夜をかける
「千秋……っ!」
巧は上着を羽織るのも忘れ、夜の街へ飛び出した。
冷たい秋風が頬を叩くが、走る足は止まらない。
傷つくたびに逃げ込んでいたあの部屋は、都合のいい避難所などではなかった。
自分が生きていくために帰るべき、世界でたった一つの場所だったのだ。
マンションに到着し、エレベーターを待ちきれずに階段を駆け上がる。
千秋の部屋の前に立ち、震える指でインターホンを押した。
一度、二度。
訪れる返答のない静寂。その数十秒の間、部屋の中の千秋は、インターホンのモニター越しに映る巧の姿を見て、息を止めていた。
(……なんで、ここにいるんだ)
身を切り裂くような罪悪感が胸を突く。あの日、あれほど酷い形で追い詰めてしまった男が、息を乱し、青ざめた顔でドアの前に立っている。
『また僕が、あいつを傷つけてしまう』
『追い返さなきゃダメだ。これ以上、巧の人生を狂わせてはいけない』
千秋は必死で冷徹な思考を働かせ、インターホンのマイク越しに声を張った。以前のような温もりをすべて削ぎ落とした、静かで冷たい声で。
『……巧? どうしたの。もうここには来ない約束でしょ』
「開けてくれ、千秋! 頼むから……話を聞いてくれ!」
『ダメだよ。また巧を嫌な目に遭わせたくない。……お願いだから、帰って』
「帰れるわけねえだろ!」
巧はドアに両手をつき、涙声で叫んだ。
「俺が馬鹿だったんだ! 気持ち悪いのはお前じゃない……自分から逃げて、お前を酷い言葉で傷つけた俺なんだよ!」
「誰と付き合っても上手くいかなかった理由が、やっと分かった……! お前以外の誰に触れられても、何にも感じなかったんだよ! お前じゃなきゃダメなんだ!」
ドア一枚を隔てた廊下で、千秋は血が滲むほど強く唇を噛み締め、目を見開いた。
(……何を言ってるんだ、巧は)
意味が理解できないのではない。理解するのが恐怖だったのだ。
「お前じゃなきゃダメだ」というその言葉が、もし自分の都合の良い妄想だとしたら。もし巧がただ混乱し、一時的な罪悪感からすがりついてきているだけだとしたら。
これ以上、希望を持って落とされるのは耐えられない。二十年間、巧の隣で「ただの幼馴染」として過ごしながら、どれほどその淡い期待に胸を破かれてきたか。
だが、ドアの向こうから聞こえる巧の泣き声は、言葉は、あまりにも生々しく千秋の胸を打ち叩いた。
カチャリ、と重い金属音が響く。
千秋の手が勝手に鍵を回していた。理性が「開けるな」と叫ぶより早く、身体が、魂が、巧を求めて動いてしまっていた。




