第8話 初デートはこっちでした
"記憶がないから分からない"
それは今の俺ができる唯一の返事で、相手と積み重ねてきたこれまでを否定してしまうような、寂しくて苦しい言葉だった。
でも、どこかで免罪符的な役割を果たしてくれていたのだと思う。この言葉をかけると相手は同情し、それなら仕方がないと割り切ってくれる。お互いを納得させてしまう、魔法のような言葉。
「真太……大丈夫か?」
「あ、あぁ。うん。大丈夫」
もし自分が、本当に暴力事件を起こしていたら……。
もうこれからは、「記憶がないから」で済まされないのかもしれない。
きっと相手にとっては、過去の自分も今の自分も切り離せるものではないから。その責任を負い、清算しなければならないのは、今の自分しかいないのだ──。
「俺はお前がそんなことをするようなやつだとは思っていない」
久助は俺の顔を見るなり、その真っ直ぐな視線を向けてきた。
「……うん。ありがと」
「最初に聞いたとき、俺にはどうしても信じられなくて、嘘の噂としか思えなくてな……。それで先生に聞きに行ったんだ。"真太はなんで入院してるんだ"って」
「それで事故と記憶喪失のことを知ってたんだ」
「あぁ。それにきっと、噂を疑っているのは俺だけじゃない。お前が1ヶ月入院してた間に学年もクラスも変わっちまったからな。元のクラスメイトの中には、こんな噂信じてないやつもいるはずだ」
俺が退院したのは4月の中旬。
病院からも、1ヶ月ほど入院していた事は聞いている。学校ではちょうど1年生から2年生へと上がる期間だったわけだ。
「ただ、今のクラスメイトはそもそもお前のことをあまり知らないからな。みんなが距離を取っているのも、噂を否定できる前提がないだけだ。あんまり気にしすぎるなよ」
「そっか。そうだったんだ……」
彼の言う通り、誰かが流した嘘の噂なのか。それとも、まだ見ぬ自分に深い闇があったのか……。
どちらにしろ俺は、これからその底が見えない害意と戦わなければならない。
でも、真剣に話す彼の表情を見て、失礼なことなのかもしれないが、俺は少しだけ光が見えた気がする。
話を聞き、静かに握った拳とは対照的に、不思議と自分の肩の力は抜けていた。
「……俺、真相を確かめるよ。自分がどんな事をしてきたのかちゃんと見極めて、自分の過去は自分で清算したい。だから久助、真相を探るために協力してほしい」
「そうか。わかった。……ただ、もう一度言うけどな、俺はお前がやったとは思わない。だから噂が嘘だって前提で、お前の誤解を解くために動かせてもらう。それが協力する条件だ」
「わかった。それでいい。久助、ありがと」
「おうよ」
俺は最初から1人だった。
たとえ周りの人間が自分を避けようが、何かを失ったわけではない。
……それでも、今は目の前にこんなに良い友人がいるのだ。
今あるものを、大切にしなければ。
俺が拳を突き出すと、彼は口角を上げて拳を突き返してきた。
「にしても協力してくれるのに、破格の条件かも。なにか裏でもある? 俺ぼっちだから女の子とか紹介できないけど」
「……なっ。真太、やっぱりお前はお前だな」
彼は一気に顔の強張りを解くと、ハハッと笑い、ずっと置かれたままだった箸を手に取る。
「元クラスメイトと言えばよ、お前、1年の時たまに話してた奴ならいたぞ。金子 美耶。この前うちの教室来てたって聞いたけど」
「え、俺って金子さんとクラスメイトだったんだ」
「おう。俺も真太も金子も同じクラスだったからな。俺はあいつ、ちょっと苦手だけど」
「ふーん、そうなんだ。……てか、久助のせいで思い出した。いや、思い出しちゃった……」
「ん?なにを思い出したんだ? お前まさか、記憶が……?」
箸でミニトマトを摘まんでいた久助が、それを口に運び込む前に動きを止める。
「うん、俺の記憶。…………めっちゃ最近のね」
正直俺は忘れようとしていた。
でも、やっぱり覚えていた。
───二股疑惑。
小さく千切っていたメロンパンを、ようやく口に入れる。
手元からずっといい匂いがしていたのに。噛んでも全然、甘くはなかった。
前の俺って、もしかしてヤバイ奴なのでは……?
