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第16話 ドキドキお泊まり会


 終電……?

 その突飛な言葉に、これまで彼女に流されそうになっていた俺はふと我に返る。

 


「稲荷さん、大丈夫。君のアパートは歩いて帰れる距離。なんなら電車は通ってない」


「おかしいっ、おかしいよ真太っ! ここは『じゃ、じゃあ泊まってく……?』って言うところなんだよ!」


「いや、まずは自分の言葉のチョイスに疑問を持ってよ。そもそもまだ8時なんだけど?」


「じゃあ何時だったらいいの?」


「え? んー、11時とか? ていうか、時間の問題ではないっていうか……」


「わ、わかった! じゃあさ、今からすることないし映画でも見ようよ! それならいいでしょ?!」


「映画? それならまぁいいけど。……何時間あるやつ?」


「3時間!」



 稲荷さんの方を睨むも、彼女は頬にたらりと汗を一滴流しながら、「準備準備~!」とスマホを触り始める。

 仕方ない。映画が終わったらアパートまで送ってあげるか。 


 そこから俺たちは2枚の座布団を壁際に置き、壁にもたれながら映画を観た。

 

 テーブルに置いている、彼女の小さなスマートフォン。少し体を寄せ合わないと、画面を見るのも難しい。

 最初は遠慮して体に触れないようにしていた。でも、大事なシーンに顔や体で反応してしまう彼女のせいで、いつの間にか肩がくっつくほど俺たちの距離は近くなっている。

 カレーを食べた後なのに、隣からふわりと香るのは花のような優しい香り。落ち着かなくて横目で顔を見てみても、彼女は映画に集中していて気付いていない。


 暗くした部屋で、彼女の顔が画面の光を反射している。暗がりでも分かるぐらい、肌は白く綺麗で、柔らかそうで。画面を見つめながら切なく笑うその表情が、映画のどんなシーンよりも自分の鼓動を早めていた。

 3時間が、これほど長く感じるなんて……。

 

 

 映画が終わると、ふぅ~と大きく息を吐いた彼女は、スマホを回収しながらこちらを見つめた。


 

「面白かったね~。ちょっと怖かったけど。真太はどうだった?」


「え? うん、よかったよ」


「んー? ねぇ、ちゃんと観てた?」


「み、みてたみてた。あ、あの、後ろから殺人鬼が出てきたシーンとか。結構怖かったかも」


「わかる! あそこ怖かったよねっ。……だからさ……」


「ん?」


「真太が、怖いかもしれないからさ……。私、泊まってくよ!」


 

 ……そうきたか。 

 怖くて帰れないパターンじゃなかった。



「気持ちはありがたいけど大丈夫だよ。別に一人でも寝られるし」


「い、いや、心配なのっ。私このまま帰ったら、真太のこと心配で眠れなくなっちゃう」


「いや、でも。うち布団1つしかないし」


「え、それはむしろラッキーというか、逃す手はないというか」


「俺寝相が悪いかもしれないし」


「そんな彼氏の可愛い姿が見れるなんて、帰る理由がないよね」

 

「あんまり寝顔とか見られたくないし」

 

「え~、じゃあ見ないからっ。ねぇいいでしょ?」


「……さ、さすがに同じ布団で寝るのはまずくない?」


「だ、だって。わ、わたし、彼女だから」


「……そうだけど」


「な、何も問題ないでしょ? か、か、彼女だったら、普通だよね?」


「それは、まぁ」



 稲荷さんの顔はどんどん赤みが増していっている。隠しきれていないこの照れた表情。一緒に寝るのが初めてなのは明らかだ。



「ねぇ、い、いいでしょ? 絶対何もしないからっ。一回だけっ」


「ん~。……わかった、わかったよ」


「やった! えっへへ♪」


「でも後ろから刺したりするのもやめてよ?」


「いや、たしかに何もしないとは言ったけど。……真太、私のこと何だと思ってるの」



 電気を付け、クローゼットの扉を開ける。

 俺は彼女にできるだけふんわりしたバスタオルと綺麗なスウェットを手渡した。

 


「もう夜遅いし、稲荷さん先にお風呂入っていいよ。よければこれパジャマに使って」


「え、いいのっ? ……へへ、彼パジャマだ。ありがとっ」


「でもあとは、歯ブラシの替えとかあったっけな」


「それなら大丈夫だよっ」



 彼女は背負ってきていたリュックのチャックを開けると、中から何やらゴソゴソとたくさん取り出していく。



「歯ブラシでしょ、スキンケア用品でしょ、明日着る服でしょ、大体のものは持ってきてるから!」


「めっちゃ用意周到じゃん。まるで最初から泊まるつもりだったような」


「ま、万が一のこともあるかと思って、色々準備してきてるの!」


「その『万が一』を自ら作りにいってた気がするけど」


「い、いやはや、こんな不測の事態にも備えてるなんて。私ももう、憧れのハイスペック彼女に首を突っ込んでるかもっ」


「マッチポンプ彼女の間違いだよ。あと、突っ込むのは足にしてね」



 稲荷さんをお風呂に送り出すと、俺は布団の用意を始めた。そして床に敷いてみてよく分かる。

 これは……2人で寝るにはかなり狭い。

 ここに一緒に入るのか。大丈夫か? いやまぁ、何もしないし何もされないはずだけど……大丈夫か?


