第17話 小鳥がさえずればそれは朝チュン
チュン、チュン、という雀のさえずり。
アパートのすぐ近くで鳴いているのか、可愛くも騒がしいその声で、俺の意識は確かに現実に戻ってきた。
最初に目に入ってきたのはいつもの天井。壁の方を向いて寝たはずなのに、体はいつの間にか仰向けになっている。
寝ながら首を横に向けると、シワができたシーツの大きな余白があった。そこにはもう、誰かの温もりは残っていない。
稲荷さんは……?
布団から部屋の中を見渡しても、彼女の姿、それに持ってきていたリュックも見当たらなかった。布団のすぐ近くには、昨日彼女が着ていたスウェットが綺麗に折り畳まれている。
充電していたスマホを手に取り確認すると、稲荷さんからメッセージが届いていた。
『私、用事があるから帰るね! 泊めてくれてありがと! 寝顔は見てないからね~♪』
見てる人のそれじゃん……。
スマホの向こうに彼女の無邪気な笑顔が浮かぶ。
小鳥のさえずりしか聞こえない静かな空気と、昨日より広くなった部屋が物寂しく。それでもどこか、一人に戻ったことにホッとしてしまう朝だった。
夜に聞こえてきた彼女の小さな呟き。あれはやっぱり夢ではなかったんだろうか。
週末の余暇、ランニングや宿題をしながら考えてしまうのはそのことばかり。
いっそメッセージを送って聞いてしまえばと思うものの、指で文字を起こしていくのが、逆に怖くて仕方なかった。
もし彼女の触れてはいけない核心に触れてしまったら。これまで築いてきた関係はどうなるのだろう。今まで嘘の彼女であることを深追いしなかったのと同じように、騙されているまま、ハリボテの檻の中にいた方が、幸せなのかもしれない。
揺らぐ心に一区切りつけられず、俺は結局何も行動を起こすことなく土曜日を終えた。
そして迎えた日曜日。
今日は早めに起床し、トースト、ゆで卵、サラダ、きちんとした朝食を摂る。
朝のランニングを終えてシャワーで汗を流した後、私服に着替えて外に出た。
5分ほど歩いて着いたのは稲荷さんの住むアパート。近くの塀の影から、2階にある1つの部屋のドアを見つめる。下校中、聞いてもいないのに勝手に教えてくれた、彼女が住む部屋だ。
ここに来ることを連絡していないし、彼女が今日何をしているかも知らない。監視……のようなものになってしまうのだろうか。自分といない時の彼女の行動を確かめるのが目的だった。
しかし1時間程その場で待機していても、ドアの向こうから彼女が出てくることはない。それもそうだ。外出する予定なのかも知らないし、そもそも部屋にいるかも分からないのだから。
塀の日陰でしゃがみながら、乾いたため息が漏れた。
俺は何をしてるんだ。
……こんな事は、もうやめよう。
そう思って顔を上げた時だった───。
「……え?」
「……あ」
視界の中に飛び込んできたのは、塀の影から正面を横切ろうとした一人の少女。歩いてきた彼女は、俺の方を2度見した後その足を止めた。
「江守……」
涼しげな白のブラウスと春らしい淡い色のカーディガン、長い足を引き立てる無地のロングスカート。大きなトートバッグをかけていた肩には、上から重なる金色の髪。
「こ、こんなところで、何してるのよ」
「か、金子さん。いや、ちょっと散歩してて」
「散歩? 散歩中なのに、なんで屈んでるのよ」
「いや、その。休憩してただけ」
「ふーん」
「じゃ、じゃあ俺行くから……」
こんなところで金子さんに会うとは思わなかった。
状況に驚きつつも、俺は早めに会話を切り上げて後ろを振り返る。
「ちょ、ちょっと待ちなさいっ」
「え?」
「久しぶりに話したのに、それだけ?」
「ご、ごめん。でも今日はちょっと。またいつかね」
再び歩きだそうとすると、さっきよりも細く震えた声が届いた。
「ま、待って……!」
「え?」
振り返ると、肩にかけていたトートバッグの持ち手を両手で強く握っている彼女。こちらに向けられた眼差しも、その落ちた眉のせいでどこか弱々しい。
「私、何かした……? あんたに、何かしちゃったの……?」
「いや、そんなことは」
「じゃあ、なんで逃げるのよ……。何度か学校で見かけても、すぐ目をそらして。一緒に出かけたあの日からずっと……」
