第2章:物質の裏側の脈動
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
その夜、夕張は凍てついていた。例年より早い雪が、死にゆく炭鉱の街を沈黙という名の白い経帷子で包み込んでいた。しかし、狭いアパートの自室にいる江戸は、寒さを感じてはいなかった。ただ……何かに「晒されている」ような感覚に陥っていた。
江戸は机に向かい、都市伝説のデマを暴くポッドキャストの新エピソード用の原稿を書こうとしていた。だが、モニターやノートに目を向けるたび、頭が激しく脈打った。文字がもはや意味をなさない。それらはただ、死にかけたミミズのようにのたうち回る黒い線の塊に過ぎなかった。
失読症。医学的にはそう呼ばれる、読む能力の喪失だ。
「ただの神経性の疲労だ」江戸は自分に言い聞かせるように呟いた。「エミの話や、あの病院の空気に当てられただけだ」
彼は机の脇に置いてあった冷めたコーヒーに手を伸ばした。陶器の表面に指先が触れた瞬間、江戸はびくりと身を震わせた。
ドクン。ドクン。ドクン。
力強い鼓動が、コップの表面から指先の神経へと伝わってきたのだ。江戸が思わず手を離すと、コップは床に落ちて砕け散った。黒い液体がこぼれ、古いカーペットに染み込んでいく。
彼は荒い息を吐きながら、割れた破片を見つめた。心音を聞いたのではない――「感じた」のだ。重く、ゆっくりとした、原始的な拍動。アパートの床下で、巨大な獣が眠っているかのような。
江戸は立ち上がろうとして、バランスを保つために木製の机の端を掴んだ。
ドクドク。ドドッ、ドドッ。
木の机が脈打っている。命などあるはずのない死んだ木材が、今や皮膚の下に筋肉と血管を隠し持っているかのように感じられた。江戸は戦慄して手を引っ込め、今度はコンクリートの壁に触れてみた。
――ドクン。
その音は、今や彼の頭蓋骨の中で反響していた。壁が呼吸している。アパート全体が、周囲のあらゆる無機物が、突如として最も忌まわしい形で「生を授かって」いた。
部屋の隅で電話が鳴った。その音は、暗い谷の底から響く遠い牛の唸り声のように聞こえた。江戸は震える手で受話器を取った。
「江戸さん?」受話器の向こうから、切迫したエミの声が聞こえた。「窓の外を見ないで。さっきあの写本の断片を調べ直したんだけど……意図的に消された部分があるわ。でも、ある角度からそのパターンを見ると、指示が浮かび上がってくるの」
「エミ……文字が読めないんだ」江戸は枯れた声で囁いた。「それにこの机……机に鼓動がある。一体何が起きているんだ?」
「同期しているのよ、江戸さん! あなたの脳が『牛頭の書』と周波数を合わせ始めたの。あの物語はただの言葉じゃない。人間の知覚を捨てさせ、この世界の『器官』を見させるための、脳への命令なのよ」
エミは一瞬沈黙し、それから震えるような、おぞましい囁き声を発した。
「さっきレンが病院からファックスで絵を送ってきたわ。私たちを描いているの、江戸さん。でも、顔は描かれていない。二人の人間の、頭があった場所が……巨大で角の生えた、夕張の空へと繋がる無数の神経が剥き出しになった『何か』に置き換わっている絵を」
その直後、鼻を突く牛の死臭が再び部屋に充満した。江戸はゆっくりと、結露した窓の方を向いた。冷たいガラスの向こう、吹雪の中に巨大な影が横切るのが見えた。
それは人間の影ではなかった。首に対してあまりにも重すぎる頭を持った、四足歩行の「何か」が、点滅する街灯の下を直立するように歩き去っていく姿だった。
江戸は、最も恐ろしい事実に気づいた。もはや自分には、疑う心など残っていない。
今の彼には、何が無機物で、何が「肉」なのか、その区別さえつかなくなっていたのだから。




