第1話 彼女ってこんな感じだっけ
……誰か液体ノリでも塗りたくったのか?
目が覚めるも、重く閉じた自分の瞼が、見えるはずであろう景色を遮断している。
横になっている自分の身体は、思うように力が入らない。目が開かないのも力が入っていないためだと気がつき、ゆっくり慎重に、古びたシャッターのような瞼を目元の力だけで押し上げた。
白く無機質な天井に、アルコールの消毒液のツンとくる匂い。
──どこからどう見ても、病室だった。
「目が覚めたのか!!」
ちょうど病室に入ってきたらしい白衣の男性が、自分の様子を見てその大きく開いた口を押さえている。
彼はこちらのベッドに駆け寄ると、手際よく身体を触診し、近くに置いてあったモニターを食い入るように確認した。
そしてこちらを見つめ、真剣な眼差しで問う。
「君、ここがどこだか分かるか? 自分が誰だか、分かるか?」
「ここは……どこですか?」
「病院だ」
「僕はどうしてここに?」
「それは。詳しくは分からないが、いろいろあったようだ」
「そうですか……」
「何か思い出せる事はあるか? ここに来るまでの出来事とか、今日の日付とか、なんでもいい」
「えと。いえ、何も覚えてないです」
「そうか。やはり、記憶が…………」
先生らしき男性は再びモニターを眺めると、こちらにも分かるぐらい肩を落とす。
きっと頭に付いている吸盤みたいなやつが、自分の脳波でも計っているのだろう。その結果が悲観的なものであることは、彼の表情から容易に察しが付く。
「いいか、落ち着いて聞いてくれ」
先生は暗い表情で近くの椅子に腰かけた。
静かな病室には、どこからか届いたピコンピコンという寂しげなアラームの音だけが聴こえている。
そして目を瞑り口を結んだ彼は、下を向いて一呼吸置いた後、陰りのある表情で口を開いた。
「君は記憶喪失だ」
「そう、ですか」
言われるまでもなかった。
「先生。僕は……」
さっきからずっと、何も分からなかったから。
「僕は………………」
考えても、何も思い出せなかったから。
「僕は…………………………」
自分が何者かさえ、分からなかったから。
「僕は…………………………。男ですかね?」
張り詰めていた先生の肩が、一気に崩れ落ちた。
「……こういうときは普通自分の名前を訊くんじゃないのか?」
「いや、最悪名前は後からでも変えられます。でも、性別……性自認だけは、そう簡単には変えられないかもって」
「そ、そうか。それなら自分で確かめるといい」
いつの間にか先生の横に立っていた看護師さんの気まずそうな顔。その顔が、布団の中に突っ込む自分の手を小さく震えさせる。
恐る恐るズボンの上からその辺りをまさぐる。すると、探し物はすぐに可愛らしく挨拶してきた。
「よかった。ついてる」
「よかったな」
「でも先生。サイズが……」
「すまない。それは私にはどうにもならない。……というかそんな事は知らん」
「そうですか……」
「だが、希望は捨てるな。今の君はまだ身体が弱っている状態だ。全身と一緒にソレも回復する可能性は、まだある。……たぶん」
*****
そこから病院で聞いた話は大体こうだ。
俺は近くの学校に通う高校二年生。肉親は父親だけで、その唯一の肉親も遠方にいるそうだ。父親には病院の方から何度も連絡しているが、未だに連絡はつかないと言っていた。
交通事故で治療を受けた後にこの病院へ運ばれてきたらしく、唯一の手荷物は小さなトートバッグだけ。入っていた財布の中身から察するに、俺は恐らくアパートで一人暮らしをしている。
それに目が覚めたばかりで多少弱っているものの、身体には特に異常が無いとの事。事故にしては外傷や痛みが殆どないのは気になるが、私生活を送るのには何も不自由なさそうだ。
