第3話 昨日の彼女は今日は何?
「いや、ごめん何でもないっ。この話は今度にしよう! 首の傷はさ、たぶんそこだけ事故で怪我しちゃったんだよ」
「んー。交通事故でこんな所だけ怪我するかな?」
「ほら、首の筋トレって結構難しいでしょ? だからそこだけ守れなかったんだと思う」
「ふーん?」
透け透けだが鉄壁の守り。
彼女は核心的な質問を投げても、全てはぐらかすつもりでいるようだ。
「まぁ、わかったよ。とりあえず気にしないでおく」
「うん、すぐ治るといいねっ。それじゃあ真太、今のところ大丈夫そうだし、とりあえず明日の準備だけしておこうよ」
「明日の準備?」
「そう。明日から学校に復帰しないとだからね」
そうだ。そういえば俺は高校生だったのだ。
起きてからずっと前が見えず、明日のことなんて漠然としていた。でも、こうしてやらなければいけない事が出てくると、ようやく視界が開けてきた気がする。
ただ学校に行くだけ。当たり前の事をするだけだが、生きていく意味があるのだと、少しだけ体温が上がった。
「俺、学校行ったら何か思い出せるかな」
「そうだね」
稲荷さんに教わりながら、一緒にスクールバッグへ教科書や筆記用具を詰め込んでいく。
何冊にも積み重なる分厚い教科書たち。目覚めたばかりで腕の力も入っていないはずが、今は何だか軽く感じられる。
「でも、何も思い出せなくたっていいんだよ。これから一緒に楽しい思い出、いっぱい作ればいいんだもんっ」
「一緒って、稲荷さんも?」
「そうっ。私、真太と同じクラスなんだからねー?」
近づいてきた目的も分からない怪しい彼女だとしても、知り合いが居てくれるだけで心強いものだ。学校のことなんてあまり覚えてないし、今の自分には飛び込んでいく勇気がいるから。
思えば、一人だったら登校の準備なんてできなかったし、学校に行こうとも思わなかっただろう。
例え全てを隠されていようが、彼女に大きく助けられている事に変わりはない。
明日の準備物を詰め込み終えると、彼女はスクールバッグをポンと叩いて息をついた。
「よしっ、じゃあ私が帰る前に聞いておきたいこととか、もうない?」
「え、帰るの?」
「え……?」
「あっ……」
目の前の事ばかりで、部屋の電気は付けるのを忘れていた。
いつの間にか日は落ちていて、彼女の顔もさっきより遠くにしか見えない。
……なんでだ。なんでそんなこと聞いたんだ。
稲荷さんは仮の恋人とはいえ、自分と一緒に住んでいるわけでもない。家に帰るに決まっているのに。
俺はまた一人になってしまうのが怖くて、ずっと疑いを向けていた彼女にすら、最後にしがみつこうとしたのか。
「真太、もしかして私にいてほしい?」
「いや、そうじゃなくて、ただの確認で……」
「ほんとは?」
「ごめん。少しだけ心細かったのは認める。頼れる人、稲荷さんしかいなくて。でもほんとに大丈夫だから、気にしないで」
「真太……ごめんね。私、今日は家に帰らないと」
彼女は優しく口を結んだ後、静かに視線を落とす。
そしてぎゅっと瞼を閉じて顔を上げると、はにかんで目一杯笑って見せた。
「でも、嬉しいっ。真太が私を頼ってくれるの、嬉しいっ。また来るからねっ。絶対!」
月明かりの元に咲いた、優しい笑顔の花。
その健気で可愛らしい笑顔が、孤独に怯える俺の心を穏やかに包み込む。
なぜだろう、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた──。
*****
次の日。
目が覚めた俺は、稲荷さんから言われていた通り身支度をし、言われていた通りの時間に家を出発した。
今の自分は学校までのルートも、教室の場所も、クラスメイトたちの顔も覚えていない。
正直怖い。でも、そこに行けばきっとあるのだ。たしかに自分が存在していた証拠が。
まだ少し肌寒い早朝の空気は、肺の一番奥まで入ってこなかった。それでも、昨日書いてもらった地図だけを頼りに、上手く力が入らない足を交互に運ぶ。
ようやく校門までたどり着くと、同じ制服を着た生徒が続々と登校してきていた。
そのエキストラたちに紛れ、俺は皆と同じように生徒玄関へと向かう。
「お、おい……! 真太! 真太じゃないかよ!」
玄関前で声をかけてきたのは、制服が少し突っ張る程度に引き締まった筋肉と、自分より若干高いぐらいの背丈。ソフトモヒカンがそそり立つ、どう見ても体育会系な男子だった。
