エピローグ:肉の裏側からの周波数
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
1991年、冬。場所不明。
「こんばんは、リスナーの皆さん。『アーバン・ミス・アンカバード』の新エピソード。ナビゲーターの江戸です」
江戸はマイクの前に座っていた。スタジオ内は暗く、ただレコーダーのインジケーターランプが血のような赤色に灯っている。江戸の目には、その光は自分の一挙手一投足を監視し、脈打つ小さな「眼」のように映っていた。
彼はもう夕張にはいない。人混みの中にいることに耐えられず、郊外を転々としながら身を隠していた。彼にとって、歩道を歩く人間を見ることは、透明な皮膚に包まれた内臓の塊が、筋肉の軋む音を立てながら擦れ合う様を見るのと同義だったからだ。
「一年もの間、なぜ姿を消していたのか……多くのリスナーから手紙で質問をいただきました」江戸が続ける。その声は以前よりも重く、静かだ。まるで、この狂気に完全に馴染んでしまったかのように。「私はただ、深い調査を行っていただけです。科学では説明できない『何か』について。いわゆる『牛頭』と呼ばれる存在についてです」
机の傍らでは、エミが静かに座っていた。普通の人間が見れば、彼女は忠実なアシスタントに見えるだろう。しかし江戸の目には、彼女は熱を放つ赤いシルエットであり、部屋の隅々まで繋がった神経網の結節点だった。エミはもう二度と本を読むことはない。ただそこに座り、壁の鼓動に耳を澄ませている。
「私は一つ、証明しました」江戸は薄く微笑んだ。蒼白な皮膚の下に浮かぶその笑みは、ひどく悍ましい。「伝説は嘘です。牛の頭をした怪物など存在しない。即座に人を殺す呪いなどもありはしない」
江戸は水の入ったグラスを手に取った。手のひらの中でグラスが「ドクン、ドクン」と脈打っても、もう驚きはしない。それはすでに彼の人生のバックグラウンドミュージックとなっていた。
「牛頭とは、単なる……認識の変容に過ぎません。私たちが死んでいると思い込んでいたこの世界が、どれほど『生々しく』存在しているかを見るための、新しい視点なのです」
江戸は固く閉ざされたスタジオの窓に目を向けた。閉ざされていても、コンクリートの壁を透かして「見る」ことができた。常に肉の色に染まった空と、永遠に降り注ぐ黒い雪。そして道の突き当たりには、あの巨大な角を持つ影が、語られなかった最後の一行の象徴として、忠実に彼を待ち続けている。
「ですから、未だに牛頭の真実を追い求めている皆さんへ……私からのアドバイスは一つだけです」
江戸はマイクに唇を寄せ、日本中のリスナーの首筋に冷たい戦慄を走らせるような、結びの言葉を囁いた。
「探すのは、もうおやめなさい。あなたが物語を理解し始めたとき、牛頭もまた、あなたの目を通して世界を見始めるのだから。……そして、信じてください。新しく塗り替えられた空の色を、あなたは決して好きにはなれないはずですから」
江戸はストップボタンを押した。赤い光が消える。
完全な暗闇の中でさえ、江戸にはすべてが鮮明に見えていた。今や暗闇にさえ質感があり、鼓動があり、そして「顔」があるのだから。
それは、微かに微笑んでいる一頭の牛の顔だった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これで『牛頭の近影:夕張に沈む言葉の呪い』は完結となります。
あなたが見ている今の空は、まだ「青い」ままでしょうか?
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