第九話 詩人の香り
ラ・ギーズ家へ戻ると、予想通りだった。
ベランジェは玄関広間で待っていた。
待っているというより、崩れる前の柱のように立っていた。
クラリッサの顔を見るなり、彼はすべてを悟ったようだった。
「クラリッサ」
「お父様」
「何をした」
「何もしておりませんわ」
ジャンが後ろから言った。
「昼餐前に帰りました」
ベランジェは目を閉じた。
「それは、何もしていないとは言わない」
「座る前に帰っただけです」
「座る前に?」
「椅子が失礼でしたの」
ベランジェは、ゆっくりジャンを見た。
「ジャン君」
「はい」
「椅子とは、何だ」
「椅子です」
「いや、そうではなく」
「そうとしか言いようがありません」
モルガナが一歩前へ出た。
「旦那様。クルシュナ家では、奥方となる者の席を夫より半歩後ろに置くしきたりがあるようでございます。本日も、そのように整えられておりました」
オルタンスが階段の上から降りてきた。
「半歩後ろ?」
声は静かだった。
だが、ベランジェがびくりとした。
「ええ、お母様」
クラリッサは胸を張った。
「わたくしは、その椅子に座る前に帰りました」
オルタンスはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「そう」
クラリッサは身構えた。
叱られると思ったのである。
だがオルタンスは、娘ではなくベランジェを見た。
「この縁談は、進めなくてよろしいでしょう」
ベランジェは目を見開いた。
「オルタンス」
「クルシュナ家のしきたりが悪いとは申しません。ただ、クラリッサには向きません」
「しかし」
「向きません」
短い一言だった。
ベランジェはそれ以上言えなかった。
クラリッサは、思いがけず母に救われた形になり、少し戸惑った。
「お母様」
「何です」
「わたくし、正しかったのかしら」
オルタンスは娘を見た。
「あなたの言い方は、たぶん正しくありません」
「まあ」
「けれど、座らなかったことは、間違いではありません」
クラリッサは目を瞬いた。
その言葉は、褒め言葉としてはずいぶん硬かった。だがクラリッサには、それで十分だった。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「では、わたくしは今日も勝ちましたのね」
オルタンスの表情が一瞬で冷えた。
「調子に乗るのはおやめなさい」
モルガナがうなずいた。
「奥様、もう半歩ほど遅うございました」
ジャンが小声で言った。
「今日は半歩がよく出るね」
その日の夕方、クルシュナ家から正式な文書が届いた。
文面は硬かった。
双方の家風の相違により、縁談は見送る。
今後も互いの家の名誉を損なわぬよう、慎重に振る舞うことを望む。
つまり、向こうも騒ぎを大きくしたくないらしかった。
ベランジェは、今度こそ椅子に腰を落とした。
椅子は柔らかかった。彼のためには、それが必要だった。
「終わった……」
ジャンは文面を確認し、うなずいた。
「これで済むでしょう」
「済むのか」
「少なくとも、クルシュナ家とは」
ベランジェはその一言に引っかかった。
「少なくとも?」
その時、廊下の向こうから家令の足音が近づいた。
クラリッサは嫌な予感がして、振り返った。
ジャンも、ほとんど同じ顔をした。
家令は扉を開け、封書を差し出した。
「旦那様。新たなお手紙でございます」
ベランジェは、椅子の背にもたれたまま固まった。
「今度は、どこだ」
家令は封蝋を見た。
「リュザンクール家でございます」
モルガナが静かに言った。
「テオバルド・ド・リュザンクール様。詩で名高い方でございますね」
クラリッサの目が少し輝いた。
「詩人?」
ジャンはすぐに言った。
「その顔はやめた方がいい」
「だって、詩人ですわ。今度こそ、優雅な婚約になるかもしれません」
「君が優雅という言葉を使う時、たいてい周囲が苦労する」
クラリッサは聞いていなかった。
「愛の詩など贈られたら、どうしましょう。わたくし、困ってしまいますわ」
モルガナが淡々と言った。
「困る前に、まず読めるかどうかでございます」
「モルガナ!」
ジャンは窓の外を見た。
夕方の空は、薄い紫色に沈んでいた。
「詩か」
彼は小さく呟いた。
「書類より厄介だな」
クラリッサ・ド・ラ・ギーズの二度目の婚約話は、椅子に座る前に終わった。
そして三度目の災難は、薔薇の香りのする封筒に包まれてやって来た。




