第3章:死せる草原の残響
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
夕張の郊外にある地下アーカイブの保管庫は、まるでコンクリートの墓場のようだった。頭上の蛍光灯がチカチカと点滅し、その震えるようなブーンという羽音は、今の江戸の耳には不気味な鼓動のように響いていた。
エミは古いオープンリール式のテープレコーダーの前に座っていた。震える手には、埃を被った磁気テープの巻かれたリールが握られている。ラベルは色褪せ、わずかに「1971年」という荒々しい手書きの文字だけが残されていた。
「これは、十年前の土砂崩れで埋まったバスの残骸の中から見つかったものよ」エミが囁く。その声は、過敏になった江戸の耳にはサンドペーパーで擦られるような不快な音に聞こえた。「あの先生は……毎日クラスの様子を録音していたの。そしてこれが、バスが崖下に転落する前の最後の記録よ」
江戸はこめかみを指で押さえた。部屋に充満する牛の死臭は、今や舌の上で腐肉の質感を感じるほどに濃くなっている。「エミ、やめろ。もしこの物語がウイルスだというなら、その録音は感染源そのものだ」
「レン君をあんな風にしたのが何なのか、知る必要があるのよ、江戸さん! 決着をつけなければ、私たちは内側から腐り続けてしまう!」
エミが再生ボタン(Play)を押し込んだ。
――カチッ。
最初はただ、ザラザラとしたスタティックノイズが響くだけだった。やがて、バスの中の騒がしい子供たちの笑い声が聞こえてくる。夕張の険しい坂を登るエンジンの唸り声。そして、重く一本調子な男の声が話し始めた。
『みんな……今日はね、教科書には載っていないお話を読んであげよう。境界線を歩く「彼」についてのお話だ……』
刹那、保管庫の中の温度が急激に下がった。江戸は顔に奇妙な感覚を覚えた。まるで皮膚が感触を失っていくような感覚だ。頬に触れてみたが、何も感じない。腕を抓ってみても――無感覚だった。触覚が消失したのだ。
テープの中で、教師の声が変質していった。リズムが遅くなり、一音一音が不自然な強調を伴って発せられる。それはもはや日本語ではなかった。死にゆく獣の唸り声のような、異様な音素の連なりだった。
『……その頭は肉にあらず、脈打つ門なり。その角は、魂の上に天が崩れ落ちぬよう支える柱なり……』
「エミ、消せ!」江戸が叫んだ。しかし、彼女の方を向いた瞬間、彼は息を呑んだ。
エミはもはや、ただ聴いているのではなかった。彼女は取り憑かれたかのような形相をしていた。目は剥かれ、白目が完全に露出しており、目尻からは血の涙が滲み出していた。口を大きく開き、録音から流れる音節に合わせて、音もなくパクパクと動かしている。
録音の背景では、先ほどまで笑っていた子供たちの声が、狂ったような悲鳴へと変わっていた。それは恐怖による叫びではない。教師が描写する「何か」を脳が想像しようとして、許容量を超え、内側から「爆発」しているかのような叫びだった。
――ドォォォン!
固く閉ざされていた保管庫の扉が、外から激しく叩かれた。巨大で重い何かが、中に入ろうとしている。鉄の扉が内側にひしゃげ、巨大な獣の鼻先のような形に歪んでいく。
江戸は叫ぼうとしたが、さらなる事実に気づき戦慄した。自分の声が聞こえないのだ。世界は死の静寂に包まれた。ただ一つ……耳からではなく、脳内に直接響き渡るあの教師の声を除いて。
『……さあ、扉の方を見なさい。彼は残りの物語を回収しに来たのだから』