 平静を装って許可してしまったが、本当は俺も落ち着いている余裕なんてない。

 1つしかない枕の配置、布団の向き。数パターンしかないそれらを、あーでもないこーでもないと考えたりしていると、しばらくして稲荷さんが脱衣場から出てきた。

 後に俺が入らなければならないことに気を遣ってくれたのか、思いの外出てくるのが早い。



「あがったよ~っ。先入れてくれてありがとね。あと、パジャマもありがと。……ど、どうかな?」



 ドレスでも着ているかのようにスウェットの裾を持ち上げた彼女は、腰をひねって照れ臭そうに笑う。

 全身にはほかほかと温かな湯気を漂わせ、首にかけたバスタオルの上には、まだ濡れた髪がしっとりと垂れ下がっている。

 火照った頬や鼻先。ぶかぶかで袖から出ていない小さな手。そのいつもより甘く艶っぽい雰囲気で、思わず口から素直な感想が漏れかける。



「か……。か、彼女みたい」


「み、みたいじゃなくて彼女なんだけど?? あ。ちなみに今の私はね、全身が真太に包まれてるっていうか、抱き締められてる感じ~」



 左の袖をクンクンしながら、右腕を体に巻き付け、えへへと笑う彼女。



「ふふっ、稲荷さん。それ新品だから。俺の匂いじゃないよ」


「え、えぇ?!」


「お客さんだからね。おもてなしの心ってやつだよ」


「へ、返品!返品する!! 中古のやつに交換!!」


「もう営業時間外ですので。んじゃ、お風呂入ってきます」


「は、初めての彼パジャマが……出荷状態……。ぬくもりゼロ……」



 自分の体に視線を落とし立ち尽くす彼女。

 俺は「彼パジャマじゃなくて、工場パジャマだね」と一言だけ添えてお風呂の方へ向かった。


 

 服を脱ぎ、浴室に入ったらシャワーを浴びる。少しだけ熱めのお湯で、体を洗うのはいつもより入念に。

 彼女はパジャマで嬉しそうにしてくれていたけど、正直汗臭いとは思われたくない。

 風呂上がりも制汗剤を付けて、しっかり長めに歯磨きをした。

 


 寝る支度を終えて部屋に戻ると、稲荷さんは三角座りで欠伸をしながらスマホを眺めていた。俺が戻ってきたことに気付くと、すぐにスマホを置いて緩く口角を上げる。



「真太、おかえり」

 

「ごめん、先に寝ててって言えばよかったね。待っててくれたんだ」


「うん。だって私が先に寝ちゃってたら、きっと真太は床で寝ようとするでしょ?」


「それはそうするよ」


「へへ。やっぱり」



 俺がお風呂に入る前よりずっとゆったりした口調になっている彼女は、また口を抑えながら欠伸した。

 もう夜中の1時だ。疲れているだろうし、早く寝たいに決まっている。

 これまでどこかそわそわしてしまっていた俺も、彼女の様子を見ていると、ただゆっくり休んで欲しいという親心のような気持ちになってくる。



「じゃあ、もう寝よっか」


「うん」



 敷いてあった布団に入り、端っこに体を寄せる。

 壁を見る形で横向きになっていると、後ろでもぞもぞと稲荷さんが入り込んできたのが分かった。掛布団が擦れて、敷布団が少しだけ沈んで。別に触れられているわけでもないのに、背中の感覚が過敏になってしまう。


 

「真太、そっち向いて寝るの?」


「うん。向き合って寝るのは恥ずかしいから」


「ふふ。ほんとはね、私も。でも真太がそっち向いてるならさ、私もそっち、向いてていい?」


「……い、いいけど。 じゃあ電気、消すね」


「うん」



 手元にあったリモコンで、部屋の中が真っ暗になるまで電気を消した。

 すぐ後ろにいる彼女は、落ち着いた小さな声で話し始める。



「へへっ。一緒な布団だね」


「うん」


「私、真太を独り占めっ」


「今はたしかに、そうかも」


「……私ね、今日、すっごく楽しかったよ」


「うん」


「長時間2人きりでいられて、楽しかった」


「そっか。よかった」


「真太は、どうだった?」


「俺も。楽しかったよ」


「そっか。……よかったっ」


「うん」


「……へへっ」

  

「ねぇ、稲荷さん」


「うん?」


「なんで今日、来てくれたの?」


「私が、会いたかったからだよ」


「……そっか」


「うん。そうだよ」


「……そっか。ありがと」


「ううん。……へへっ」



 しんと静まり返る小さな部屋で、彼女の呟きが染み込むように耳に届く。

 今日彼女が来て、一緒にご飯を食べて、映画を観て、くだらない話をして。学校であった嫌なことなんて、いつの間にか頭の中から消えてしまっていた。

 きっと、そのために来てくれたんだろう。学校でのことを忘れられるように。俺が孤独を感じないように。


 同じ布団に女の子がいて、簡単には寝付けないと思っていた。でも、その緊張感なんかよりも。すぐ近くに彼女がいる温もりと安心感で、次第に意識は薄くなっていく。

 何も言わなくなった彼女の方を一度も振り返ることなく、温かな布団の中で、俺はいつの間にか夢の世界へさまよい込んでいった。



 

 ───そして。

 

 10分後なのか、1時間後なのか。まだ夢の中だったのか、現実に戻ってきていたのかも分からない。

 

 ぼんやりとした頭。目を開けることもなく小さな寝息を立てている自分の中に、後ろから、かすかに声が届いた気がした。

 

 とても小さな声。聞き覚えのある少女の声なのに、重く、かすれていて。初めて聞いた、息が詰まるような声。



「……真太を不幸にするものなんて、私が全部……」

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