「そ、それは……。俺とあんまり仲良くしてると、金子さんの評判、下がるから……」
「そんなんで落ちる人望なんてないって、言ったじゃない」
「……うん」
「なんで、避けるのよ……。なんで、あんたまで……」
最初は俺を見下ろすぐらいだった視線はもう、影のできた地面まで落ちてしまっていた。
金子さんのため。何にも巻き込まないため。そう思って避けていたのは紛れもない事実。
でも、いま彼女をこんな顔をさせているのは自分だ。
避けられて、自分から話しかけることもできなくて。その孤独は、俺もよく知っているはずなのに。
「……ごめん、金子さん。やっぱり、少しだけ話してもいいかな?」
「うん。話して。ちゃんと私に、話して」
*****
まだ稲荷さんのアパートが見える距離、すぐ近くの公園。大きな木の陰まで彼女を誘い、そこにあった木製のベンチに2人で座った。
「今まで避けたりして、ごめん」
「どうせ私への気遣いとか、そんな理由なんでしょ?」
「まぁ、うん」
「何か、あったの?」
俺は届いていた2件のメール、たばこの件、それらの全てを包み隠さずに教えた。
こちらの目を見つめながら話を聞く彼女は、時折ただ静かに頷く。
これまで、こんなに事細かく誰かに伝えたことはなかった。
稲荷さんにも、巳波さんにも、久助でさえも。
みんないい人だと頭では分かっているのに、ほんのわずかに残る疑念が、自分の口を閉ざしていたから。
でも、金子さんはあのメールの当事者だ。彼女だけは絶対に送り主じゃない。
自分で近寄るなと忠告しておいて、こんなにも真剣に、こんなにも悲しそうな目で話を聞く人がいるものか。
彼女だけ……今の俺にとって彼女だけは、心の底から信頼してもいい、唯一の味方だった。
「江守……もっと早く相談しなさいよ」
「ごめん」
「ちゃんと私にも、背負わせなさいよ……」
「ごめん」
風で揺れ動く木漏れ日が、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳に陰陽を作り出す。
大きな木陰の元、そうして彼女の瞳がたまに照り返す日の光で、話しながら握っていた自分の手は、次第に解きほぐされていく。
「何も知らないところであんたに何かあったら、それこそ私が私を許せなくなる。だから、これからは私にも話すこと、約束して」
「……わかった、約束する」
「絶対だから」
「うん。でも、金子さんも約束してほしい」
「え?」
「もしかしたら、今日も見られてる可能性だってあり得るし、金子さんだって何をされるか分からない。少しでも何かあったら、絶対に報告してほしい」
「私に……」
「うん」
「はぁ。わかったわ。……こっちの心配なんて、しないでって言いたかったのに」
ため息をついて深く眉をひそめた金子さんは、緩く口角を上げて呆れたように笑った。
「……何か浮かんでたら教えてほしいんだけど、金子さんはメールの送り主に心当たりとかある?」
「あんまり私に話しかけてくる人なんていないから。心当たりとかは、特にないわ」
「そっか。金子さんに近寄るなってことは、金子さんのファンって可能性もあると思ってたんだけど」
「ファンって。最後に告白してきたのは……あんただし」
「ぬぁっ……」
「…………」
何も言わない、視線だけの無言の圧力。
「……ま、まだ思い出してないので、そ、その件は」
「いつになったら思い出すのよ。誰かが代わりに思い出してくれるかもしれないし、あの手紙、SNS にでも公開しようかしら」
「ま、待って、たばこよりきついから。い、一旦冷静になろう。……てか、俺の告白って手紙だったんだ」
「そうよ。私のロッカーに入れられてたわ」
「そ、そうだったんだ」
「直接の方が、男らしいもんだと思うんだけど」
「あ……はは」
横目で見てきた彼女とは反対方向に視線を逃がす。
……何やってるんだ、過去の俺。お前のせいでこっちまでヘタレ認定だぞ。
すると。
視線を逃がした先、稲荷さんのアパートの方で、1つの部屋の扉が開いた。
中から出てきた少女は外出するのか、ドアノブに差し込んだ鍵を回している。
「えっ。あれ、稲荷茉子じゃないの」
隣にいた金子さんも、俺の動かなくなった視線に気付いてアパートの方を凝視する。
「ていうか、あの子なんで制服……?」




