第9話 デートは2種類しかない。浮気か、浮気以外か。
背徳感からなのか……。
体育祭の準備中は特に何ともなかった俺の心臓。
それが約束の時間が近づくにつれ、貧乏揺すりしているかのように落ち着かなくなってきていた。
カーーーン。カーーーーン。
ホームルームを終えて放課後を知らせる鐘が鳴ると、部活に行く者や遊びの約束をする者たちで教室が騒々しさを取り戻していく。
隣の稲荷さんも例に漏れない。
彼女は立ち上がり、向けてきたのは純粋無垢な眩しい笑顔。そしてまた周囲に聞こえないようにか、小さな声で話しかけてきた。
「ねぇ真太、今日お昼いっしょに食べられなかったしさ、今からどっか行こうよ!」
「え、えぇ。……今から?」
「うんっ。今日は華金でしょ? 家でアニメ見てるだけじゃもったいないって!」
「それ稲荷さんの話では?」
1人で難なく校門までたどり着くと思ってはいなかったし、最初から彼女に許可をもらうつもりではあったが……。
この頃にはもう、俺の心臓は一周回って貧乏揺すりをピタリと止めていた。
「て、てか、さっきまでマスゲームの練習してたんでしょ? つ、疲れただろうし、また別の日の方がいいんじゃない?」
「大丈夫だよ。私そんなんじゃ死なないって」
「いや命の心配まではしてないけど」
「だめ? もしかして、今日は予定でもあるの?」
「いや、えと……。ごめん。とりあえず、こっち来てもらっていい?」
頭上にハテナマークを浮かべた稲荷さんを連れ、競歩のように速くぎこちない足取りで、すぐそこの理科室に向かった。
「ど、どうしたの?」
誰もいない……いや、骸骨しかいない理科室に入り、稲荷さんを正面に立たせる。
そして俺はできるだけ誠実な面持ちで(自分ではどんな顔してるかわからないけど)彼女に真実を伝えた。
「ごめん稲荷さん。今日、実は金子さんとスマホを買いに行くことになってて」
「え」
「ただの成り行きなんだけど。でも、行かせてほしい」
スマホが必要なのもあるが、金子さんと接触し、過去の自分や状況について聞くのが一番の目的だ。
でも、もちろん今から断ることだってできる。
だから稲荷さんがどうしてもダメだというのなら、一応彼女の肩書きを持つこの子の意思を尊重しよう。一応。
「……なっ。真太が……真太が……堂々と浮気しようとしてくるっ……!」
「二股してるみたいな言い方やめて……?」
「だってそうじゃん! 彼女がいるのに!」
「そ、そうでした。返す言葉もないです」
むくれてパンパンになった彼女の頬。
俺が一言「ごめん」と添えると、次の瞬間には力無く萎んで、薄く影を作っていた。
「……わかった。わかったよ。真太が行くって言うなら、私止めない……」
「え?」
「……だって、その説得をしてるんでしょ?」
「まぁ、うん。スマホの買い方とか、ちょっと心配だし……」
「わかった」
「えと……あ、ありがと」
彼女は食い下がることなく、思いの外すんなりと説得を受け入れてくれた。
しかし、ふと見えたのは、彼女が一人で重ねていた小さな両手。それは弱々しく祈るように握られている。
表面上の嫉妬なんかじゃない。その中に本当の感情が隠されている気がして、少し怖くなった俺は、はぐらかすように次の言葉をかけた。
「ご、ごめん。また、埋め合わせはするからっ」
その言葉で表の顔を思い出したのか、彼女はまた軽く頬を膨らませ、重ねていた両手を解く。
そして次はキャラクターをなぞるように腕を組み、少しだけ口を尖らせた。
「もぅ、今回は正妻の余裕ってやつを見せつけてやるんだから。でも真太、埋め合わせは絶対だからねっ?」
「も、もちろん」
ふぅーっと、やや不機嫌そうなため息をついた彼女は、「寂しい私は、図書室でも行ってこよーっと」と俺に聞こえる声で呟きながら理科室を出て行った。
──彼女が残していったシャンプーの柔らかな香りと、理科室の薬品の刺激臭が、鼻の辺りで嫌に混ざり合う。
それらが身体の奥まで届いてしまったのか、これまで何ともなかった肺の辺りが少しだけピリピリと痛んだ。
*****
稲荷さんとの話を終えて向かった校門前。もう下校する生徒の数はかなり落ち着いてきている。
