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第三十七話 削られていない指輪

 婚約が決まっても、ラ・ギーズ家は静かにならなかった。


 むしろ、静かでなければならない書類が、次々と音を立ててやって来た。

 招待状、婚姻契約書、持参品の控え、式次第、席次表、指輪職人への依頼書。

 紙は白く、文字は黒く、どれも澄ました顔をしていたが、クラリッサ・ド・ラ・ギーズには、それらが小さな火種を抱えているように見えた。


 朝の客間で、ロアゼル・ド・シャントルーが席次表を広げた。


 元王宮儀礼官というだけあって、彼の線は美しかった。

 祭壇、親族席、招待客、祝宴の卓。

 すべてが整っている。整いすぎているものは、時々、人の本音を隠す。


 クラリッサは黙ってそれを見た。


 ジャン=バティスト・ド・シャトノワも横から覗き込んでいる。

 ベランジェは、何も起きないことを祈る人の顔をしていた。

 オルタンスは扇を閉じたまま、静かに娘の反応を待っている。

 モルガナだけは、紅茶を注ぎながら、もう何かを見つけたような目をしていた。


「ロアゼル様」


 クラリッサは言った。


「はい、クラリッサ嬢」


「ジャンのご両親の席は、ここですの?」


「はい。家格差を考慮いたしますと、その位置がもっとも自然でございます」


「自然」


 クラリッサは、その言葉を小さく繰り返した。


 ラ・ギーズ家の親族席は、祭壇に近い。

 シャトノワ家の親族席は、その斜め後ろに置かれている。大きな差ではない。けれど、半歩だった。


 半歩。


 彼女は、その距離をよく知っていた。


「これは、半歩後ろの椅子と同じですわ」


 ジャンが小さく息を吐いた。


「そこへ戻るんだね」


「戻るのではありません。向こうから来たのです」


 ロアゼルは困った顔をした。


「クラリッサ嬢、軽んじる意図ではございません。むしろ、シャトノワ家を前に出しすぎますと、余計な視線を集めることになります」


「余計な視線を避けるために、ジャンのご両親を後ろへ置くのですか」


「後ろ、というほどでは」


「では、横ですか」


 ロアゼルは答えに詰まった。


 クラリッサは席次表に指を置いた。


「何もおっしゃらない方は、傷つかないわけではありません。ただ、言わないだけですわ」


 客間が静かになった。


 ジャンは、しばらく席次表を見ていた。それから静かに言った。


「儀礼上、ロアゼル殿の案はおかしくない」


「ジャン」


「でも、僕の両親がそこに座るのを見るのは、少し嫌だね」


 クラリッサはすぐに顔を上げた。


「ほら」


「今日の君は、ほらが早い」


「正しい時は、早くてもよろしいのです」


 オルタンスが静かに口を開いた。


「ロアゼル殿。ラ・ギーズ家は、シャトノワ家を控えさせるためにこの婚姻を結ぶのではありません」


「もちろんでございます」


「では、席にもそれを反映させてください」


 ロアゼルは、しばらく席次表を見つめた。


 やがて、懐から細い筆を取り出す。


「では、新郎側直系親族と新婦側直系親族を左右対称に置きましょう。祝宴の卓も、両家を分けすぎず、混ぜる形にいたします」


「悪くありませんわ」


 クラリッサは頷いた。


「それから、名前を大きく書いてくださいませ」


「名前、でございますか」


「ええ。爵位や注記より、名前を先に」


 ジャンが横から言った。


「それは難しくない修正ですね」


「あなたもそう思う?」


「僕も、名前は大きい方がいいと思う」


 クラリッサは満足した。


「ほら」


「二度目だ」


「心の中では、もっと言っています」


 モルガナが紅茶を置いた。


「お嬢様。正しい時ほど、控えめになさると品が出ます」


「では、心の中だけで三度目を言います」


「漏れそうでございますね」


 ロアゼルは、席次表を書き直した。


 線が少し動く。名前の位置が変わる。

 ただそれだけのことなのに、クラリッサには、部屋の空気まで少し動いたように見えた。


 半歩後ろの椅子が、横へ戻る。


 それは、大きな改革ではない。


 けれど、小さいことを小さいまま飲み込まないと決めたクラリッサには、十分なことだった。

 席次表の次は、指輪だった。


 指輪職人マテウスは、昼前にやって来た。小柄で、指先の細い男だった。黒い箱をいくつか卓に並べる手つきが、とても丁寧だった。


 クラリッサは、箱が開かれる前から少し身構えていた。


 ジャンはそれを見ていた。


「指を睨んでいるね」


「睨んでいません。確認しています」


「指は今日も君のものだよ」


「それは当然ですわ」


 モルガナが後ろから言った。


「当たり前のことほど、時々忘れられますので」


 クラリッサは何も言わなかった。


 その通りだったからである。


 箱の中には、いくつもの輪が入っていた。

 金、銀、白金。石のあるもの、ないもの。細いもの、太いもの。

