3-3 在庫表には米がある。市場には米がない
「こちらをご覧ください」
商会長が呼び出したのは、倉庫管理を担当する職員だった。
職員は分厚い台帳を机に置いた。
「現在、当商会が管理する米の在庫は、玄米換算でおよそ一万二千袋です」
「一万二千袋!」
コメリアが声を上げた。
「この地域の市場なら、かなりの量を供給できますよね?」
「理論上は、そうです」
職員は台帳をめくった。
「ただし、そのうち三千袋は他地域への出荷契約済み。二千袋は長期保管契約に基づく預かり米。千五百袋は加工用として契約済みです。さらに、品質検査待ちのものがあり、残りにも出荷予定や資金上の制約がございます」
「つまり、一万二千袋あるけれど、今すぐ自由に売れるのは一万二千袋ではない?」
「そのとおりです」
タケルは台帳をのぞき込んだ。
そこには、米の種類、数量、保管場所、契約先、出荷予定日などが細かく記載されていた。
だが、一つだけ見当たらない項目があった。
「この在庫表には、現在、市場でどれくらい米が必要とされているかが載っていませんね」
「それは市場担当の部署の管轄です」
「では、どれくらい米が市場に出ているかは?」
「出荷担当の部署です」
「今後、何袋の米が出荷されるかは?」
「契約管理の部署です」
「品質検査待ちの米が、いつ出荷可能になるかは?」
「検査所にお問い合わせください」
タケルは静かに台帳を閉じた。
「なるほど。米は一つなのに、情報は部署ごとに分かれている」
「適切な専門分業です」
職員は胸を張った。
「……それで、全体を把握している人は?」
沈黙。
コメリアが小さく手を挙げた。
「先生。これ、誰も全体を見ていないのでは?」
「先生と呼ばれるほど偉くないが、今のところ、その可能性が高い」
タケルは前世の記憶を思い出していた。
営業部は、注文を受けた。
製造部は、製品を作った。
倉庫は、製品を保管した。
物流部は、配送計画を立てた。
経理部は、数字を締めた。
それぞれの部署は、自分の仕事をしていた。
しかし、顧客の注文がいつ届くのか、誰も責任を持って答えられない。
会議で追及すると、全員が正しいことを言う。
その結果、顧客だけが困る。
「グラノー商会長。あなたの商会は、各部署の仕事を管理していますね?」
「もちろんです」
「では、今、市場に米が足りないという事実を、いつ把握しましたか?」
「市場からの問い合わせが増えた段階です」
「その時点で、倉庫から市場への出荷を増やすことはできた?」
「契約上の制約があります。また、価格の先行きも不透明でした」
「わかりました。では、行政は?」
「農政局からは、生産予定量が適正範囲内だという通知を受けておりました」
「つまり、行政は生産予定を見て、商会は自分の在庫と契約を見て、市場は店頭の不足を見ていた」
タケルは、指を折って数えた。
「それぞれの数字はある。でも、同じ時間、同じ基準でつながっていない」
「それは……」
「誰かが嘘をついているとは限らない。けれど、全員が自分の持ち場の数字だけを見ていたら、全体として間違うことはある」
商会長は、腕を組んだ。
「稲穂殿。あなたは私どもに、在庫をすべて市場に放出しろとおっしゃるのですか?」
「いいえ」
タケルは即答した。
「今ある米を全部出せば、来月の供給が途切れるかもしれない。契約を破れば信用を失う。保管費や借入金を無視すれば、商会が倒れる可能性もある」
「では、何をお求めなのです?」
「まず、何が、どこに、どれだけあり、いつ動かせるのかを見えるようにしたい」
「それだけで価格が下がると?」
「いいえ。見えるようにするだけでは、米は一粒も増えません。ただ、見えないままでは、適切な判断もできない」
タケルは台帳を指さした。
「この地域に米がないのか。それとも、米はあるが、契約や物流や資金の事情で動かせないのか。それを分けて考えるところからです」
グラノー商会長は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「面白い。ですが、情報を開示するには、我が商会にも利益が必要です。競合他社に取引先や仕入れ条件を知られるわけにはいきません」
「当然です。取引先の秘密まで公開しろとは言いません。必要なのは、個々の商取引の暴露ではなく、地域全体の供給状況です」
「それなら、検討の余地はありますな」
話が一歩進んだ。
だが、タケルはまだ知らなかった。
この国には、情報を集めることよりも、情報を集めるための書類を作ることを得意とする役所が存在することを。




