第1章:傷ついた断片(フラグメント)
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
夕張精神病院の廊下の床は、江戸のブーツの下で不快な軋み声を上げていた。ツンとするカルキ臭が、かつての炭鉱全盛期に建てられた古い建物のカビ臭さを消し去ろうとしていたが、江戸の鼻には別の臭いが忍び寄っていた。それは壁の向こう側で魚が腐っているような、かすかな生臭さだ。
「忘れないで、江戸さん」エミは革の鞄をきつく抱きしめながら囁いた。「バスの事件について、直接聞き出そうとはしないで。レン君は普通の言葉には反応しないわ。彼はただ……『パターン』にだけ反応するの」
江戸は呆れたように目を回し、ジャケットのポケットにあるポータブルレコーダーの位置を直した。
「彼はトラウマを負っているだけだ、エミ。基礎的な心理学だよ。脳が視覚的な幻覚を使って、凄惨な記憶をブロックしているんだ。呪文も呪いもありはしない。ただの心的外傷後ストレスによる神経回路の焼き切れさ」
二人は、ワイヤーで補強された小さな覗き窓がある重い鉄扉の前で足を止めた。中では、三十代の男が床に胡坐をかいて座っていた。彼がレンだ。
レンは動かなかった。彼の視線はコンクリートの壁に釘付けになっていた。その壁は今や、黒い殴り書きで埋め尽くされている。何千もの曲線が重なり合い、抽象的な「牛の頭」を形作っていた。まるで壁そのものが角を生やそうとしているかのようだ。
「レン君?」看護師がドアを開けると、エミが優しく呼びかけた。
レンは振り向かなかった。しかし、生白く傷だらけの彼の指先がセメントの床の上で動き始めた。聞こえないリズムに合わせるかのように。
江戸は一歩前に踏み出した。彼の懐疑心は、冷ややかな好奇心へと変わっていた。彼はレンの前にしゃがみ込み、1970年代のスクールバス失踪事件の古い写真を取り出した。
「レン、これを見ろ。この男を覚えているか? バスを運転していたお前の先生だ」
その瞬間、部屋の空気が一変した。
大気が突如として重くなり、独房内の気圧が何倍にも膨れ上がったかのような錯覚を覚える。江戸の耳の奥でキーンという耳鳴りが響いた。あのスタジオで聞いたのと同じ周波数だ。
レンがゆっくりと顔を上げた。焦点の定まらない瞳。しかし、その唇は小刻みに震え始めていた。声は出ない。ただ、奇妙でリズミカルな動きを繰り返している。
「彼……何かを言おうとしているわ」顔を蒼白にしたエミがノートを取り出した。「江戸さん、彼の唇の動きを見て。これは北海道の方言じゃない。私たちの知っている日本語じゃないわ」
江戸は眉をひそめた。
「ただの支離滅裂なうわ言だ、エミ。大げさすぎるぞ」
しかし、江戸がエミの持っていたノートの写し――彼女が見つけた古文書のコピー――を読もうとしたとき、ありえないことが起きた。
紙の上の文字が、揺らぎ始めたのだ。「山」や「川」といった意味を持つはずの漢字が、突如として蠢く肉片のように見え始めた。瞬く間に、江戸の脳から「日本語を認識する能力」が消失した。彼にとって、その紙は今や、おぞましい黒い芋虫の這い跡にしか見えなくなっていた。
「エミ……この紙、どうなっているんだ?」江戸の声が突然嗄れた。「どうして文字が……消えるんだ?」
「消える?」エミは困惑したように江戸を見つめた。「文字はここにあるわ、江戸さん。これは『牛頭の書』の第一節よ」
突如として、レンが動きを止めた。彼は江戸を真っ直ぐに見据えた。十年の歳月を経て、初めてレンが声を発した。その声は人間のそれではなく、まるで骨を砕き合わせるような軋み音だった。
「……その角は、開かれた門なり……」
先ほどまでかすかだった死臭が、江戸の嗅覚の中で爆発した。吐き気を催すほどの強烈な臭い。部屋は急激に狭まり、壁に描かれた牛の頭の影が、一斉に彼の方へ向き直ったかのように見えた。
江戸は心臓を激しく脈打たせながら、後ずさりした。「もういい。ここを出るぞ」
外へ出た瞬間、江戸は自分の手を見た。手のひらの皮膚の下で、何かが動いている。神経の下を滑る小さな突起。それは彼がよく知る、あの形を象っていた。
牛の頭のパターンを。




