ⅩⅪー2 大神官の怒り
■大神官
ヨミ大神官アーリーは、激怒していた。
「月の神の神像だと⁉」
この神像にまつわる神話は、ヨミ教の根底を揺るがす。
ヨミ教は、大日女神を主神とする。死の冥国を統べる月の男神を倒して、日の女神を奉る生の光国を創ったというのが、ヨミ教の創世神話だ。
月の神が両性具有であり、月の神こそがシャンラのルーツであるとの神話は、ヨミ教を不要とする神話であり、断じて認めることはできない。
ヨミ教は、両性具有も同性愛も否定し、異性愛主義と性別二元制を固く維持してきた宗教だ。そして、「聖界を女性、俗界を男性」と役割分担しつつ、実際の統治は、「聖たる女性と俗たる男性」の共同統治という形式を守ってきた。家父長制を排して、ヨミ神官団を筆頭とする女性主導の国造りをしてきたのだ。
――王父ダムは、なぜ、これほど危険な神像を今になって持ち出したのだ?
ヨミ教はシャンラ国教として、長年にわたり、王国と王室を支えてきたではないか。それを覆すつもりか?
ダムの腹はまったく読めない。
義務のように一子をなしたあとは妻に触れようともせず、女人の影もちらつかなければ、男色であるわけでもない。政治には興味がないのか、特に王父になってからは、王室行事には参加するが、対外的にはほとんど表に出なくなった。
だが、シャンラ王家直系の最年長者である筆頭王族だ。ダムの存在感と発言力は無視できない。それを承知で、神像を出してきた。息子の妻たるサユミを守るつもりなのだろうが、なぜだ? 今まで、ダムがそのような行動を取ったことはない。
かつてシャンラ女王とヨミ大神官の間には、亀裂も矛盾もなかった。女王が大神官に逆らうことなどなかったからだ。だが、キハの頃から少しずつ変わってきた。
キハには天賦の才能があり、美貌に恵まれ、女王には最適の少女だった。王太子がキハを妻に望んだことも大きかった。キハの才覚により、シャンラ王国は発展した。おまけに、キハはすぐれた王子を産み、シャンラ王国は安泰のはずだった。
だが、キハの息子のロアン王太子は厄介だった。才智溢れる王太子は、ヨミ教に基づく古き伝統やしきたりに公然と異を唱え始めたのだ。だが、王太子は若くして亡くなった。それを機に、母のキハは政治の表舞台から身を引いた。いまは離宮で亡き王太子の冥福を祈っている。
王弟ダムに娶せたランは、キハには劣るが、大神官には従順だった。乳母と乳姉妹として送り込んだヨミ族の名門一家の母子も大神官に忠実だ。ランは気づいていないが、王家の秘事は、彼女たちを通じてすべて大神官にもたらされている。
ロアン王太子が逝去し、国王が発症して、いまはランの息子が国王になっている。彼は凡庸だ。だが、女王サユミは、早逝したロアンにも増して行動的であった。国王は女王に決して逆らわない。結局、シャンラ王国を動かしているのはサユミだ。
むろん、立憲政体をとる以上、王室は政治には直接介入できない。しかし、サユミは、文化交流を口実に外交で名を挙げている。ルナ大祭典をその格好の手段として利用している。サユミの背後には前女王キハがいる。そして、今回の神像騒ぎで、王父ダムまでがヨミ教とヨミ神官団に挑戦してきた。
いま、内紛に明け暮れている場合ではない。春先の月蝕では、蓬莱本島にいくつかの〈気〉が立ち上った。神意をいくら問うても、良い答えが得られない。むしろ〈気〉の力は強まっている。それらは、ヨミ教が捨てた「ルナの神々」につながる〈月の一族〉の異能の〈気〉だ。
このままでは、シャンラ王国もヨミ教も危ない。それほど大きな危機なのに、いくら諫めても、女王サユミはルナ大祭典に協力するという。
ヨミ族にも異能者はいる。
特に、空を飛び、永遠の回帰を繰り返す異能は、ヨミ族独自の最高度の異能だった。だが、その異能の血統は潰えたのか、もう数百年にわたって空飛ぶ異能者――〈鳳凰〉――は現れていない。
ヨミ大神官アーリーは、予知にすぐれる異能者だ。神意を聴き、異能者を察知するのにすぐれる。とはいえ、ヨミ族の予言の力は世代を重ねるほどに弱まっている。
ヨミ族トップの予知能力を持つとはいえ、アーリーの予知の範囲はせいぜい一ヶ月――しかも、当たる確率は半分以下だ。サユミはその事実を知っている。
カトマールの異能者集団である本香華は壊滅した。天月仙門は天月山に引きこもり、異能者が外に出ることはほとんどない。ウル舎村は、バイオ研究に注力しているが、もはや異能者集団とは言えない。
――いったい、どこの異能者が、なにゆえ、蓬莱本島に集まったのか?
