六章 トイレが開かない!
僕は今、非常に困っている。家のトイレのドアが開かない。
もう三十分はドアノブを回し引いたり押したり、上げたり下げたり、「開けてください」という切実なお願いも何度もしている。しかし中から鍵がかけられていて、びくともしない。
「ちょっと、お前が試してみてくれ」
僕の懇願に、イトウは神妙な面持ちで返した。
「壊していい?」
人様から借りている家だぞ、コイツ正気か? さっきから顔を青くしたり白くしたりしている僕のことを、飼っているハムスターに餌をあげる時のような微笑ましい顔で見つめている。
いや、でももしかしたら、アリなのか。もうそれしかないのか。
僕は股間にぎゅっと力を入れながら、工具箱を取り出し漁った。
「まじ? まじでやるの? やらせて!」
玄関先に置いている、防犯や災害時用のためのバールを小走りで取りに行くイトウを何とか止める。
「待って、もう待って、ふざけないで、お願い。これでドアを外して……」
そう言ってマイナスドライバーをイトウに託して、僕は思考を遥かコスモの彼方へ飛ばした。尿意のない世界。僕は今からそこへ行く。
イトウは僕に下手からお願いをされたのが相当嬉しかったのか、マイナスドライバーを奪うように受け取った。
「小学生時代から何軒もナカノの家を建てたアタシに、できないことはなーい!」
あっという間に上下の蝶番を外して、その隙間から腕を差し込み、内側の鍵を開けてくれた。僕は感動で涙が止まらなかった。そしてドアが外され、中が丸見えになったトイレで、用を足した。恥も外聞もコスモへ置いてきました。お母さん、ごめんなさい。
しかしこの世のトラブルとはどうして重なるものなのか。今度は水が流れない。出るのだが、排水されず貯まっていく。このままではこの狭い部屋中が汚水で満たされてしまう。僕はもう一度コスモへ行きたくなった。
「ドアは直せるけど、流れないトイレなんてアタシ使えないし、帰ろっかな」
イトウが、これまでもこの先も二度と言わないようなことを言った。
「帰るのか。お前が! 流れないトイレは最悪で最高だな!」
迫り来るこの部屋の終末に僕は頭がおかしくなっていた。イトウは思いっきり膨れっ面をして「明日までに直しといてよ!」と言って帰っていった。
イトウが帰った後、僕は悪寒がした。
メガネを外して、トイレを見る。タンクの横、奥の方に、黒い小さな影が見えた。僕の膝くらいの大きさの、いや、違う。縮こまって、恐怖で震えているもの。
そうか、そう言うことなら、ドアを直しても、多分もう一度外すことになるな……。とりあえずはトイレを使えるようにしてもらわないといけないので、水道屋さんを呼ぶことにした。
以前も、トイレでおそらく大人数で遊んでいた(幽霊の)子どもたちのせいで水漏れを起こしたことがある。その時はあまり知識がなくて、ポストに入っているマグネットの番号に電話して大手会社に修理を依頼した。すると作業員が来て、トイレを一瞥しただけで、引きこもりの高校生にはとても払えないような見積もりを出した。絶句。当然財布もうんともすんとも言えない状態なので、頼むことはできない。
圧が強くガタイのいい水道屋が、じっと僕の反応を見ている。あっちはあっちで、僕の体に刻まれているタトゥーにびびっていた。
「上に言えばもう少しマケることもできるかもしれないっす」と言って電話をかけに外へ出た。
いったいどのくらいマケてもらえるんだろう。十分の一でも払えないぞ……。
静かにオロオロしていると、廊下に出て大声で電話をしている水道屋さんの声が聞こえたのか、大家さんが来てくれた。
「やだ、トイレ壊れちゃったの? 修理はいつも頼んでるところがあるから、大丈夫よ」
そう言って大手会社を帰した。そしてその後に来てくれたのが、今回もお願いする個人経営のミズノさんだった。
「すみません、お久しぶりです。またお願いします」
ミズノさんは笑顔で頷いた。笑うと頬にエクボが出る。
年齢は七十代、定年を過ぎても働いているのは「孫にお小遣いをあげたくて」らしい。子どもが大好きで、野球チームを作れるくらいの大家族になりたかったらしいが、生まれたのは一人娘さん。その娘さんのお子さんが、今ミズノさんが溺愛しているお孫さんだ。希望通り、野球をやっていると教えてくれた。
「写真見るかい?」
そう言って作業着の胸ポケットから出した一枚の写真には、真っ黒に日焼けしたお孫さんと並んで写るミズノさんのエクボがあった。二人で同じ、小さなソフトボールを握って誇らしげにしている。
「俺さ、ボール持ち歩いてんのよ。仕事で行った家に子どもがいて、興味を持ってそうだなって思ったらあげてんの」
ミズノさんが持ってきた荷物は道具入れのほかに、小さな袋。そこに小さなソフトボールがいくつか入っていた。
