第2話 記憶が消えた唯一のメリットは
「ほほ、ほんとだよっ?」
その呼び掛けとは対照的に、一瞬だけこちらを覗いた大きな瞳は、またすぐに明後日の方へ逃げていく。
「えぇ……」
「あ、そうだ!名前! 名前聞いたら私のこと思い出すかも?!」
「まぁたしかに、聞いてみたら何か思い出すかも」
彼女は乱れた髪を手櫛で整え、よれた制服をパッパと払うと、右手を胸に当てこちらを見つめた。
「私、稲荷って言うの。稲荷は苗字ねっ」
「いなり……」
「どう?下の名前、思い出せそう?」
先程とは打って変わって、楚々とした立ち姿。
着こなされた紺青色の制服と肩までかかる狐色の髪は、絹豆腐のように白く滑らかなその肌を引き立てている。
一目見て分かっていたが、改めて見るとモデルやアイドルにいそうな整った顔立ちだ。
後ろから強く照りつけている西日でさえ、彼女の存在感を前にすると最早ただのバックライトにしか感じないほど。
しかし、稲荷か……。
自分の名前も覚えていなかった俺が、他人の事を覚えているとは到底思えない。それがもし彼女(?)であったとしてもだ。
こちらを覗く彼女の期待感に呑まれ、まだぼんやりした頭で思考を巡らす。そして少ない引き出しから、失ったはずの記憶の一片を探し出した。
「いなり……ずし」
「なわけないじゃんっ!!!」
……さすがに違った。
「ていうか、何でいなり寿司の事は覚えてて私の事は覚えてないの?! 私よりいなり寿司の方が大事なのっ?!」
「いや、まぁ、こう言っちゃ悪いけど今のところそうかも」
「なっっ。悪いと思うなら言わないでよぉ~!」
眉間に深くシワを寄せ、泣き出しそうな顔で唇を震わせる彼女。
でも、その感情の起伏が何故だか自分にはとても可笑しくて。初めて人間らしい会話ができた実感から、俺の頬は少しだけ緩んだ。
「私の下の名前、茉子だからねっ。稲荷茉子。か、彼女なんだから、ちゃんと覚えてね?」
「ま、まぁとりあえず名前は覚えておくよ」
「頼むよ?……よしっ。じゃあそろそろ、中にお邪魔するね」
彼女は片足を上げると、土で汚れたスニーカーをよいしょと脱ぎ始める。
「え?入るの?」
「え?入るよ? だってここだと話しづらいでしょ?」
「いやでも、ここ俺の部屋……男の部屋だし。知らない女の子を入れるのはちょっと」
「…………彼女だもん!」
その一言ともに唇を尖らせた彼女は、脱ぎ終えたスニーカーを綺麗に揃えると、俺より先に部屋の中へ入っていった。
……すごい子が来たな。
しかし今後どうすればいいか分からない俺は、現状唯一の知り合いであるこの子を追い出すわけにもいかない。
渋々後をついていき、とりあえず部屋の中心にある小さなローテーブルを挟む形でお互いに座った。
静かで質素な部屋の空気がなんだか息苦しく、俺は肩を吊り上げて正座する。そして勝手に上がり込んできた正面の彼女も、何故かガチガチに身を固めて正座している。
しばし無言で向かい合うと、テーブルの向かい側に座る自称彼女は、落ち着きなく俺の部屋の中をキョロキョロと見渡し始めた。
「ねぇ、稲荷さん」
「え?」
「俺の彼女なんだよね?」
「う、うん……。そうだよ?」
当たり前かのように返事をした直前。
一瞬だけ、彼女の顔に深い陰が見えたような気が……。
「じゃあなんでそんな初めて来たみたいな様子なの」
「なっ。そ、それは。真太、部屋の中に入れてくれたことなかったんだよ」
「ふぅん?」
彼女ぐらい部屋に呼びそうなものだが。一応目は合わせてくれているし、特に嘘を言っていそうな雰囲気はない。
ってまぁ、そもそも彼女っていうのが嘘なら、この部屋に入ったことがないのは当前だが。
「そ、そんなことよりさ。真太、体は平気そう?」
「え? うん。ずっと寝てたせいか、なんか全身がだるくて重い感じはあるけど。特にどこも痛くないし、大丈夫」
「そっかぁ、よかった」
「でも俺交通事故だったんだよね?さすがに無傷すぎない?」
「え、えーっと。真太、最近筋トレしてたみたいだから。たぶんそのおかげだよ!」
「そうなの? 筋トレってそんな効果あるの?」
「うん、あるあるっ」
そう言って彼女は笑顔でブンブンと首を縦に振った。
なんかもう何が本当でどれが嘘かよく分からなくなってきたな……。
「あっ、じゃあさ、俺の首に傷があるのは関係ある? ここの所。ここだけ大きい傷痕があって。結構痛むんだけど」
病院で起きてから確認したが、他にはどこにも傷痕なんてなかった。でも唯一刻まれていたこの首の傷だけは、最近できたものであることを裏付けるようにズキズキと痛むのだ。
俺が話しながら首の後ろをさすると、彼女はその傷痕を確認もせずこう続けた。
「あ、あー、それはたぶん……えっと、立体起動装置……! 超硬質ブレードにやられたんだよっ!弱点だからね!」
「……ん?なんだって?」
「あ、あはっ、じょ、冗談だって~」
「リッタイキドウ?ってなに?」
「あっ。って、そっか。記憶ないんだったね」
「うん」
「ご、ごめん、なんでもないよ? 気にしないで~?」
へへっと可愛らしく笑った彼女は、俺を諭した後、スイッチを切り替えるようにそのまま黙り込む。
そんなコロコロと表情を変える彼女の様子を見て、俺の疑惑は確信に変わった。
──この子、稲荷茉子は絶対に俺が記憶喪失になった秘密を知っている。そして驚くほど下手だが、明らかにそれを隠したがっている。
決めた。
俺はこの子の嘘に乗っかってでも、自分が記憶を失った理由を探し出す。そしてその記憶を取り戻してみせる。
もちろん"可愛いから"というのは大前提?だが。今のところ手掛かりは、この得たいの知れぬ少女しかいないのだから──。
正面に意識を戻すと、いつの間にか顎に手を当てていた彼女は、真剣な顔つきで一人ゆっくりと頷いていた。
「でも、あれをまた1話から記憶ゼロで見られる真太……。そこだけは羨ましくもあるかもしれないね……」
「………………まじで何の話?」




