬、マキは震えあがった。

「そうだよ。マキだ。覚えておいてね。彼女は、キミに憧れているみたいだから、ちょっと相手をしてやってくれないかな?」

「いいわよ。わたしもぜひ話がしたかったから」

 美女が優雅に微笑んだ。


■興奮

 マキは何度も寝返りを打った。いままでの人生でこれほど強く幸福を感じたことはない。レッティーナとの会話だ。彼女はマキが何を言ってもきちんと対応してくれた。

 悩んでいた霧が晴れ渡るような爽快感があった。やや低めの声も、きれいな横顔も、濃い葡萄色のドレスも、すべてが好ましかった。何をしても彼女の姿が思い浮かぶ。


 翌日、マキはサアムが来るのを心待ちにした。こんなことははじめてだ。


――レッティーナのことを聞きたい! 彼女のことをもっと知りたい!

 

 サアムは二日酔いのような顔で現れた。マキがサアムのそばに駆け寄った。

 ポワンとした顔でサアムが軽く首をかしげた。

「あれれ? マキちゃんがそばにいる? なんで?」

「ねえ。彼女のことを教えて!」

「彼女?」

「レッティーナのこと! いつまでカトマールにいるの? もう一度会える?」

 矢継ぎ早のマキの質問に、サアムは額を押さえた。


「頭が痛むから、もうすこし小さな声にして……」

「ウン」

 マキがめずらしく素直に従った。

「水がほしい」

 マキがいそいそと水をコップに注いで持ってくる。

「座りたい」

 マキがそこらへんの椅子を引っ張って、サアムを座らせた。

「頭を撫でてよ」

 マキがムッとした。そこまではやりたくないが、やむをえない。サッと撫でて、手をシャツの裾で拭いた。


「じゃあ。キスして! ほらここ、頬っぺたでいいからさ」

 マキがサアムの横っ面を張り飛ばした。

「いてて……てて! ねえ、いいの? 彼女のことを教えてあげないよ」

 とたんに、マキが哀願するような顔に変わった。猫なで声で、サアムに「お願い」している。

「ねえ。お願い! 教えて!」

 マキの手をぐっと握って、サアムが勝ち誇ったように言った。

「ちょっとだけ握らせてよ!」

 マキは我慢した。しばらくして満足したように、サアムが言った。


「彼女はもう帰ったよ。今朝一番の飛行機だったんだ」

「え……?」

「キミによろしくってさ」

「ホント!?」


 サアムががっかりしたように言った。

「その喜び方はどうよ。ボクのことはそっちのけで、レッティーナのことばっかりじゃん」

「そりゃそうよ。憧れのひとだもの」


 サアムがマキの耳に口を寄せた。避けようとすると、強く引っ張る。そして、小声でささやいた。

「気をつけないとね、無防備な小鹿ちゃん。憧れの彼女に、研究のアイデアを盗まれるよ」


■盗まれたアイデア

 マキは、真っ青になって、雑誌を手に震えていた。レッティーナの最新論文が掲載され、賞をとっている。


「わたしのアイデアだ……」


 だが、言ってみたところで証拠はない。彼女が自分でマキと同じ結論に達したのかもしれない。落ち込んでいると、サアムがやってきた。マキの手の雑誌を見ると、サアムはそれを奪い去った。


「……サアム」

「悔やんでも遅いさ。キミがうれしそうにアイデアをしゃべったんだ。公式の場での発表じゃない。それをヒントに彼女が理論を組み立てても、文句は言えない。彼女なりの発想も入ってるだろ?」

「うん……でも、まさか、彼女がこんなことするなんて……」


 サアムはのんびりした顔で言った。

「現実を見るんだな。キミが考えていたレベルと彼女のこの論文とを比べてみろよ。いまのキミにこれを上回る論文が書けた?」


 マキは首を横に振った。悔しいが、レッティーナの論文ははるか上だ。

「競争が厳しい世界だ。キミものんびりしてると喰われるだけだよ」

「うん……」


 サアムはニコッとした。

「素直だな」

 サアムは手にした雑誌を開いて、ページの隅っこを指さした。

「ほら、見てみろ。ここにキミの名が出ている」

「え?」

 

――本論文のもととなるアイデアは、マキ・ロウに示唆を受けた。記して感謝する。


 マキは絶句してサアムを見上げた。

「彼女もキミに礼儀は尽くしているよ。さて、これからキミもいそがしくなるぞ。共同研究の依頼も殺到するだろうしな。でもね、キミはすでにボクのもの。共同研究を引き受けてもいいけど、ボクに相談したほうがいいよ」


 マキはサアムを蹴り上げようとして、すんでのところでやめた。サアムが言っていることはすべて正しい。まだまだ、自分は世間知らずだ。独り立ちするのはまだ無理だ。

「うーん。困った顔のマキちゃんはものすごくかわいいなああ。守ってあげたい!」

「いらん!」

「そおお? あ、そうだ。これあげる。懇親会のときの写真だよ。ボクが贈ったドレス、とっても似合ってたよ。また、贈るね! 次は、ボクとの初デート用のドレスだよ!」

「知るか!」

「わーお、いつものマキちゃんに戻ったね!」


 それからほどなくマキは、常勤の研究員としてカトマール中央科学院への異動を命じられた。

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