第七話 椅子が硬すぎますわ
食堂に入った瞬間、クラリッサは立ち止まった。
広い部屋だった。長い食卓には白い布がかけられ、銀器が整然と並んでいる。
壁には鹿の角と古い槍。
窓の外には、冬枯れの庭が見えた。
席も、きちんと用意されていた。
きちんとしすぎていた。
ラドヴァンの席は、食卓の中央に近い。
クラリッサの席はその隣、と見せかけて、半歩ほど後ろに下がっている。
しかも椅子の背が、他の椅子より低い。座面も薄く、飾りも少ない。
見落とそうと思えば見落とせる。
だが、クラリッサは見落とさなかった。
彼女は、指輪の傷を見つける女である。椅子の高さなど、見つけないはずがない。
「これは」
クラリッサは言った。
ジャンが横からすばやく囁いた。
「まず黙って観察する約束だったね」
「観察した結果ですわ」
「だから早いって……」
「椅子が失礼です」
モルガナは椅子を一目見て、何も言わなかった。
何も言わなかったことが、むしろ何かを言っていた。
ラドヴァンは穏やかに説明した。
「クルシュナ家の古いしきたりです。妻となる方は、夫の隣に座りながらも、家中の調和を守るため、ほんの少し控えた位置に席を置く」
「控えた位置」
クラリッサは、ゆっくり繰り返した。
「ええ。もちろん、あなたを軽んじる意味ではありません」
「軽んじていない椅子が、なぜ軽い作りなのです」
ラドヴァンは一瞬、言葉を失った。
ジャンは小さく息を吐いた。
「椅子にまで言い返すのか」
「椅子が先にわたくしへ喧嘩を売りましたの」
「家具に敵意を見出すのは、君の特技に加えておくよ」
クラリッサは一歩近づき、椅子の背に手を置いた。
木は黒く、硬い。
座面には薄い布が張られているが、慰め程度だった。彼女は指で軽く叩いた。
乾いた音がした。
「この椅子、わたくしを反省させるために作られておりますわ」
ラドヴァンの背後にいたクルシュナ家の老婦人――彼の叔母らしき人物が眉をひそめた。
「ラ・ギーズ嬢。クルシュナ家では、婦人は慎みを重んじます」
「慎みと座り心地の悪さは、親戚ですの?」
「女性には、時に控える美しさというものがございます」
「控えるにしても、もう少し柔らかい場所で控えたいものですわ」
ジャンが低く言った。
「クラリッサ」
「何ですの」
「君の言い方は最悪だ」
「内容は?」
ジャンは、椅子を見た。
それから、ラドヴァンの席を見た。
「……内容には、検討の余地があるかな」
クラリッサは勝ったような顔をした。
「聞きましたか」
「僕を旗印にするな」
ラドヴァンは、声を少し低くした。
「クラリッサ嬢。これは侮辱ではありません。クルシュナ家の秩序です」
「秩序」
「はい。家には形があります。夫には夫の座があり、妻には妻の座がある。人は自分の座を守ることで、家を乱さずに済む」
クラリッサは黙った。
それは珍しい沈黙だった。
怒りで言葉が詰まったのではない。
むしろ、言うべき言葉を探している沈黙だった。
「ラドヴァン様」
「はい」
「わたくしは、あなたの家へ嫁ぐかもしれない女です」
「そうです」
「では、この席は、わたくしがこれから座る場所ですわね」
「はい」
「食事の時も?」
「はい」
「客人を迎える時も?」
「もちろん」
「あなたの隣で、半歩後ろに?」
「それが美しい形です」
クラリッサは椅子から手を離した。
「わたくしは、家具ではありませんわ!!」
食堂が静かになった。
その言葉もまた、少し馬鹿馬鹿しい。
だがどこか妙に芯を食っていた。
ラドヴァンは眉を寄せた。
「誰も、あなたを家具などとは」
「けれど、置き場所を決めました」
「それは、家の習わしとして」
