第4章:夜を黙らせる目撃者
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
江戸の世界は、恐ろしい空白の空間へと成り果てていた。音もなく、皮膚に触れる感覚もない。彼はただ、腐臭に満ちた感覚遮断タンクの中を漂う意識の断片のようだった。
鉄扉への衝撃音はもう聞こえない。だが、厚い金属が歪み、引き裂かれていく様は見て取れた。まるで論理を超越した力を持つ何かに掻きむしられているかのようだ。扉の向こうの巨大な影が伸び、保管庫の床を覆い尽くしていく。それは脈打つ樹木の枝のようにうねる「角」の形をしていた。
エミが膝から崩れ落ちた。その目は未だに回転を続けるレコーダーに釘付けにされ、唇は教師の録音から流れる音なき呪文を唱え続けている。
扉が蝶番から外れようとしたその瞬間、廊下の暗闇から白く細い手が伸びた。
レンだった。
彼は薄手の入院着姿でそこに立っていた。溶けかかった夕張の雪に全身を濡らしている。いつもは虚ろなその顔は、今や痛々しいほどの集中力に満ちていた。レンは一言も発さず、崩壊寸前の扉を通り抜けた。自分を今にも食い殺そうとする巨大な影など、眼中にないかのようだった。
レンは江戸にもエミにも目もくれず、真っ直ぐにテープレコーダーへと向かった。
素早く、それでいて細心の注意を払った動作で、レンはズボンのポケットから一本の黒い木炭を取り出した。それは彼が独房の壁に絵を描くために使っていたものだ。彼は機械を止めなかった。代わりに、回転する磁気テープの表面に、複雑な紋様を書き殴り始めた。
シュル、シュル、シュル……。
江戸にその音は聞こえない。だが、空気の震えは感じ取れた。テープのスタティックノイズが、突如としてその周波数を変えた。壁の巨大な影が縮み始め、苦悶に身を悶えさせる。まるでレンが描いた紋様が、その存在にとっての毒薬であるかのように。
やがて、レンは江戸の方を振り向いた。一瞬、二人の視線が交差する。レンの瞳の中に、江戸は狂気ではなく、底なしの深淵を覗き込むような広大な「幻視」を見た。
レンは唇に人差し指を立てた。――静かに。
そして、レンは予期せぬ行動に出た。機械に繋がったヘッドフォンのコードを手に取り、それを自らの手に巻きつけたのだ。彼は世界中の重荷を肩に背負っているかのように、固く目を閉じた。
ゆっくりと、江戸の触覚が戻り始めた。コンクリートの床の冷たさを感じる。指先に再び鼓動が宿る。そして何より驚いたことに、エミの荒い息遣いが再び聞こえてきたのだ。
「レン……何をしたの?」エミが掠れた声で、恐怖に満ちた囁きを漏らす。
レンは答えなかった。ただ、先ほどまで影がいた保管庫の暗い隅を指差した。そこには、コンクリートの床の上に悍ましい痕跡が残されていた。焼けた「牛の足跡」だ。セメントがひび割れるほどに焼き焦げている。
「彼は去っていない」レンが、まるでおそい風の吐息のような細い声で言った。「ただ待っているだけだ……お前たちの耳の中で」
レンは錆びついた一本の鍵を江戸に手渡した。キーホルダーには、とうの昔に閉鎖された夕張駅の古いロッカー番号が記されていた。
「この物語は、始まった場所で終わらせなければならない」レンは続けた。「だが、決して『最後の一行』を想像しようとするな。もし想像してしまえば、お前自身が『彼』の出口になってしまう」




