二章 緑色の目の少年
霊が視えるようになったのは、まだ母が生きていた頃。二歳くらいだっただろうか。
僕はある感染症にかかってしまい、高熱で意識が焼けるような日が続いた。あの時、本当に脳のどこかが壊れたのかもしれない。『普通の人間』として大事な部分を失ったか、もしくはいらない部分をゲットしたか。死の淵を彷徨ったかどうかはよくわからないが、それから幽霊が視えるようになった。その時に見た景色を、まだ覚えている。
僕は実家の和室に寝かされていた。和室というものは、洋室よりも隙間が多い。襖、障子、押し入れの引き戸。伏せっていた当時も、やっぱり襖が少し開いていた。そこに光が灯っていなければ完全な闇になるその細い隙間が、本当に嫌いだった。
僕はそちらの方を見ないようにしていたが、木の板張りの古い天井もあちこちの節が怖い顔に見えてきて、うっかり寝返りを打ってしまった。
やっぱり。襖からこちらを見ている目玉があった。明らかに生きている人間のものではない。
「だから! もう! やっぱりいいいぃぃぃ!」
人より気が弱く、また幼かった僕が恐怖の限界を超え泣き叫ぶと、襖の隙間がパッと明るくなった。
母が駆けつけてきてくれたのだ。そして、興奮して咳き込む僕を両腕で抱きしめてくれた。
窓の外では、アブラゼミが「アーヂイアヂイアヂイアヂイイ」と言って鳴いている。
今年の酷暑、扇風機だけで乗り越えようとする僕を褒め称える合唱だ。
今住んでいる賃貸の、よく言えば昭和の趣きを感じる1DKのアパート。ここも当然のように和室だ。畳は好きだが、台所と部屋を隔てるすりガラスの引き戸には困っている。その引き戸を挟んで僕のいない空間には必ず人影があるし、入居した時から建て付けが悪くて、気合いを入れても隙間なく閉めることが難しい。何もかも条件の合わないここにそれでも住んでいるのは、僕の懐に事情があるので仕方がない。
居室の壁の本棚には、僕の漫画とフィギュアのコレクションが並ぶ。手前にパイプベッド。窓際に小さい簡易デスクがあり、ベッドに腰をかけてゲームをするのが定位置だ。ベッドから降りれば人が一人寝転ぶだけのスペースしかなく、お察しの通りいつもイトウがそこに転がっていた。
「ねー、これなーにー?」
漫画を読んでいたイトウが、一枚の紙をぴらぴらしている。
「ああ、僕の戒名。死ぬ時に使うヤツ」
「ええ? 縁起でもなっ」
でもカッコいいかもーと言いながらまた漫画に挟んで読み始めた。何も視えず毎日僕の家にいて寛いでいるイトウが羨ましい。
「コージ、テレビ見た? ここらへんの線路で、飛び込みがあったの。それだけならニュースにならないけど、これ、その被害者が直前に配信してたヤツで、ちょっと話題になってて」
いつの間にかスマホをいじっていたイトウが、画面を押し付けてくる。
「え……普通に見たくないんだけど」
「これ自体は大した配信じゃないよ。音量大きくしても何言ってるかわかんないし。でもこの後に、自分から飛び込んで、と思うとね……夏休みももう終わるからなー。気持ちはわからんでもないよ」
僕は眉をひそめる
「これこれ。多分すぐ消されるから、見とき」
それは近所にある、県境を流れる川の風景のようだった。見覚えがあるようなないような、川べりはだいたい同じ絵面なのでわからない。その川を映しながら、男が何かボソボソ話している。何を言ってるかわからないが、盛り上がらなさそうな配信だ。
窓から差し込んでくる光が徐々に低く、オレンジ色に塗り替えられていく。セミの鳴き声が
「シヌシヌシヌシヌ……」
に変わった。
「イトウ、もしかして、連れてきてないよな?」嫌な予感がして聞いた。
「え、知らんて。近所だったし、本当に動画と同じ景色かどうか見に行っただけだって」