密偵〈影〉からもまともな報告がない。
■ヨミ大神官の悩み
ヨミ大神官アーリーは、二十年ほど前のことを思い出していた。あまり呼び戻したくない苦い記憶だ。だが、そこから問い直さねばならぬようだ。
――ロアン王太子。
幼い時から才能を発揮し、すぐれた青年に成長した。さすがキハの血を受け継いでいると見込んできた。
だが、いつからか、王太子はカトマールに肩入れし、介入すら口にするようになった。カトマール間者が王太子を襲撃したとは驚いたが、カトマール軍事政権が王太子を警戒しているのは明らかだった。
――一国の王太子に何ができよう。
国王になれば、現実政治に巻き込まれて、いっそうがんじがらめになるはず。父の国王は凡庸だ。王太子もいずれはコントロールできるだろう。
そう思っていたが、王太子はますます扱いにくくなった。伝統に則り、ヨミ族の選りすぐりの少女を婚約者と定めたが、彼女を見向きもしない。処刑された一つ年上のカトマール皇女のことが忘れられないらしい。そんな幼い初恋など、国家と政治の前では吹けば飛ぶようなしろものだ。
カトマール帝国が崩壊し、これまでシャンラ王族が学んできたカトマール帝国大学が閉鎖された。傷心のロアン王太子に少しでも新しい経験をさせようと、アカデメイア留学が計画された。シャンラ王族がアカデメイアに留学するなど異例だ。アカデメイアはもとシャンラ王国領地。王国から離反して独立した国だからだ。ただ、シャンラ王家の所領は残っていて、離宮もある。王太子が住むのに不自由はなかった。
王太子は、かの地で何人かの友人を得たらしい。その者たちが王太子によからぬ影響を与えているのだろう。おまけに、王太子は、〈青薔薇の館〉とやらの女主人にのぼせ上がってしまったらしい。
シャンラ国王がヨミ族女性を女王に迎えるという掟は、シャンラ双頭制の根幹をなす。それすら覆すつもりか?
――ロアンは非常に危険だ。ヨミ教を否定し、ヨミ族を崩壊させるやもしれぬ。
このまま二十歳を迎えれば、ロアンはヨミ族との婚姻を拒み、シャンラとは縁もゆかりもない女人を妻に迎えるに違いない。国王も女王キハも王弟ダムもロアンを溺愛し、伝統の刷新に傾いている。ロアンの意向を尊重する可能性は否定できない。
――ロアンを排除するにはどうすれば良いか。
あれこれ策を探しているうちに、奇妙な毒薬のことを知った。天月山にのみ自生する希少な薬草は、精製次第で毒にも薬にもなるという。天月に忍び込ませた密偵〈影〉によれば、天月宗主が体調を崩し、その薬が処方されたとか。だが、回復せず、むしろ悪化したらしい。どうやら、精製調合次第で、件の薬草は、生来の身体的な弱点を引き出して、増幅させてしまうらしい。
――使えるかもしれぬ。
王家男子にのみ伝わる特有の遺伝病がある。王太子は発病しなかった。だが、潜在的な病の遺伝子を持っているであろう。それに働きかけることができれば、誰にも疑われずに発症させることができる。
二十歳近い発症ならば、命に影響は出まい。だが、ひとたび発症した者は王位を継ぐことはできない。すでに王位にある者は退く定めだ。
天月草を入手することは至難だった。扱いが難しいため、門外不出とされる薬草だ。だが、たまたま、天月の少年が薬草を採取し、その一部がホスピタルに保管されていると、密偵が知らせてよこした。その少年は特別な能力をもつらしく、隔離されて英才教育をうけているらしい。その少年は、天月草の精製もできるとか。
――秘薬があったな。
