↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第二十二章 五里霧の谷
PR
114/333

ⅩⅫー2 沈黙と抵抗

■小さな岩塊

 マキがルキアに来て五年がたった。


 皇族と香華族の粛清が終わり、亡命者狩りも終わったが、政府は強権政治をやめなかった。国際的に孤立を深める中で、学術には深刻な影響が出始めていた。経済封鎖を受けて、国内経済も回らない。


 カトマール帝国大学は、カトマール人民大学に改組されたが、かつての栄光にはほど遠い。思想統制がなされて人文社会科学系は壊滅的状況だった。高い失業率を表向き改善するために偽善的な策が弄された。男性に職を保障する代わりに、女性を家庭に閉じ込めようとしたのである。

 女性の大学進学率は極端に落ち、専門職から女性はほとんど排除された。軍事政府にもほとんど女性はいなかった。ほとんど唯一の例外が、マキが牢で会った女性だった。


 彼女の名はジェン・リー。カトマール帝国大学の元准教授で、いまはカトマール人民大学理学部の学部長をしているとか。専門は、古代地質学。ジェンは、マキの手にあった岩塊の価値を理解していた。これゆえ、マキを人民大学に特別奨学生として招いた。条件は、岩塊を彼女に渡すことだった。


 マキはカトマール人民大学を早期卒業し、地質学研究センターに配属された。研究に没頭した。政治と社会を見るのをやめた。見れば、命が危ない。命がなければ、火の山の研究はできない。村に戻ることも、村を救うこともできない。どれほど非人道的なことにも目をつぶった。

 慣れてしまうと、目と耳をふさぐことに抵抗がなくなった。マキは「研究」という殻に籠ったのである。笑うことすらなくなった。ひたすら自分を慰めた。


――まだ力が足りない。圧倒的に足りない。いつか力がついたら、必ずや暗愚な政府を倒す。いまは雌伏の時だ。耐えるのだ。


■後悔

 会議からの帰り道、ジェンは、みすぼらしい風体の痩せた女性を見かけた――マキだ。


 あの日、研究室に戻ったジェンは、マキから取り上げた小さな岩塊を前に低い唸り声をあげた。

「まさか……?」

 分析結果を示したデータ表には、地球上には存在しないはずの成分が含まれていた。


 それから五年――どこをどう探してもあの岩塊と同じ成分をもつ地層も石も見つからない。


 活火山である火の山にはいくつかの噴火口がある。山頂部は広大なカルデラをなし、大規模噴火さえ起こらなければ、牧草が茂り、家畜がそれを食み、豊かな森と清い水に恵まれた良質な農耕・放牧地帯だった。だが、ひとたび噴火すると、周囲の景色は一変する。これまでも多くの命が失われてきた。この火の山の谷には、古来、いくつもの村が存在した。だが、どの村も貧しい。マキと名乗ったあの娘の村もその一つなのだろう。


 地質調査に訪れた教授とどう知り合ったのかまでは知らない。マキは教授と約束を交わしたらしい。

――虹色の光を放つ石を見つけたら、その代わりに学問を教えよう。


 マキが持ってきた岩塊は、一見するとなんの変哲もない石ころだ。だが、月の光を当てると、淡い虹色の光を発する。その原因はどうやら、地球外成分と地球の成分が混ざり合った結果らしい。

――教授は何を知っていたのだろう? そして、何を知ろうとしたのだろう? 


 ジェンは、自分の指導教員であった教授の研究成果を片っ端から調べてみた。だが、何も見つけ出せなかった。


 五年の間、地位を維持するのに必死で、研究成果は上げられていない。マキは研究以外の何も望まず、着実に成果を上げている。その価値がわかることが、かえってジェンを苛立たせた。

 研究野心の対象だったあの岩塊は、ほこりをかぶったまま、学部長室の戸棚の奥にしまわれている。それを惜しいと思うのは、研究者としての矜持や良心がまだ残るからだろうか? 

