第7章:決して語られぬ一行(クライマックス)
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
蓄音機の針が骨のレコードの最後の一インチに迫るにつれ、激しく震え出した。その音はもはや人の声ではなく、空間を切り裂く宇宙の咆哮と化していた。駅の外では「拝聴者」たちが、中に入ろうとするのではなく、凄惨な集団痙攣に身を悶えさせながら、狂ったようにガラスを掻きむしっている。
江戸は、その「最後の一行」がすでに自分の舌先まで出かかっているのを感じていた。言葉が熱い溶岩のように脳から溢れ出そうとしている。
『……そして、その眼が開くとき、お前は牛が「何」であるかを知るだろう。それは――』
「江戸さん! 今すぐ壊して!」エミが叫んだ。エミの顔はもはや形を成していない。江戸の目に映る彼女は、恐怖に満ちて脈打つ赤い光の塊に過ぎなかった。
江戸は骨のレコードを見つめた。今これを壊せば、「牛頭」との繋がりを断ち切れる。だが、代償は分かっていた。彼の視神経はあまりにも深く侵食されている。この「鍵」を壊すということは、歪んだ世界の中に永遠に自分を閉じ込めることを意味する。二度と青い空を見ることはなく、二度と正常な人間の顔を見ることも叶わない。
しかし、もし放っておけば……「牛頭」は彼の意識を媒介にして、この世界に完全に降臨してしまうだろう。
江戸は見上げた。肉色の空の裂け目から、巨大な牛の頭を持つ影が這い降りてくるのを。粘ついた鼻先と光る虫にまみれたその姿が、駅の屋根に触れようとしていた。
「すまない、エミ」江戸が囁く。自分の声が、耳の中で金属の衝突音のように響いた。
残された気力と正気を振り絞り、江戸は手を使わなかった。神経が浮き出て青く腫れ上がった両手で、蓄音機を高く掲げた。
蓄音機の針が最後の一行に触れるまで、あと爪の先ほどの距離。
――グシャァァァッ!
江戸は全力を込めて、蓄音機と骨のレコードを駅のセメントの床に叩きつけた。
骨のレコードは何千もの鋭い破片となって砕け散った。機械の奥底から、耳を劈くような悲鳴が爆発した。それは決して生を授かってはならなかった「何か」の、断末魔の叫びだった。
刹那、駅の外の「拝聴者」たちが次々と倒れ、強風に煽られる黒い灰の山へと姿を変えた。空の巨大な影は絶叫し、肉を引き裂くような音と共に閉じていく次元の裂け目へと吸い込まれていった。
夕張に、死のような静寂が訪れた。
江戸は骨の破片の上に力なく崩れ落ちた。荒い呼吸を整えようとする。死臭は消え、代わりに鋭いオゾンの臭いが立ち込めていた。しかし、彼が顔を上げエミを見たとき、絶望が彼を襲った。
エミが目の前に立ち、彼の肩に触れようとしていた。エミは泣いていたが、江戸に涙は見えなかった。血のように赤い電線の束のような姿をした彼女から、どろりとした黒い液体が流れ落ちるのが見えるだけだった。
江戸は自分の手を見た。まだ透き通っている。まだ狂った色彩で脈打っている。駅の窓の外を見た。雪は黒いまま。空はおぞましい赤褐色のままだった。
世界は救われた。だが、江戸は救われなかった。
彼は人間界へと戻るための架橋を、自ら破壊したのだ。江戸にとって夕張は――そして世界すべては――永遠に脈打つ肉の地獄となった。無機物が心音を持ち、人間がただの喋る神経の塊でしかない場所へと。
レンが近づき、項垂れる江戸の傍らに立った。レンは節くれ立った手を、江戸の肩に置いた。
「お前は彼らを救ったんだ、江戸」静寂の中で、レンの声だけが澄んで聞こえた。「だが今や、お前が唯一の門番だ。こちらの側へようこそ」
遠く、黒い吹雪の向こう側。線路の真ん中にあの牛の頭の影が佇み、新たな「主」へ敬意を表するように、静かに頭を垂れているのを江戸は見届けた。