「習わしなら、失礼でも失礼でなくなるのですか」
ラドヴァンは答えなかった。
代わりに、叔母らしき老婦人が言った。
「ラ・ギーズ嬢は、お若い。嫁げばわかります。女が一歩控えることで、家は穏やかになるのです」
クラリッサは、その老婦人を見た。
彼女は豪華な黒いドレスを着ていた。
背筋は伸び、顔には厳しさがある。
長年、そうして座ってきた人の顔だった。
控えることを誇りにしてきたのかもしれない。
あるいは、誇りにしなければ耐えられなかったのかもしれない。
クラリッサには、そこまでの事情はわからなかった。
ただ、自分がその椅子に座る未来だけは、はっきり嫌だった。
「穏やかな家というのは」
クラリッサは言った。
「誰か一人が、ずっと座り心地の悪い椅子に座って作るものですの?」
誰もすぐには答えなかった。
ジャンは、わずかに目を伏せた。
モルガナは、クラリッサの後ろに静かに立っていた。
その表情は変わらない。
ただ、彼女はいつでもクラリッサが倒れたり逃げたり叫んだりできる距離にいた。
ラドヴァンは、やがて息を吐いた。
「あなたは、少し自由に育ちすぎたようだ」
その一言で、クラリッサの目つきが変わった。
ジャンが小さく「ああ……」と言った。
それは、幼い頃から何度も聞いた音だった。
クラリッサがもう戻らない線を越えた時、ジャンはだいたいそう言う。
「自由に育ったことが、そんなに悪いことですの?」
「悪いとは言っていません。ただ、妻となるなら、学ぶべきことがあります」
「何を?」
「家を支える姿勢です」
「後ろに座る姿勢?」
「言葉を選んでください」
「椅子を選んだのはそちらですわ」
ラドヴァンは、明らかに苛立った。
彼は怒鳴らなかった。
そこは軍人貴族らしい抑制だった。
だが、抑えた声には、命令の硬さがにじんでいた。
「クラリッサ嬢。結婚とは、互いに役割を受け入れることです」
「互いに?」
「当然です」
「では、あなたもわたくしの半歩後ろに座る日がございますの?」
ラドヴァンは黙った。
クラリッサは、にっこり笑った。
「ないのでしょう?」
その笑顔は、シリルの銀食器のような笑顔とは違っていた。
美しいが、刃物のようにうるさい笑顔だった。
「なら、互いにではありませんわ。わたくしだけです」
ラドヴァンの叔母が立ち上がった。
「無礼です」
「ええ」
クラリッサはあっさり言った。
「わたくしも、そう思います。ですから帰ります」
ベランジェがその場にいれば、間違いなく倒れていた。
幸い、彼はこの昼餐には同行していない。だが不幸なことに、ジャンがいた。
「クラリッサ」
「止めないで、ジャン」
「止めているんじゃない。帰るなら、もう少し手順を踏んで帰ろうと言っている」
「手順?」
「貴族は、怒って帰る時にも挨拶をする。面倒だけど、そういう生き物だ」
クラリッサは少し考えた。
それから、ラドヴァンへ優雅に礼をした。
「本日はお招きいただき、ありがとうございました。椅子は大変よく磨かれておりましたわ。座らずに済んで、幸いでした」
ジャンは目を閉じた。
「手順は踏んだ。内容は踏み荒らした、と」
モルガナがクラリッサの外套を受け取った。
「お嬢様、お見事でございます。言葉は荒れましたが、姿勢だけは崩れませんでした」
「褒めているの?」
「半分ほど」
「残りは?」
「いつも通りでございます」
クラリッサは胸を張った。
「では、帰りますわ」
ラドヴァンは低い声で言った。
「本気ですか」
「ええ。わたくし、座る前に席を立つ女ですの」
ジャンが横で呟いた。
「その言葉を聞かなかったことにして帰りたい」