*****
今日の7限目は体育祭の準備。
俺が振り分けられたのは、我がクラスの色である赤組のモチーフを描いたパネルを作るという作業だ。
巨大な鳳凰の下書きが書かれたパネルを教室の床に置き、クラスの数人と絵の具で色を塗っている。
邪魔にならないよう、パネルの端の空を塗っていたところ、メンバーの女子が「あっ」と声をあげた。
「赤の絵の具、なくなっちゃった」
「あらら。赤色はまだまだ使うから補充しないと。たしかこれ、トマトレッドってやつだよね? 私さっき3組の子……金子さんが補充用の大きいやつを持って行ったの見たよ」
側にいたもう一人の女子の口から出てきたのは、聞き覚えのある名前。
「そっか、金子さんか……。じゃあ、もらってこないとだね」
「うん。どうする?」
「どうしよっか……。ふたりで一緒に行く?」
「うーん。そうだね」
「……あの。よかったら俺が行ってこようか?」
「……えっ」
声を出したことに対してか、提案してきたことに対してかは分からない。女子2人は俺の声を聞いて、軽く体をビクつかせた。
「3組でしょ? 俺が行ってくるよ。色塗るよりかは、少しぐらい役に立てそうだし」
「そ、そっか……。お、お願いします」
「うん」
俺は持っていた筆を置き、そのまま1人で教室を出た。
なんとなく感じていたが、色塗りの最中、作業メンバーの口数は少なめだった。
そりゃあ暴力事件を起こしたかもしれない同級生と一緒なんて、気を遣うに決まっている。こうして理由をつけて離れてあげられただけ、皆にとってはよかったのだろう。あと俺ほんとに色塗り下手だったし。
それにクラスメイトは「3組の金子さん」と言っていた。俺が知る金子さんは、あの金髪の少女しかいない。
昼休み久助に聞いた話では、金子さんと俺は「そこまで仲良さそうでもないけど、まあまあ話す仲」だったらしい。
つまるところ"友達"って程ではないのだろうが、彼女は俺の過去を知る数少ない手掛かりだということ。
まだ告白の件はさっぱり思い出せていないが、今はこうして接触できる機会を作れただけで、一歩前進だ。
2年3組の教室の入り口に着き、近くにいたメガネの男子生徒に声をかける。
「ねぇ、ごめん。金子さん呼んでもらっていいかな?」
「……え?……あぁ」
男子生徒は伏せ目で睨むかのように小さな圧を放ってきた後、教室の奥にいた金子さんの所へ歩み寄り、こっちを指差して彼女を誘導した。
……やっぱり俺の噂の広がりって、自分のクラスだけじゃないんだな。これは下手したら学年どころか全校生徒に避けられてるぞ……。
「え、江守。どうしたの急に来て」
「あぁ、金子さん。補充用の赤い絵の具を持って行ったって聞いたから、それを借りに来たんだ」
「絵の具ってこれのこと? もううちで使わないから持って行ってくれていいけど」
教室から一歩だけ出てきた金子さんは、ちょうど手に持っていた業務用サイズの絵の具を押し付けてくる。
「あ、あぁ。ありがと」
「いいわよそれぐらい。……てかあんた、これだけのためにここに来たの? 記憶ないし、友達もいないんだから、連絡くれれば私が持って行ったのに」
「うっ……」
ストレートな優しさとディスりが、受け取った絵の具を貫通して胸に突き刺さる。
オブラートとか知らないのか、この子は。
「俺、スマホ無くしちゃったみたいで、したくても連絡できなかったんだよ。新しく買いたいとは思ってるけど、まだどう選んでいいかも分からないから買えてなくてさ」
ちょっと怒られそうな気がしたので、言い訳がましい理由をつけて答えた。
そんな自分の目の前。手ぶらになって腕を組んでいた少女は、金色の髪の隙間からチラリと頬を覗かせた。
──なぜか、トマトレッドのように赤く染まった頬を。
「そっ、ちょっ……あ、あんた、やっぱり意外と積極的ね」
「え?」
「スマホ買うのを口実に私をデートに誘ってるわけでしょ? まぁそれぐらいなら、行ってあげなくもないけど……」
髪の毛をクルクルと指に巻き付けながら、彼女は俺から視線をそらす。
「……え?いや、それはさすがに」
「なっ、あんたの勇気に免じて行ってあげるって言ってんの!」
「いや、それは……」
「連絡できないからって、わざわざこんな時に、こんな場所で誘ってきて! わ、私だって困ってるんだから……!」
彼女は次第に早口に、大きな声になっていく。
「じゃあとりあえず、今日の放課後、校門前に集合で! さっさと済ませたいしっ!」
「そうじゃな……」
「遅れたら承知しないんだからっ」
彼女はそれだけ言い残すと、ふんっと金色の髪を揺らして教室の奥へ戻って行った。
……金子さん。声、でかい。
残された俺の背中に、廊下を歩く生徒たちから、警戒心と好奇心が混ざったような視線が向けられていた。
そしてすぐそこにいた、さっきのメガネの男子生徒とも目が合う。
そのレンズの奥から向けられたのは、少し不機嫌そうな、あるいは神経質そうな鋭い一瞥。
……金子さんって綺麗な顔立ちしてるし、そりゃ目立つよな。
中身はもしかしたら、ちょっとアレかもしれないけど。
俺はざらついた視線にいたたまれなくなり、逃げるように自分の教室の方へ戻った。