 だが、いまさら何ができよう? 取り上げた岩塊を返すなど、己の無能さを認めるに等しい。貴重な岩塊は手元で埋もれたままだ。

――早まったか……。教授を処刑すべきではなかったかもしれん。


■笑い声

 春のけだるいある日、研究センターから陽気な声が聞こえてきた。若い男の声だった。


「おじさん! そんなレベルの話が外国で通用すると思ってるの?」


 センターの古参研究者がなぶられている。能力がないのに、政府高官とのコネがあると吹聴し、えらそうにふるまうパワハラ上司だ。彼は顔を真っ赤にして、怒り狂っている。

「失敬な! 若造が何を言う? いったいわたしを誰だと思ってるんだ?」

「だから言っただろ? だれからも相手にされない冴えないおじさんだって」


 パワハラに耐えてきた仲間たちが顔を背けながら、笑いをかみ殺している。言いたくてしかたがなかったことを、新参の美青年がどうどうと言いのけている。


「お……おまえは誰だ? 名乗れ!」

 パワハラ男が握り締めている拳がわなわなと震えている。

「ボク? ああ、サアムだ。サアム・リエンスキー。昨日、留学先のアカデメイアから帰ってきたばかりだ」

 パワハラ男の顔色が変わった。まわりの者も表情を変えた。


 アカデメイア留学――カトマールから留学できるのは、政府高官の家族に限られる。決して亡命しない者――カトマール政府を裏切らない者――しか、留学は認められない。しかも、アカデメイアが受け入れたということは、相当優秀であることを意味する。アカデメイアの入学・編入基準は厳しく、基準に満たない者は、国費留学生であっても受け入れてもらえない。


 なによりも、サアム・リエンスキーの名はカトマールでもすでによく知られていた。若くして物理学の有名な賞を受賞した気鋭の学者で、カトマール政府が人民大学の幹部にと考えている人物だった。政府高官であるリエンスキー将軍の一人息子だ。リエンスキー将軍は政府の中でも教養高い穏健派として知られ、諸外国首脳の信頼が篤く、外務大臣を務める。


 パワハラ男は拳を引っ込めた。敵わない――この権威主義国家では、一介の国民など幹部の指先一つで簡単に吹き散らせる。サアムはそれを承知で、高らかに笑い声を上げた。


 マキは反吐(へど)が出そうだった。パワハラ上司も困ったものだが、この若者はもっとタチが悪そうだ。近寄らぬ方がよい。ドアの方に後ずさりするマキを、サアムが見咎めた。

「ねえ、キミ!」

 みんながサアムの指さす方に視線を向けた。マキの背は縮こまっていた。

「キミだよ。かわいいお嬢さん」

「は?」

 マキが固まるように立ちすくんだ。

「どうして出ていくの? これから面白いところなのに!」

「仕事が残っていますので」

 マキはそれだけ言い捨てて、転がるように部屋を出た。


――いったい何様のつもりだ?


■自信過剰な青年

 その日から、マキの行く先々にサアムが出没するようになった。サアムは、鼻持ちならないほどの自信家で、その自信に見合う能力を隠さなかった。しばしば相手をバカにする態度を示したが、痛快だと陰でみなから喝采を受けた。本当の意味での弱者に対して、サアムが罵詈雑言を浴びせたことはない。


 アカデメイアでサアムが受けた教育や研究レベルは垂涎の的だった。カトマール帝国大学が崩壊して後、世界トップクラスにのし上がったのはアカデメイア大学だった。世界中のエリートが集う中でもサアムは目立っていたらしい。まれに見る美男子でもあったため、女子学生にも相当の人気だったとか。だが、アカデメイアではサアムは研究に専念していたらしく、浮いた噂はなかったという。


――アカデメイアでのサアムは勤勉そのものであったのに、カトマールではまるで別人のようだ。


 同時期にアカデメイアに留学した者が口を揃えてそう語る。帰国後のサアムは軽口をたたき、攻撃的で、派手で、女性を口説きまくり、「猿山のボス」のようだ。

 特にマキにご執心なのは、マキがサアムを相手にしないかららしい。マキが気取っているわけではない。あのようにチャラい男が苦手なだけだ。


 だが、マキとてもサアムを完全に無視することはできなかった。サアムは研究に手抜きはない。同じ科学者の目でそれは確信できる。あのチャラさとあの真摯さが、どうにも折り合わない。


「マキちゃあああん!」


 廊下を歩いていると、いつもの声がした。いつのまにか、勝手に「ちゃん」づけで呼ばれている。マキはさっと研究室に走り込み、中からカギをかけた。すると、ドアのそとでカリカリと音を立てている。イヌか、ネコか! フンッとそっぽを向いて、実験に取り掛かったとたん、ドアが開いた。