「一号のやっすい、子ども用だけどさ。これを手に取って、投げて、受け止めて、楽しいって思ってくれたら野球をやる子が増えるでしょ。そうしたらいつかその子が、孫と野球をするかもしれない。そんな想像をするのが今の俺の生きがいかな」
今日のミズノさんは、なんだか饒舌だった。二回目で僕の見た目に慣れてくれたのかもしれない(初対面はどう思われてたんだろう……)。
「にいちゃん、一個やるよ」
ミズノさんは袋からボールを出して放った。「どうして」と聞く前に僕の手にポスっと収まる。
「猫かなんか、いろいろオオヤさんに言えないの飼ってんだろ? なんか空気というか、普通の家と違うんだよな。ここ」そう言ってトイレの奥へ目をやる。
「あそこ、ちょっと寒いよね。老い先短いジジイの勘違いならいいけどさ。遊んであげる子がいないなら、まあ一人でも壁打ちすれば、いい運動になるよ」
ミズノさんはドアも直して帰って行った。そのドアの動作を確認しつつ目をやると、同じ場所にまだ黒い影がある。左手にはもらったソフトボール。とてもありがたいけど、多分僕でも、ミズノさんでもダメだ。
次の日、僕はスマホを鳴らした。
「もー、やっぱアタシがいないと寂しいんでしょ」
そう言いながらイトウがズカズカ部屋に入ってくる、いつもの光景。今日だけは助かる。
「ドア、また開かなくなっちゃったから、直してよ」
「えー、またぁ? まードライバーをぐるぐるしてピンしてガチャだから、楽勝だけどねー」
昨日よりも易々とドアを外し、中を覗いた。
「で、あとは?」
ドアを開けることが目的じゃないことを、イトウは当然のようにわかっていた。
「狭いけどさ、このボールで、そこで壁打ちしてよ」
イトウはつけまつ毛バチバチの目をまん丸くした。
「はあ!? 意外と難易度高いわ!」
どんな変なことでも、できないとか否定とかしないのもイトウのいいところだ。
「タンクにぶつけないでね。故意だと僕が修理代払わなきゃ」
「この狭いトイレで無茶言うよ」
文句は言いながら、イトウはトイレのドアがあったところにあぐらをかき、優しくソフトボールを転がした。壁に当たったボールが返ってくる。今度は放ると、少しカーブのかかった球が戻ってきた。
「お、やるじゃん」
キャッチボールを何度か続けているうちに、返ってくるボールの飛距離が短くなっていった。
もう、消える。
「アタシ、なんか言う?」
珍しくイトウが気を遣っている。
「うん、そうだな……。『怖かったよね。ごめんね。大きい大人が、いきなり来て、君の大事なものを壊していって。痛かったね。守れなくて、悔しかったね。君は怒っていいんだよ。怒っても、もう、怖いことは絶対に起こらないから、大丈夫だよ』」
「長いよ! 覚えられん!」
アホなイトウは頭をガシガシした。本当に無理そうだ。
僕の言葉を伝える代わりに、イトウはボールを投げ続けた。ごめんね、ごめんね、なんか大人が、まじごめん。そう言いながら。
こんな世界でごめん。怖いまま、逝かせてしまって、ごめん。僕が、君が死んでからじゃないと会えない人間でごめん。
もうボールは返ってこない。
※以下センシティブな表現があります。閲覧注意※
FILE:05 瑞穂地裁:瑞穂市闇バイト強盗殺人事件 公判
検察官:「被告人は、被害者である祖母が包丁を持って立ちはだかった際どんな心境でしたか」
被告人:「……『邪魔だな』と思いました。指示役からは『住人は制圧しろ、抵抗するなら叩け(暴行しろ)』と言われていたので。包丁を振り回してきたので、背後からバールで殴りました。タスクをこなさないと、自分の免許証がネットに晒される、そっちの方が怖かった」
検察官:「その後、トイレに逃げ込んだお孫さんを追いかけ、ドアを蹴り破りましたね。中にいたのは、まだ幼い子供でした。躊躇はなかったのですか」
被告人:「指示役に『顔を見られた』と報告したら『処分しろ』と返信が来ました。ドアを蹴り破って、隅っこで震えているガキが見えたとき『あ、これで見られたな。やらなきゃな』としか思いませんでした。こっちに向かって野球のバットを構えてたし、もう相手の年齢なんて関係なかった」
検察官:「武器を持っていたとしても、被害者の男児を、一撃で殺害しました。その瞬間の感触や、音を覚えていますか」
被告人:「……手に重い振動が伝わってきました。でも、そのときはもう、早くここから出たい、指示役に報告して逃げたい、それだけでした」
検察官:「たった数万円のために二人の命を奪った。今、被害者遺族に対してどう思いますか」
被告人:「……運が悪かったな、と思います。自分も、被害者も。あの日、あの広告をクリックしなければ、自分もこんな場所にいなかったはずなので。謝れと言われれば謝りますが、正直、実感がわかないんです。テレビの中の出来事みたいで」
(法廷内の傍聴席からは、嗚咽と「人殺し!」という怒号が飛び交い、一時騒然となりましたが、被告人はピクリとも肩を動かさず、ただ自分の靴先を見つめ続けていました)