予感が当たった。
「いつ行ったの」「さっき」
「マジかもう……じゃあ真っ直ぐ家に帰れよ。当たり前のようにうちに寄るなよ」
「アイス買ってきてあげたじゃん」
食べなければよかった。
その晩、案の定、出た。引き戸はこれ以上動かないというくらいピッタリ閉めたはずなのに、隙間ができている。本当に理不尽だ。
イトウはあの後「体、バラバラだったみたいよ」という最悪の情報を置いて帰った。
この世には憑かれる人間と憑かれない人間がいる。そして憑かれてうちに置いていくイトウがいる。そんなことを考えながら夜を迎えた。今日はアイマスクが必要か……。夏は蒸れるから勘弁して欲しい。そして予想通り、視線を感じた。人でなくなった、人であったもの。背中を伝う汗が少しずつ重くなってきて、これは何もせずに済むタイプじゃないと判断した。
僕は上半身を起こし、アイマスクを外す。
裸眼で見ると、引き戸の隙間に、緑色の目が詰まっていた。葡萄みたいに。それらが全部、僕を見ていた
「だから、もう……。何人なんだよ……」
僕は霊感があるが、怖いものが大丈夫なわけじゃない。逆だ。目の前のグロテスクな光景に卒倒しそうになりながら、メガネをかけて、近づく。
その時、さささと脇の下を駆けていく子がいた。
セミの子。僕は勝手にそう呼んでいた。会話はできないから心の中で。
セミの子はおそらくここら辺の子ではない。もっと田舎の、田んぼとか山とかあって、駅は無人の、そんなところから来た子だ。
夏の塊のような……違うな、こういう場合は『夏の化身』、とでも言うのか。青すぎる空に入道雲があって、太陽が眩しいけれどじんわりと滲んで流れる汗が、なぜか心地よくて、そんな夏を集めたような子だった。
誰もが胸の中に抱いている、子どもの頃の夏休みの記憶。それがセミの子だった。
いつも持っている虫取り網を背負い直し、一番下の目玉を指でツンツンつついた。目は一斉に瞬きをして、セミの子を見た。
ラジオ体操。ひまわりの観察。自由研究。祭囃子。かき氷。花火。
その緑色の目は、セミの子が見せる夏休みをじっと見つめていた。そして涙をこぼした。
「別に、夏だけが見たいわけじゃないです……」
そう不満を漏らしつつ、どこか嬉しそうに、虹彩だけで微笑んで、目玉は一つに戻った。
色はもう緑ではなく、透明な光を放つガラス玉のような、綺麗な瞳になっていた。
セミの子が「意外ー」という顔をして、また虫取り網を背負い直し、そっと消えた。いつも罠を仕掛けている公園のクヌギの木のところへ行って、これから夜明け前に寄ってくるカブトムシでも捕るんだろう。
※以下センシティブな表現があります。閲覧注意※
FILE:02 2020年8月28日 Hyahooネットニュース
【速報】線路立ち入りの高2男子死亡、身元特定は「右目の緑内障」
27日、蒼海県雲雀市のJR線路内で特急にはねられ死亡した人物が、市内の県立高校2年生の男子生徒(17)と判明した。遺体の損傷が激しく身元特定は困難を極めたが、遺体に残された「持病の痕跡」が決め手となった。
■配信後にスマホを破棄か
25日午後11時40分ごろ、蒼海県雲雀市のJR蒼海本線で、下りの最終特急列車に男性がはねられる事故が発生した。
捜査関係者によると、亡くなった男子生徒は事故直前までSNSでライブ配信を行っており、自らの死を仄めかす言動を繰り返していたという。しかし、現場にスマートフォンや身分証などは残されておらず、警察が付近を捜索したところ、線路沿いの川底から生徒のものとみられるスマホが発見された。
警察は、生徒が身元の特定を遅らせるために、線路内に立ち入る直前に自ら投げ捨てた可能性があるとみて調べている。