 クラリッサは美しいものを見ると、やはり少し機嫌がよくなる。これは反省で直るものではなかった。


 マテウスが説明を始める。


「こちらは古い型でございます。こちらは内側に文字を深く刻めますので、年月を経ても消えにくうございます」


「消えにくい」


 クラリッサは言った。


「よろしいですわ」


 ジャンがすぐに言った。


「まだ形を見ていない」


「名前が消えにくいのは大切です」


「それはわかる」


「なら、よろしいのでは?」


「順番が逆だと思う」


 マテウスは少し戸惑っていた。


 モルガナが静かに言った。


「お気になさらず。お嬢様が先に走り、ジャン様が横から袖をつかむ形でございます」


「わたくしは走ってなどおりません」


「本日は小走りでございます」


 ジャンは、飾りの少ない細い金の輪を手に取った。


「これがいいと思う」


 クラリッサはそれを見た。


「地味ですわ」


「君の手には、十分映える」


 クラリッサは動きを止めた。


「今、何と?」


「言わない」


「言いましたわよね」


「言ったかもしれない」


「もう一度」


「記憶されるから嫌だ」


「もう記憶しました」


「ならいいだろう」


 クラリッサは、その指輪を受け取った。


 たしかに華やかではない。


 けれど、悪くない。


 最初の指輪は、美しかった。石も形も整っていた。

 けれど、内側に前の令嬢の名を削った跡があった。自分のものではない光だった。


 これは違う。


 まだ誰のものでもない。


 これから自分の指の寸法で作られる。


「ジャン」


「何だい」


「新しいものですわね」


「もちろん」


「削り跡は?」


「ない」


「前の誰かの名前も?」


「ない」


「職人の昔の恋人の頭文字も?」


「そこまで疑うのか」


「指輪とは、油断ならないものです」


 ジャンは、少し真面目な顔になった。


「新しく作る。君の指の寸法で。君の名前を入れる」


 クラリッサは黙った。


 君の指の寸法で。


 君の名前を入れる。


 それだけのことが、妙に胸の奥へ沈んだ。


「わたくしの名前だけ?」


「僕の名前も入る。結婚指輪だからね」


「わたくしの指輪には?」


「クラリッサ」


「短くありません?」


「君を呼ぶには十分だ」


 何でもないように言われた。


 けれど、その言葉は、クラリッサの胸の中で小さく鳴った。


 詩にはなかった名。

 名札では小さくされた名。

 白薔薇会で自分が自分のために立った名。

 そして、指輪の内側に入る名。


「では、クラリッサで」


 彼女は言った。


「あなたの指輪には、ジャンでよろしいのでは?」


 ジャンは少しだけ黙った。


「正式名でなくていいのかい?」


「わたくしが呼ぶ名前ですもの」


 ジャンは返事をしなかった。


 モルガナが静かに言った。


「ジャン様。今は、黙っている方がよろしゅうございます」


「なるほど」


 ジャンは頷いた。


「そうします」


 クラリッサは不満げに二人を見比べた。


「何ですの、その会話は」


「何でもない」


「何でもない顔ではありません」


「君にしては鋭い」


「いつも鋭いです」


「そうだね」


 ジャンが素直に言ったので、クラリッサはかえって少し困った。


 寸法が測られた。


 試し輪が指に入る。


 きつすぎず、緩すぎず、静かに留まる。


「合っていますわ」


 クラリッサは小さく言った。


 ジャンが聞いていた。


「よかったね」


「ええ」


 モルガナが言った。


「お嬢様。今のお返事は、たいへんよろしゅうございました」


「短かったから?」


「はい」


「最近、そればかりですわね」


「良い傾向でございます」


 マテウスは控えを取り、丁寧に頭を下げた。


「式の前には、必ずお届けいたします」


「新しく」


「はい」


「削らず」


「はい」


「名前を間違えず」


「はい」


 ジャンが低く言った。


「そのくらいで許してあげてくれ」


「大切なことです」


「わかっている」


 マテウスは、少し緊張した顔で帰っていった。


 ベランジェは、客間の隅でずっと見守っていたらしい。指輪職人が去ると、ようやく息を吐いた。


「何も壊れなかったな」


「お父様、失礼ですわ」


 ジャンが言った。


「今回は、職人が少し怯えただけです」


「それも問題では?」


「いつもより軽い方です」


 モルガナが頷いた。


「上出来でございます」


 クラリッサは、自分の指を見た。


 まだ指輪はない。


 けれど、そこに来るものの形を、もう少しだけ知っている。


 それは、削られた名ではなく、自分の名を持つ輪だった。


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