届かない避難所
由香と別れてからの数週間、巧の生活の軸足は完全に千秋の部屋へと移っていた。
自分のアパートには着替えを取りに帰る程度で、仕事が終われば迷いなく千秋のマンションへと足を向ける。コンビニで自分の分のビールとつまみだけを適当に買い込み、まるで当然の権利のように、インターホンを鳴らして千秋にドアを開けさせる。
「千秋、腹減った。今日なんかない?」
靴を雑に脱ぎ捨て、リビングのソファーへ直行して身体を投げ出す。
千秋は嫌な顔ひとつせず、「すぐ準備するよ」とキッチンに立ち、巧が好きそうな甘辛いタレの生姜焼きや、出汁の効いた味噌汁を手際よく作ってくれた。
「やっぱ千秋の作る飯が一番口に合うわ。由香のメシ、なんか味が薄くて気取っててさ……」
巧は箸を動かしながら、平然と元彼女の悪口と千秋への称賛を並べる。
巧にとって千秋は、自分の自尊心を傷つけず、どんな我が儘も丸ごと包み込んで肯定してくれる『完璧な理解者』だった。
食後、缶ビールを二本空けた巧は、ソファーの上で完全にくつろぎきっていた。
千秋が隣に腰を下ろし、静かに文庫本を開く。その横顔を見つめながら、巧はすっかり重くなった頭をぽんと千秋の肩に預けた。
千秋の体温が、服越しに伝わってくる。清潔な石鹸の匂いと、どこか心地よい微かな紙の匂い。
「なあ、千秋……」
「ん?」
「俺さ、お前がいてくれて本当に助かってるよ」
巧は千秋の肩に頬を擦り寄せるようにして、微睡みながら呟いた。無防備で、あまりにも無邪気な甘え。
「世間の女はみんな俺を理解してくれないし、勝手に『他に好きな人がいる』なんて言って去っていくけどさ。お前だけは、俺を絶対に見捨てないもんな。俺がどんなにカッコ悪くても、振られても、こうやって部屋にあげてくれる」
巧の頭を支える千秋の肩が、わずかに強張るのを巧は気づかない。
千秋は開いていた本を膝の上に置き、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……巧は、僕がずっとここにいると思ってるの?」
「は? なに言ってんだよ。当たり前だろ、幼馴染なんだから」
巧は千秋の顔を見上げ、へらりと笑った。そして、酒の勢いと無意識の安心感から、口を滑らせる。
「ほんと、お前が女だったらよかったのにな」
「……え?」
「お前が女なら、顔も綺麗だし、性格もいいし、飯もうまいし最高だろ。そしたら俺、こんなに女運で苦労しねえで済むのにさ。お前と付き合えれば、一番楽で幸せなのに」
巧にとっては、自分を慰め、千秋を褒めるための「都合のいい冗談」のつもりだった。自分がどれほど千秋を頼りにしているかを示す、親愛の情のつもりだった。
だが、千秋の視線がピタリと止まる。
眼鏡の奥の瞳が、暗い影を落として巧を見つめていた。
「……楽、か」
千秋の声は低く、平坦だった。いつも巧を優しく包み込んでくれていた温度が、すうっと引いていく。
「巧は……僕がどんな思いで、君の帰りを待ってるか、一回でも考えたことある?」
「え……? 千秋、急にどうしたんだよ」
重い空気に気圧され、巧が身体を起こそうとした、その瞬間だった。




