第27話 まどろみの中の彼女
人だかりによって、俺の目からはもう倒れているはずの稲荷さんを確認することができなかった。
担架のようなものが用意されて、大人たちがそれを運んでいって。彼女が元気なのか、意識はあるのか、どこか怪我をしてしまったのか、ここからでは何も分からない。
「ま、茉子っち、大丈夫……だよね」
観客たちのざわめきが聞こえなくなるほどに、自分の鼓動はドクンドクンと大きく音を立てて速まっていく。
どうしてこうなった。稲荷さんはあんなに練習していたのに。なんで本番に限って。なんでこんなことに……。
額から嫌な汗が流れ出て、それが一粒自分の手の甲に滴り落ちた。そしてふと、ポケットに入っていたスマホを取り出す。
画面を見ると。自分のまわりだけ、一瞬で時間が止まってしまったかのようだった……。
「稲荷さん……」
俺はスマホを持って走り出した。
それに驚いて声をかけてきた巳波さんを気にもとめず、観客たちの間を縫って校舎の方へ向かう。ただ前を見て、彼女がいるであろう保健室を目指して。
スマホには一通のメールが届いていた。
「次は大切なものが傷つくことになる」と、それだけのメッセージ。
俺が安易に作戦を実行してしまったから。また何かされるなら自分だけだと思い込んでいたから。俺のせいだ……。
ひどく荒れた呼吸が、必死に前後へ動かす自分の足を震わせる。彼女に何かあったらどうしよう。散々助けてもらったのに。励ましてもらったのに。あの笑顔を自分で奪ってしまったのなら、もう、俺はどうしていいか分からない。
稲荷さん……稲荷さん……その名前だけが、走って揺れる頭の中を何度も駆け巡っていた。
そしてようやく辿り着いた保健室前、部屋の前で立ち止まる。
呼吸を落ち着かせようと深く息を吸うも、激しくなった鼓動は収まらない。そんなものを待っている余裕なんてなく、俺は保健室のドアを開けた。
ガラララッッ──
ドアを開けた先にいたのは、ベッドの上で身体を起こし、窓の外を眺める一人の少女。
窓から入る日差しが、電気を消した薄暗い部屋の中を照らしている。会場の熱気がほとんど届かないその空間には、カーテンをなびかせる柔らかな風だけが吹き込んでいた。
「稲荷さんっ……!」
「え?……真太?」
こちらに振り向いた彼女は、座ったまま静かに驚きの声をあげる。
「稲荷さん、怪我は? 怪我は……?!」
「えっ、えっ」
すぐにベッドに駆け寄った俺に対し、彼女は言葉になっていない返事をした。
「なっ、そっ」
「どこか、怪我したんじゃ……?」
「だ、大丈夫だよっ」
「ほ、ほんとに?」
「うん、ほんとに。落ちたときちょっと足首ひねっただけで、もう自分でも立てるから」
「……そ、そっか。……はぁ。……よかったぁ」
肩の力が一気に抜けて、ベッドの側でしゃがみこむ。不思議そうな顔をしていた彼女は、俺の様子を見るなり口に手を当てて問いかけてきた。
「心配……してくれたの?」
「当たり前じゃん。何かあったらどうしようって、ほんとに怖かったよ」
「そ、そうなんだ……。でも私、元気いっぱいだから! 大丈夫! へへっ」
「……うん。よかった、何もなくて。本当に」
照れてしまったのか。向けられていた元気な笑顔は赤く染まり、すぐに窓の方へ逃げていく。
自分の体操服の袖を掴みながら、向こうを見続ける彼女。それを見ていると、無事でいてくれた安心と同時に、こちらにも少し気恥ずかしい感情が湧き出てくる。
「それにしても、あの高さから落ちてよく無事だったね」
「え? な、なんとなく落ちそうな気がしたんだよ。私のサイドエフェクトがそう言ってたんだよ」
「ふふ。なにそれ」
「第六感みたいなやつ? でも真太がこんなに心配してくれるんだったら、落ちた甲斐もあったってもんだよ。へへ~」
「いや、心臓に悪いからもうやめてよ? 危険な目に遭うのは」
「へへ。は~い」
布団から出た彼女の足首には、白く大きな湿布が一枚貼られている。衣装も脱いで体操服姿になっているし、元気そうだが怪我人には変わりないんだ。
「ね、ねぇ、稲荷さん。脚立から落ちたのって、何が原因だったの?」