天志教団幹部がヨミ大神官に密かに謁見を願い出た折に、大神官に献上した秘薬だ。自白や行動を誘導できるという。
成り上がりの新興宗教など、取るに足りぬ。だが、天志教団は莫大な資産をもつ。しかも、カトマールのウル教との縁が深く、ルナ文化にはきわめて否定的と聞く。
使うだけ使って、不要になれば切り捨てればよい。
アーリーは考えた。
――天月少年を拉致し、秘薬を用いて、天月草を採取させ、精製させた上で、すべての記憶を消せば、何もかもが闇に埋もれるはず。
ものの一週間でケリがつくだろう。少年の将来は大きく変わるかもしれぬが、天月自体に傷がつくわけではない。たとえ気づいても、天月は真実を隠すだろう。名の知れた地位のある修士や博士を拉致するわけではない。たかだか十歳の子どもがしばらく森で行方不明になっても、子どもの無分別な行動のせいと片づけられるに違いない。
少年が山を下りる日程も決まったという。三人の手練れの密偵を送り込んだ。なかなか隙がなかったが、たまたま、天月修士と少年が二人だけになった。
好機だ。天月修士の気を失わせ、少年を拉致しようとしたが、三頭の銀狼に阻まれた。密偵はみな殺され、少年も消えた。跡を残してはならない。完璧に痕跡を消し、少年を探すのも断念した。
――万事休すのはずだった。
だが、思わぬ接触があった。天月草に似た薬草がある。それを提供するかわりにある取引をしたい、と。
これもまた、仲介は天志教団だった。相手の条件はただ一つ――ルナ神聖石盤を見せて欲しい。
ルナ神聖石盤は、秘宝中の秘宝だ。その内容は読み解かれていない。ヨミ教にとって不都合な内容である可能性が高く、おいそれと見せることができるものではない。
だが、仲介者はこう言ってのけた。
「月香草を品種改良したものです。他では絶対に手に入りませんよ。取引に応じる気がないのであれば、この話は聞かなかったことに」
千載一遇の好機を逃すわけにはいかなかった。
――どうせ読み解くことなどできまい。
石盤の表面には、ルナ神殿に刻まれているのと似た紋様が刻まれている。文字かもしれぬが、だれも解読に成功しておらぬ。神殿紋様よりもいっそう複雑な紋様を写したところで、読み解くのは不可能だ。
覆面をし、声音も異様な機械音に変えて現れたその人物は、午前中に毒を精製し、午後は石盤の図を書き写して過ごした。一週間で精製は完了し、石盤の確認も終わった。
その者はすぐにシャンラを発ち、どこかに消えた。
月香草の毒の効果はなかなか現れなかった。
――だまされたのか?
そう思い始めた頃、効果が徐々に出始めた。王太子は体調不良を隠していたが、主治医が気づいたようだ。そのまますべて首尾良くことが進むはずだった。
だが、急転した。王太子の症状が急速に悪化したのだ。これでは、毒を盛ったことが露見する。王弟ダムが疑念を感じたのか、必死で医師や薬師を求めていると聞く。
――よもや月香草とはだれも気づくまい。
そう思っていたが、どうやら主治医が、天月草を疑い始めたようだった。だが、結局真相にたどり着く前に、王太子は急死した。
主治医の診療記録を奪おうとしたが、それを察知したのか、主治医は崖から飛び降りたという。遺体は見つからなかった。どこかに潜伏しているやも……。けれども、十年探し続けても見つからなかった。
公式の診療簿には、こう記録されていた。
――王太子の死因は遺伝病。五年前に発症したようであるが、王太子は症状の深刻さに気づかず、隠したと思われる。主治医もまた症状を見落とした。
遺伝病による病死!――わたしは勝ったのだ。