「えっ。あ、おはよう、ございます?」
「あぁ、おはよう! じゃなくて。お前、先生から聞いたぞ。事故で記憶喪失になったんだって。俺から連絡しても全然繋がらなかったし。……大丈夫か?」
「あぁ、はい。身体はなんとも」
「よかった、ほんとによかった。でも記憶はどうだ? 俺のこと分かるか?」
「んー、えっと……」
「もしかして、実は親友の俺の名前だけ覚えてるみたいな展開が……!」
「いや、全然。どちら様ですか?」
「おい。ドライすぎるわ」
ソフトモヒカンの彼と話しながら教室へ向かう。
聞いたところ彼は高校で俺と出会い、親友としてこれまで一緒に青春を謳歌してきたそうだ。
名前は一丸 久助。見た目は少し怖いと思っていたが、心配そうに声をかけてくれるあたり、根はかなりいい人なのだろう。
そのまま久助の案内で一緒に2年1組の教室へ入る。
入室すると見知らぬ生徒たちが一斉に駆けつけてきて、俺の周りを取り囲み、収集がつかないぐらいざわめき出す。
──とはならなかった。
何人かこちらをチラ見してきた生徒はいたが、特に話しかけてくるわけでもない。なんならすぐに目を反らされる始末。
まるで通常運転かのように、教室は朝の眠たい空気を纏っていた。
「せっかく真太が登校してきたんだから、誰か少しぐらい喜んでくれてもいいのにな」
「いや、いいよ。話しかけられても、こっちも分かんないし」
「そうか……。まぁみんな、恥ずかしがってるだけだろ」
クラスの人気者というのは出すぎた夢だったかもしれないが、さすがに誰も声をかけてこないとは。
前の俺って、コミュ障?陰キャ?
とはいえ、今の自分からすると知らない人ばかりだし、気さくに話しかけられる相手なんていない。
唯一、あの子を除いては。
久助が教えてくれた一番後ろの入口側……目の前の空席に座ると、俺は教室全体を見渡した。
「そういえば稲荷さんは?」
「ん? 稲荷って誰だ?」
「あはは、さすがにそれは可哀想だって。あんなんでも、結構優しいところあるし」
「……いや、まじで何の話してるんだ?」
「え? だから稲荷さんだって。このクラスにいる、女の子の」
「お前、ほんとに誰の話してるんだ? このクラスにそんなやついないぞ?」
…………………………は?
意味が分からなかった。
ずっと握りしめていた細い糸が、突然霧になって消えてしまったようだった。
「い、いや……いるでしょ。まだ来てないだけじゃないの? 俺の隣の席、空いてるし」
「いや、そこはずっと空席だったぞ」
「そ、そうなんだ。でも稲荷さん、たしかにいるはずだけど? 俺、昨日たくさん話したし……」
「真太、昨日退院したんだよな? 連絡もつかないし、お前一体、どこで何してたんだ……?」
久助の神妙な顔を最後に、俺の意識は少しずつ遠のいていった。
……どうして?
教室の前の入口から先生が入ってきて、クラスメイトたちは慌ただしく自席に戻る。
「今日は──が久しぶりに─────からな。みんな───」
先生が教壇で話し始めても、自分の耳には上手く入ってこない。
「──ともう1つ─────だな。」
稲荷茉子。その子は突然俺の前に現れた。
彼女だというあからさまな嘘をつき、勝手に部屋に上がり込んできて。
「これから────になるから、─────」
完全に信用はできなかったけど、くだらない話もしたし、これからの事にも少しだけ前向きになれた。
「────ってことも、────してくれ」
まだ、何も分かっていないのに。
「ということで───────」
彼女と言った理由も、俺の手を握ってくれた理由も。まだ、何も教えてもらっていない。
「みんな───────」
あれは、悪い夢だったのか?
寂しさを紛らわせるため、一人にならないために、自分自身が生み出した幻影、だったのか………?
────ガララララッッ!!!
教室の前から聞こえたドアのレールの音が、俺の意識を現実に引き戻した。
───そしてそこには、いた。
ふわりとスカートをなびかせ、真っ直ぐ伸びた背中でハキハキと歩く姿。
軽やかな音を鳴らす新品の上履きに、埃ひとつ付いていないシワの伸びた制服。
吸い込まれるような大きな瞳に、白く滑らかな肌。
そして見覚えのある、狐色の髪。
「───今日から転校してきた、稲荷茉子さんだ」
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