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第八話 馬車の中で何処か満足げな婚約破棄令嬢

 帰りの馬車の中は、しばらく沈黙していた。


 クラリッサは腕を組み、窓の外を見ている。

 怒っているようにも見えたし、少し震えているようにも見えた。

 彼女は大げさな女だったが、大げさな人間が必ずしも傷ついていないわけではない。


 馬車が石畳を踏む音だけが続く。


 やがてジャンが言った。


「君はまた婚約を壊した」


「壊れやすい婚約が悪いのですわ」


「椅子で壊れる婚約は、たしかにあまり頑丈ではないね」


 クラリッサは彼を見た。


「ジャン、あなたはどちらの味方ですの」


「今日は、椅子の味方ではない」


「つまり、わたくしの味方?」


「その二択しかないなら、世の中はだいぶ不便だ」


 モルガナが口を開いた。


「ですが、あの椅子はよろしくありませんでした」


 クラリッサはすぐに身を乗り出した。


「でしょう!!」


「お嬢様の言い方もよろしくありませんでした」


「そこは今、省いてよろしいところですわ」


「省くと、お嬢様が学ばれません」


「わたくしを子供扱いしないで!」


「では、大人として申し上げます。あの椅子を見て怒ったことは、間違いではございません。けれど、怒り方にもう少し手入れが必要でございます」


 ジャンが少し笑った。


「手入れで済むかな」


「砥石が要ります」


「僕はその砥石役を頼まれたくない」


「もう長年なさっております」


「否定できないのが悲しいな」


 クラリッサは窓の外へ顔を向けた。


 北側の街路は、王都の中心より少し静かだった。

 石造りの家々の間を、荷馬車がゆっくり通っていく。

 通りの端で、小さな女の子が母親のスカートを掴んで歩いていた。

 母親は荷物を抱えながら、子供が転ばないように歩調を緩めている。


「わたくし」


 クラリッサはぽつりと言った。


「あの椅子に座ったら、次も、その次も、ずっとあそこに座ることになる気がしましたの」


 ジャンは黙って聞いていた。


「最初に座ったら、もう文句を言えなくなるでしょう。だって、一度座ったのだから。昨日はよかったのに、今日は嫌なのかと言われますわ。慣れれば楽だと言われますわ。皆そうしていると言われますわ」


 彼女は少し唇を噛んだ。


「だから、座る前に立つしかありませんでしたの」


 馬車の中の空気が、少しだけ変わった。


 クラリッサの言葉は、いつも飾りが多い。

 自分を大きく見せたり、可哀想に見せたり、勝者に見せたりするために忙しい。だが今の言葉には、そういう飾りが少なかった。


 ジャンは静かに言った。


「君にしては、よく考えていたんだね」


「失礼ですわ。わたくしはいつも考えております」


「考えが口に追いついていないだけか」


「ジャン」


「悪かった」


 モルガナが外套の皺を直しながら言った。


「お嬢様。今日のことは、旦那様に説明が必要でございます」


「お父様、泣くかしら」


「泣く前に青ざめます」


「お母様は?」


「扇をお取り替えになるでしょう」


 クラリッサは少しだけ肩を落とした。


「また扇を犠牲にしてしまいましたわね」


「奥様の扇は、お嬢様の代わりに折れております」


「それは、親孝行かしら」


「違います」


 ジャンは鞄から手帳を出した。


「さて、説明をどう整えるか」


「美しく書きなさい」


「またか……」


「今度こそ、尊厳の問題ですわ」


「前回もそう言っていた」


「今回は椅子の尊厳です」


「椅子にまで尊厳を広げると、法が忙しくなる」


 ジャンは少し考え、手帳に短く書いた。


「婚約予定者側の席次慣習について、当事者間の合意に至らず」


 クラリッサは不満そうに眉を寄せた。


「つまらないですわ」


「書類は、つまらない方が長生きする」


「では、欄外にこう書いて。わたくしは家具ではありません、と」


「書かないよ」


「ジャン」


「絶対に書かない」


 モルガナが静かに言った。


「書かずとも、読む者には伝わりましょう。あの家が本当に賢ければ」


 クラリッサは少し黙った。


 それから、小さく言った。


「伝わるかしら」


 ジャンは窓の外を見たまま答えた。


「伝わらない相手だったから、君は帰ってきたんだろう」


 クラリッサは、返事をしなかった。


 その代わり、ほんの少しだけ満足そうにした。


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