不在の部屋
巧が嵐のように去っていったあとの部屋は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
指先には、ソファーに押し倒した巧の細い手首の感触が、強引に奪った唇の柔らかさが、焼き印のように残っている。
『お前……狂ってんのかよ! 気持ち悪い……!』
巧が吐き捨てた最後の言葉が、脳内で何度も、何度もリフレインする。ナイフで胸を抉られるような激痛。だが、それ以上に千秋をさいなんだのは、「ついにやってしまった」という絶望的な自己嫌悪だった。
(……分かっていたはずだろ)
巧が同性愛に対してどれほど強い忌避感を抱いていたか。テレビのCMを見て眉をひそめ、「生理的に受け付けない」「身近にいたら引く」と言っていた、あの言葉。あれは巧の本音であり、拒絶だったのだ。
それなのに、自分は長年の片思いの苦しさに耐えかね、巧の無自覚な甘えに憤り、あろうことか力ずくでその身体を奪おうとしてしまった。
「……最低だ、僕は」
両手で顔を覆うと、指の隙間から熱いものが溢れ出た。
巧の幼馴染という「一番近くにいられる特等席」を守るために、二十年間、必死で欲望を殺し、優しい顔を作り続けてきたというのに。自分の愚かな一瞬の感情の破裂で、そのすべてを自ら叩き潰してしまった。
翌日からも、世界は何事もなかったかのように回っていた。
職場のデスクに向かい、パソコンの画面を見つめ、同僚からの問いかけにいつもの穏やかな笑顔で答える。だが、自分の内側は完全に空洞だった。感情の針が狂い、何を食べても味がせず、夜になっても瞼を閉じると巧の怯えた顔が浮かんで眠れなかった。
部屋に帰るのが、何よりも恐ろしかった。
玄関のドアを開けても、「おう、千秋」とソファーから顔を上げる声は二度と聞こえない。
キッチンに立っても、「今日何? 飯食っていっていい?」と冷蔵庫を勝手に覗き込んでくる気配はない。
巧がいつ来てもいいようにと、常に買い置きしていた銘柄の缶ビールや、巧が好きだった甘めの醤油。それらが視界に入るたび、千秋の胸は激しく波立ち、息が途切れた。
(捨てることすら、できない……)
何度もゴミ袋に放り込もうとしては、手が止まった。これを捨ててしまえば、巧が自分の人生に存在していた証拠すら消えてしまう気がしたのだ。
一度だけ、深夜にスマートフォンを握り締め、巧の連絡先を開いたことがある。
『体調は大丈夫か』『酷いことをして申し訳なかった』――そう打ちかけては、すべて消去した。
(連絡なんてできるわけがない。僕の存在そのものが、今の巧にとっては恐怖でしかないんだから)
巧を愛している。今でも、死ぬほど愛している。
だが、その愛を伝えることは、巧をさらに傷つけ、追い詰める拷問でしかない。千秋にできる唯一の「愛し方」は、巧の視界から完全に姿を消し、二度と彼の人生に干渉しないことだけだった。
「……元気でいてくれれば、それでいい」
誰もいない暗い部屋で、千秋はぽつりと呟いた。
自分を失った巧が、また新しい女性と出会い、今度こそ傷つかずに幸せになってくれること。それが千秋の願う唯一の救いであり、同時に自分自身に科した最も残酷な罰だった。
心の一部をそぎ落とされたような痛みに耐えながら、千秋は一人、終わりのない静寂の中に沈んでいった。