「え、えっと……。衣装が破れちゃってて。腕を広げたとき、脱げそうになったから。それで慌ててたら落ちちゃった」
「そうだったんだ……。衣装って、そこに置いてあるやつ?」
「うん、そうだよ」
俺は振り返り、保健室の入口に置いてあった赤い衣装を手に取る。ヒラヒラの装飾をめくっていくと、彼女の言う通り、脇の下辺りから裂けている痕跡が見つかった。
でも、裂けている部分。そこには少しもほつれがなく、布が真っ直ぐに分かれている。……破れているというより、カッターやハサミで切り裂いたような跡だった。
「稲荷さん。この衣装作ったの、誰?」
「クラスの女の子たちだけど……。で、でも、その子たちのせいじゃないよ? 昨日のリハーサルでは問題なかったから、私が動いて破っちゃったんだと思う」
「そ、そっか……」
昨日のリハーサルまで問題なかったのなら、今日裂けてしまったということ。そして稲荷さんは自分のせいだと言っているが、あのメールが来てからタイミングが良すぎる。
たぶん、やったのはメールの主。それで稲荷さんは危険な目に遭って。完全に俺のせいだ。俺のせいじゃないか……。
ベッドの脇にあった椅子に座ると、薄く重いため息が漏れた。俺は彼女に目を合わせられないまま、その言葉を伝える。
「稲荷さん、ごめん」
「え? な、なんで真太が謝るの?」
「ごめん。金子さんのこととか、今回のこととか、ごめん。全部、ごめん……」
「だから、なんで。なんで、謝るの……。私、怒ったりしてないよ……?」
「それでも、ごめん」
「あ、謝らないでよ……」
窓の外、ずっと遠くの方からマスゲームの音楽が小さい音で流れてきていた。赤組は途中で終わってしまったから、たぶん違う組のもの。
怪我がなかったから安心、良かったという話ではない。頑張ってきた彼女が今はベッドの上なんだ。これまでの努力が報われることなんて、もうない。
「真太……どうしたの? 大丈夫?」
「ごめん、ちょっと疲れただけだよ」
「そ、そうだよね。今日はいっぱい動いたもんね」
「うん……」
俺はいつになったらメールの主を突き止められるのだろう。友人まで巻き込んで、稲荷さんにまで迷惑をかけて。いつになったら、この生活が終わるのだろう。
ベッドの縁に手を置き、視線を落としていると。
稲荷さんが自分のかけ布団を持ち上げ、こちらに赤い顔を向けてきた。
「い、い、一緒に入る? い、一緒に、寝ちゃう?」
「……はは。稲荷さん、言うなら照れずに言ってよ」
「だ、だって……。へへ」
やっぱり、稲荷さんは稲荷さんだ。
照れ隠しでいつものように笑った後、彼女は自分が使っていた枕を俺の手元に置いた。
「真太も、ちょっと休もうよ」
「うん。ありがと」
俺は椅子に座りながら、ベッドの縁に置かれたその枕に顔を埋める。ゆっくり息を吸っていると、何度か嗅いだことのある優しい花の香りがした。
そしてベッドに座っていた彼女の方から、小さな声が聴こえてくる。
「ねぇ。ちょっとだけでいいから。……手、握ってもいい?」
「……うん」
枕に伏せたままの俺の手に、小さくて冷たい手が静かに添えられた。
「こうやって二人でいられるだけで、私、幸せ」
「……うん」
触れる程度に添えられていたその手に、少しだけ力が籠ったのを感じる。
「私には、どれだけ迷惑かけてくれたっていいからね」
「……ありがと」
消えてしまいそうな程優しい囁きの後、自分の呼吸と遠くの声援の音だけが耳に染み込んでくる。
そして、動かなくなった彼女の手の重みを感じながら、俺の意識は少しずつ現実から遠ざかっていった──。
◇◇◇◇◇
夢の中。これはたぶん、俺の記憶。
自分が寝ているのは一人用のベッド。そこから見える背景は、恐らく入院していたのとは別の病院。
そして首を横に倒す自分の目の前に、誰かの立ち姿が映っていた。
どこかで見たことのある制服。女子高生の制服。
顔を見るため力の入らない首をゆっくり傾けるも、ぼやけた視界はその顔を捉えることができない。
そうしてまた意識が遠くなっていった俺は、静かに瞼を閉じた。
ベッドの側で、自分を見下ろす一人の少女。
彼女は一体、誰だったんだろうか……。




