熱の記憶
千秋の部屋を飛び出してから二週間。
巧の日常は、まるで質の悪い悪夢の中を彷徨っているようだった。
「自分は間違っていない」「あいつが狂っていただけだ」――そう自分に言い聞かせ、己の「正常さ」を証明するため、巧は知人の紹介で会った女性とカフェに向かった。
相手は優しく、品のある女性だった。会話を交わし、世間一般の「正しい恋」をなぞろうと必死に笑顔を作る。けれど、テーブル越しに向かい合っている最中も、巧の肌はうっすらと嫌な汗をかいていた。
帰り際、駅の改札前で「またお会いできますか」と彼女から手を重ねられた、その瞬間――。
(――っ、やめろ!)
叫び出しそうなほどの強い拒絶感が、喉元までせり上がってきた。
相手の柔らかい手、そこから伝わる女特有の体温。それらすべてがゾッとするほど不快で、巧は思わず相手の手を振り払いそうになるのを、必死の理性で押しとどめた。
何も感じないのではない。「千秋以外の体温」そのものが、今の巧の身体にとって耐えがたい異物と化していたのだ。
「すみません、急に体調が……っ」
引きつった笑みを残して逃げるように電車に飛び乗り、巧は自室のアパートへと駆け込んだ。
鍵をかけ、暗闇の中で激しい呼吸を繰り返す。洗面所の鏡に映る自分の顔は、死人のように青ざめていた。
(なんで……? なんでダメなんだよ!)
蛇口を捻り、冷水を何度も顔に叩きつける。
けれど、水を拭うたびに脳裏へ、肌へと蘇ってくるのは、あの夜の千秋だった。
ソファーに押し倒された時の、抗えない男の力強さ。
耳元で吐き出された、低く掠れた息の熱さ。
強引に奪われ、口内を荒らされた唇の感触――。
思い出すだけで、巧の心臓は狂ったように跳ね上がり、背筋を甘い痺れが駆け抜けた。女性の手に触れられた時にはあんなに冷え切っていた身体が、ただ千秋の感触を思い描いただけで、生々しく熱を帯びていく。
「嫌だ……っ、なんであんな奴の……っ」
巧は洗面台にしがみつき、頭を振った。
男同士の恋愛なんて理解不能だと、生理的に無理だとバカにしていたはずだった。触れられただけで鳥肌が立つと言っていたはずだった。
なのに、巧の身体は、あの日千秋に刻まれた生々しい熱と快感を、何よりの真実として記憶してしまっていたのだ。
頭(理性)が「気持ち悪い」と叫べば叫ぶほど、身体(本能)は千秋の体温を求めて酷く疼く。その圧倒的な乖離と敗北感に、巧の精神はすり減っていった。
『お前……狂ってんのかよ! 気持ち悪い……!』
あの日、千秋に投げつけた自分の言葉が、刃となって何倍もの重さで自分に突き刺さる。
本当に愚かで、歪んでいて、狂っていたのは誰だったのか。
千秋を失い、誰の体温も受け入れられなくなった冷たい自室で、巧はただ、身体に残る千秋の熱の記憶に苛まれながら、暗闇の中で膝を抱えることしかできなかった。