それでも自分の正体は分からないまま。五体満足なことに喜ぶ余裕などないし、ずっと自分だけが宙に浮いているみたいで、これからの事なんて考えたくもなかった。
しかし、この世はあまりにも残酷だ。
そんな俺を切り捨てるかのように、この日目が覚めてからたった2時間程度で、追い出されるように退院することになったのだ。
受付で身元引受人のことを聞いてみても、「そのうち会えます。お伝えできるのはそれだけですので……」と、意味深な説明をされるのみ。
何かを隠しているような、実に不可解な対応だった。
病院の外に出ると、見慣れない町の見慣れない景色。田舎の住宅街に吹く春の涼しげな風が、やけに自分の身体を冷やす。
そして保険証の情報を手掛かりにたどり着いた自分のアパート。
トートバッグに入っていた鍵で扉を開け、生活感がないほど整理された部屋に、一人で静かにお邪魔する。
ここにたどり着くまで、何も問題はなかった。
病院でもらった大きな地図を見ても、迷うことはなかった。
ほどけた靴ヒモも、すぐに自分だけで結び直せた。
外で見かけた可愛い犬は、ミニチュアシュナウザーだった。
教えてもらわなくても、犬種ぐらい簡単に分かった。
でも、何も思い出せなかった。
自分の生い立ちも、目が覚める前に起きた出来事も、家族や友人、大切な人の名前すらも……。
ピンポーーーーン。ガチャガチャガチャッッ!
静寂の中に突然鳴り響いたインターホン。加えて追い討ちをかけるような激しいドアノブの煽りで、行方を失っていた自分の意識が引き戻される。
それらがあまりに鳴り止まないので、力なく立ち上がり、騒がしい音の方にトボトボと向かう。
電気すら付けていなかった暗く狭い玄関。未だノックの嵐が絶えないドアの鍵を、弱った腕でそっと開く。
すると、その重たく冷たい鉄の扉は、俺の意思に反して勢いよく開かれた───。
「真太っ!!」
開かれた扉の向こうから差し込む強く眩しい西日。
その光を背に立っていたのは、息を切らし、赤みがかった頬をした美しい少女。
初めて見る少女だった。
「真太っっ!!」
彼女はこちらの顔を見るなり、今にも泣きそうな表情で俺の手を取った。
艶があるのに乱れた髪の毛。走ってきたからか着崩れてしまった制服。そこから向けられたのは、真っ直ぐで潤んだ瞳。
理由は分からない。でも、なぜだかその眼差しが、自分の乾いた瞳を少しずつ潤す。
俺の名前、真太っていうんだ……。
病院で教えてもらった身に覚えのない名前。知っていたはずなのに、こうして呼んでもらえたのは初めてで。
自分の手を握る彼女の冷たい手が、俺を温かく、優しく包み込んでいた。
「………………あっ!」
しばらく見つめ合った後、急に我に返ったのか、彼女は俺から視線を外し、慌ててその手を離す。
「ご、ごめんね真太。きゅ、急に来ちゃって!」
「いや、えと。大丈夫、です」
「真太……」
俺の返事を受けて伏せられた目は、見るからに寂しくて悲しい空気を纏う。
「やっぱり何も、覚えてないんだね。記憶、なくしちゃったんだね……」
「え……。は、はい」
やけに察しがいい彼女。
病院から連絡があったのだろうか? こちらの事情をよく分かっているようだ。
父親の他に家族がいるとは聞いてなかったし、ここまで知っているということは、友人か、あるいは遠い親族か何かだろうか。
「あの、あなたは……?」
どうしても思い出せない俺は、少女の目を見て問いかけた。
自分だけが相手を知らない状況でこんなことを聞いて、また彼女を悲しませてしまうかもしれないのに。
───しかし、そんな心配も杞憂に終わった。
さっきまで潤んでいたはずの彼女の目は、せわしなく、その居場所を探すようにあちこちと泳ぎ出す。
「わ、私は。真太の、か、彼女……だよっ?」
「…………絶対うそじゃん」
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