プロローグ:感染した周波数
# 警告:この物語を読み進めることで生じる「視覚の変容」について、著者は一切の責任を負いかねます。
# 舞台:1990年 北海道・夕張市
# ジャンル:言語侵食型サイコホラー
1990年、秋。北海道夕張市。
夕張の空気は、決して澄み切ることはない。それは常に石炭の残り屑と、主を失った建物から漂う朽ちた木の匂いを孕んでいる。だが今夜、江戸の嗅覚が捉えたのは、それよりも遥かに悍ましい悪臭だった。小さなスタジオの外で薄っすらと雪が降り始めているというのに、まるで真夏の日差しの下で放置された肉が腐敗していくような、そんな臭いだ。
江戸はヘッドフォンの位置を直した。目の前では、マイクロカセットが静かに回転している。
「ねえ、江戸さん……」
向かい側に座るエミの声が震えていた。地下図書館で見つかったという古びた写本の山とは対照的に、彼女の表情はひどく強張っている。「『牛頭』は幽霊なんかじゃない。暗闇の中で追いかけてくる、牛の頭をした怪物でもないわ。それは、もっと質の悪いものよ」
江戸は鼻で笑った。マイク越しに彼の嗄れた声が響く。
「じゃあ何だ? ウィルスか? 言葉が人を殺すなんて、そんな迷信を信じろって言うんじゃないだろうな」
エミは笑わなかった。彼女は一枚のポラロイド写真を江戸の方へ滑らせた。そこには、うらぶれた精神病院の隅に座り込むレンという男が写っていた。背後の壁には、クレヨンで描かれた無数の牛の頭のシルエットが重なり合い、見る者すべてを飲み込もうとするブラックホールのように密集していた。
「レンは、何かを『見た』から狂ったんじゃないわ」エミが囁く。「人間の脳では処理しきれない何かを『聞いて』しまったからよ。この原典のテキストには、ある種のリズムがあるの。特定の音素の並びが、口にされた瞬間、意識の回路をハッキングする。それは強制的に、ある『門』を……そしてその向こう側にあるものを想像させるのよ」
江戸は反論しようとした。懐疑心こそが彼の最大の武器だったからだ。しかし、写真を凝視した瞬間、耳の奥でキーンという耳鳴りがした。鋭く、痛みを伴う高周波だ。
突如として、例の死臭が強まった。鼻を突くような強烈な臭いだ。
薄暗いスタジオの隅で、それまで一言も発さず黙り込んでいたレンが、木製テーブルの上で指を動かし始めた。見ることもなく、音も立てず、彼は自身の爪でテーブルを削り、血を流しながら「角」の形を刻み込んでいく。
江戸は直感した。自分たちは伝説を暴こうとしているのではない。本来ならば壊れたままにしておくべき「鍵」を、再び組み立ててしまっているのだと。
「エミ」江戸の声が、急激に乾いていく。「次の行は読むな」
しかし、明滅するスタジオのライトの下で、エミの唇はすでに最初の一音を形作ろうとしていた。人間の言語には、決して存在してはならないはずの、その一音を。




