無自覚な境界線
「また振られた……『他に好きな人がいる』なんて言われたんだぞ? 俺がどんだけあいつを大事にしようとしてたか、千秋なら分かってくれるだろ」
千秋の部屋のソファーに深く沈み込み、巧は缶ビールのプルタブを勢いよく引き抜いた。泡が吹き出し、手に伝うのを雑に袖で拭う。
キッチンのカウンター越しに、千秋が背中を向けて立っていた。小鍋でお湯を沸かし、巧のために温かいほうじ茶を淹れてくれている。
「巧は悪くないよ。あの子もきっと、巧の優しさがうまく受け取れなかっただけじゃないかな」
千秋の声は、いつだって低く、柔らかい。幼馴染として二十年以上付き合ってきたその声を聞くだけで、巧の胸の奥の不快な渦が少しずつ鎮まっていく。
大学時代に最初の彼女に振られた夜も、雨の中を走ってこの部屋に駆け込んできた。
二番目の彼女と喧嘩して飛び出した時も、千秋は文句ひとつ言わずに朝まで愚痴を聞いてくれた。
巧が女性と付き合い、そして破局を迎えるたび、帰ってくる場所は決まってこの部屋だったのだ。
「だろ? 俺は別に浮気だってしてないし、変な性癖もない。普通に女が好きで、普通に付き合おうとしてるだけなのに……なんで誰も俺を見てくれないんだよ」
愚痴を吐き捨てながら、巧はソファーのクッションを抱きかかえた。千秋の部屋は、いつ来ても千秋特有の、清潔な石鹸と微かな紙の匂いがする。自分の部屋よりも落ち着くこの場所に、巧は何度も救われてきた。
千秋がお茶の入ったマグカップをテーブルに置き、巧の隣に腰を下ろした。
「あまり飲みすぎないで、これ飲んで」
「サンキュ。……やっぱお前の部屋は落ち着くなあ」
巧がマグカップを両手で包み込んでホッと息をついた時、部屋のテレビから華やかな効果音が流れた。
新番組の宣伝CMだ。画面には、旬の若手俳優二人が顔を極限まで近づけ、互いの視線を絡め合わせるようなBL風の演出が映し出されている。
「うわ……なんだよこれ。最近マジでこういうの多いよな」
巧は露骨に不快感を示し、テーブルの上のリモコンを掴んでチャンネルを変えた。
「男同士で付き合うとか……正直、理解不能だわ。生理的に受け付けないっていうかさ。何が面白くてそんなの観るんだろ」
一口ビールをあおり、巧は鼻で笑う。
「男が好きとか、冗談でも考えられなくないか? 触られただけで鳥肌立ちそうだし、もし身近にそんな奴がいたら、俺、マジで引くわ。……千秋もそう思うだろ?」
自分の「正常さ」を証明し、千秋に「そうだね」と同意してもらうための言葉だった。
だが、隣からの返事はすぐに来なかった。
「……千秋?」
巧が顔を向けると、千秋は自分のマグカップを見つめたまま、静かに息を吐き出していた。
「……そうだね。得意じゃない人もいるよね」
「だろ? マジでそういうのは隠れてやってほしいわ」
巧は満足そうに頷き、再びビールに口をつけた。
背後で千秋がどんな顔をしていたか、その指先がどれほど強くマグカップを握りしめられていたか、巧は知る由もなかった。