「な……なんで?」

 サアムは細い金属棒をチャラチャラひけらかし、「簡単だもん!」と言いながらニヤッとした。つかつかとマキに近寄ってきて、髪に顔を寄せる。

「うーん! 今日もいい匂い! マキちゃんはきれい好きだね。ボクのため?」

 マキは思いっきりサアムの足を踏んづけた。

「いたああい! なんでよ?」

「近寄るな! さっさとあっち行け!」

 マキが毒づくように怒った。

「イヤだよう! ボク、マキちゃんのそばにいたいんだモン!」


 周囲のだれもマキを助けてくれない。マキへのサアムの絡みは日常茶飯事になっていて、珍しくもなんともないからだ。みんなに完全無視されて、マキはじりじりと後ずさった。


「わかってんの? これってセクハラだよ!」

「ううん。違うよ! 愛のアプローチだヨン」

「それは両者の合意があるときだけ! 一方的なアプローチはストーカーというんだ! バカめ。いい加減に覚えろ!」

「ウフン! 怒った時のマキちゃんはホントかわいいねえ。ボク、大好き!」


 まわりにいる者がこらえ切れずに笑い声を上げる。何度見ても飽きない光景だ。

(ほら、もうそろそろだ!)声にならない期待が周りで高まっていく。


■急所蹴り

 追い詰められたマキは、サアムの急所を蹴り上げた。

「グフッ!」

 妙な声を上げて、サアムがうずくまる。そのそばをマキがすり抜け、逃げ出した。サアムはしばらく起き上がれず、呻いている。周りの者が笑いをかみ殺して背を向け、奇妙な顔のまま、実験の手を動かす。


 急所蹴りは一月に一回くらいだが、マキはサアムの身体のあちこちを日々順番に蹴り上げていた。内臓には打撃を与えず、でも相当に痛い。マキは祖母から護身術の手ほどきを受けてきたらしい。これら一連の儀式が毎日繰り返され、サアムは自室に戻っていく。そして、マキが戻ってくる。サアムは一日に同じことは繰り返さない。だが、翌日また同じことをする。懲りないヤツだ。


 ある日、一人の美女がサアムを訪ねてきた。アカデメイアで同期だった研究者らしい。サアムは喜んで彼女を迎え入れ、広い大学内を案内した。もちろん機密場所は隠したが。サアムが主宰する国際学会でのパネリストの一人とか。毎日、マキを追い回していて、よくそんな時間があったもんだ。みんなビックリした。


 思いがけず、芝生の中道で、マキはサアムと美女に出会った。とっさにマキは身構えたが、サアムは素知らぬ顔で通り過ぎていく。マキは拍子抜けした。なんだか無視されたみたいで気分が悪い。


――なんだ? あの女は?


 美女はサアムに必要以上に密着していた。サアムも色男としての面目躍如。優し気に女性に気を遣っている。マキは道端の小さな石ころを蹴った。小石は、パツンと軽い弧を描き、アスファルトの遊歩道の上を二、三回跳ねた。黒い靴のつま先が見えた。細く長い指が小石を拾い上げた。


「ダメだよ。小石に八つ当たりしちゃうなんて」

 サアムだった。いつもとは違って、上質なスーツ姿だ。傍らにさきほどの女性はいない。

「フン! わたしの勝手だわよ」

「アハハ。妬いちゃった? 彼女、すごく美人だったろ?」

 マキはサアムを睨んだ。


「おまけに、キミ好みのとっても優秀な研究者だ。どう、お近づきになりたい? 紹介するよ」

 マキはそっぽを向いた。

「あんたに借りは作りたくない」

「そうなの? 残念だな。まさか、彼女のことを知らないの? 宇宙に関する最新の理論物理で有名なレッティーナ・ヒックスだよ」


 マキは驚愕した。レッティーナ・ヒックスの名前は知っている。その理論も。だが、顔は知らなかった。あんなに若くて美人だったのか!

「ううう……」

 声にならない声を口の中に押し込めて、サアムを睨み続けるマキの肩をサアムがポンとたたいた。

「夜の懇親会に来ればいい。料金はボクが払っておくよ。あ、ちょっとはおしゃれをしておいで。TPOにあわせたドレスコードは守らないとね。ドレスは研究室に送っておいた」


 研究室にはド派手なリボン付きの箱がでかでかと置かれていた。仲間たちが心配そうに、だが、ワクワクを隠しきれない微妙な表情でマキを見る。


――どうする? 学問的興味を優先するか? サアムに借りを作らない方針を貫くべきか?

 マキは、箱のリボンを見ながら唸り続けた。マキの鼻息に反応したのか、リボンがハラリと揺れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。