お尋ね者である俺にとっては、金子さんを待たせている焦燥感より、あまり誰にも見られていない安心感の方が僅かに勝っていた。
「ごめん、待たせたよね」
「あぁ江守。いいわよ、私もさっき来たところだから」
校門に寄りかかって待っていた金子さん。彼女は意外にも俺が遅れたことには怒っていなかった。
それでも少しだけ仏頂面で、隣を歩き始める。
「そっか、よかった。何かしてたの?」
「なっ…………メ、メイク……直したり…………とか……」
そっぽを向いた彼女は、肩にかけていたスクールバッグの持ち手をギュッと握りながら、小さな声で呟く。
斜め後ろから覗く、ほんのり赤みを帯びた彼女の頬。さっき「直した」と言っていたのはこれのことだろうか。
飾り気のないナチュラルなメイクのせいで、その自然で不自然な色付きが、彼女の白さをかえって浮き彫りにしていた。
「……そ、そういうあんたこそ、こんな時間まで何してたのよ」
「ちょっと稲荷さんに許可をもらってて。金子さんと出掛けてきていいかって」
「変なところ律儀ね。ていうかそれで納得してくれたの?」
「うん、まぁ」
あの時の稲荷さんの表情が脳裏をかすめる。
彼女を振り切ってきたからには、自分のやるべきことをやらなければ……。
目的地も言わず進む金子さんにペースを合わせつつも、俺は早速本題を切り出す。
「あの、ところで金子さん。久助から聞いたけど、俺と金子さんって、たまに話すぐらいの仲だったの?」
「ん?そうね。あんたにとっては、私はただのクラスメイトぐらいの存在だったと思うけど。……て、ていうかっ、だから、急に告白されるなんて思ってなかったしっ!」
「そ、その節は。なんとか思い出しますので」
彼女はフンと鼻から息を落とす。
「それならさ、前の俺ってどんなだった?」
「前のって、別にそんなに変わらないわよ。まぁ誰とでも分け隔てなく接してたし、少し大人っぽいところもあったけど。そんなにモテてはなかったから、期待しないことね」
なんだその最後の台詞は。
俺は飢えたモンスターか何かだと思われているのか?
「そ、そっか。じゃあ誰かと確執がありそうだったとか、怒らせると何するか分からないとか……そんなことはなかった?」
「ん? たしかにあんた、何だか忙しそうだったし、教室でも心ここにあらずって感じな事は多かったけど。怒ったところなんて、私は見たことないわ」
そう答える途中で、彼女は少しだけ眉をひそめ、続く言葉を地面に落とす。
そして、1歩踏み外せば轢かれてしまいそうな狭い歩道を進みながら、彼女は車道側を歩く俺の影を覗き込んだ。
「もしかして江守、あの噂のこと……何か聞いたの?」
「いや…………まぁ、うん」
「…………そう」
俺の記憶喪失の事すら知らなかった金子さん。でももう、暴力事件の噂は彼女の耳にも届いてしまったのだろう。
声の勢いを落としつつも、彼女はさっきと同じ口調で続けた。
「……まぁ、気にしない方が難しいわよね」
「うん。今の俺には否定する権利もないし」
「そんなこと……。あ。ていうかもしかして、それでさっきから周りキョロキョロしてたの?」
「そりゃあ、暴力事件の加害者と一緒にいるなんてバレたら、金子さんが嫌な目に遭うかもしれないでしょ」
「……ハァ。……私、別にそんなんで落ちる程の人望とかないわよ……」
分かりやすくため息をつき、また俺の方を下から覗き込んでくる。
「いや、でも俺自身も何するか分からないし」
「なっ。なんかしてくるわけっ?」
彼女は細い腕でスクールバッグを抱き抱えると、そのままの距離感で顔だけをしかめた。
「し、しないけどっ」
「じゃあ、心配しすぎ」
「そうかな」
「そうよ」
どこから湧いてきた自信なのだろう。
真っ直ぐ前を見て、そう答えていた。
「それに、もし私に何かしてくるようだったら…………」
「……だったら?」
「二股してること、学校で言いふらしてやるんだから」
「え、社会的に殺されちゃう感じ?」
ニッと、イタズラっぽく白い歯を見せてきた彼女。
噂が本当かどうかなんて、きっとお互いに分かっていない。
でも、それが距離をとる理由にはならないと言われた気がして。
ずっと半歩遅れていた俺は、目的地も知らないのに、いつの間にか彼女と同じ道を並んで歩いていた。




