崩れたバランス
「お前ってほんと気が利くし、飯もうまいし、部屋も綺麗だしさ。……はあ、お前が女だったらよかったのに」
巧が酒の勢いに任せて吐き捨てたその一言が、千秋の胸の奥で、カチリと異音を立てた。
二十年だ。
巧が初めて「彼女ができた」と照れくさそうに笑った高校の夏から、大学で破局して雨の中に駆け込んできた夜も、社会人になって新しい恋人に振られるたび、この部屋でヤケ酒をあおる姿も。
千秋はずっと、その隣に座り続けてきた。
巧にとって自分は「何があっても自分を否定せず、愚痴を聞いてくれる安全な幼馴染」なのだ。
巧が女性に振られるたび、千秋の胸の奥では浅ましい歓喜と、それを上回る激しい罪悪感が渦巻いた。自分を男として一度も意識していない男の傍らで、巧が差し出してくる無防備な体温に触れ、甘い匂いを嗅ぎ、心の中で何度もその身体を抱きしめてきた。
(……僕がどれだけの思いで、お前の隣に立っていると思ってるんだ)
「お前が女なら最高なのにって――」
「僕を、都合のいい場所にするのはやめてよ」
声が震えないよう、必死で抑え込んだ。
けれど、巧の呑気な顔を見た瞬間、千秋の中で何かが決定的に音を立てて砕け散った。
(もう限界だ。……これ以上、僕の愛を惨めに踏みにじるな)
気づいた時には、巧の手首を掴んでいた。
細いけれど男らしい手首。引き寄せると、巧の体がソファーの上に呆気なく倒れ込む。驚きに大きく開かれた瞳に、初めて「男としての千秋」が映り込んだ。
「千秋……何やって――」
「お前が誰かに振られるたび、ここに逃げてきて……また別の誰かのところへ行くのを、僕がどんな気持ちで見てたか……一度でも考えたことある?」
かろうじて理性を保っていた眼鏡を外し、巧の上に覆いかぶさる。
巧の唇が、恐怖か困惑かで微かに震えていた。
何度も、何度も、巧が寝静まった後に見つめ続けた唇。巧が他の女性と重ねてきた唇。
(拒絶されてもいい。嫌われてもいい。もう『優しい幼馴染』のフリをして、お前が誰かに振られて帰ってくるのを待つのは……死ぬほど嫌なんだ)
逃げようとする巧の顎を強い力で固定し、自分の唇を叩きつけるように重ねた。
強引に口内へ滑り込ませた舌に、巧が息を呑むのが伝わる。
巧の手が自分の胸を激しく押し返そうとしていた。だが、次の瞬間――巧の全身がビクッと跳ね上がり、呼吸が荒くなった。
巧の瞳に宿ったのは、単純な拒絶ではない。自分自身の身体が魅せた、生々しい熱と動揺。
その瞬間、千秋の胸を焼いたのは、恐ろしいほどの暗い悦虐と快感だった。
(ほら見ろ……お前だって、僕の熱に煽られてるじゃないか)
押し殺してきた二十年分の執着が、狂気となって巧の口内を荒らしていく。もう戻れないと分かっていても、千秋は巧を抱きしめる腕を緩めることができなかった。




