第三十八話 婚約破棄令嬢の結婚式
結婚式の朝、ラ・ギーズ家は不思議なほど静かだった。
嵐の前の静けさではない。少なくとも、今日はまだ誰も逃げようとしていない。
廊下を歩く侍女たちの足音も、銀器の触れ合う音も、どこか遠慮がちだった。
クラリッサ・ド・ラ・ギーズは、鏡の前に立っていた。
白いドレスは、あの日ジャンが見抜いた布で仕立てられていた。
光を受けると、ほんの少し青みが浮かぶ。
雪ほど冷たくなく、雲ほど頼りなくもなく、百合ほどすましてもいない。
布は静かに重く、裾は床の上で水のように広がっていた。
「悪くありませんわ」
背後でヴェールを整えていたモルガナが言った。
「お嬢様にしては、たいへん控えめなお言葉でございますね」
「今日は花嫁ですもの。控えめも装いの一部です」
「たいへん薄い装いでございます」
「モルガナ」
「ですが、お似合いです」
クラリッサは鏡越しに振り返った。
「今、褒めました?」
「はい」
「記憶します」
「本日は、記憶なさるものが多うございましょうね」
モルガナは、クラリッサの髪に小さな飾りを留めた。
白い花の中に、青い石が一つだけ入っている。セラフィーヌ・ド・ヴォークラン王女から贈られたものだった。
「青ですのね」
「はい」
「殿下は今日も青を?」
「そのように伺っております」
クラリッサは鏡の中で、その小さな青を見た。
王女の髪に結ばれる青いリボンを思い出す。
あの青が消えなかったことは、少しだけ自分のことのように嬉しかった。
机の上には、小さな黒い箱が置かれている。
クラリッサはそれを開けた。
中には、細い金の指輪があった。
外側に大きな飾りはない。
けれど、内側には、きちんと名前が刻まれている。
クラリッサ。
削られていない。
上書きされていない。
誰かの名の跡でもない。
「モルガナ」
「はい」
「ちゃんと、わたくしの名前ですわ」
「はい」
「削られておりませんわ」
「はい」
「……少し、変な気分です」
モルガナは、すぐには皮肉を言わなかった。
ただ、静かに答えた。
「よろしい気分でございましょう」
クラリッサは指輪の箱を閉じた。
「ええ」
それから、ほんの少し笑った。
「よろしい気分ですわ」
玄関広間では、ベランジェが待っていた。
彼は礼服を着ていたが、顔はすでに泣きそうだった。
式はまだ始まっていない。
それなのに、もう目が赤い。
「お父様」
「何だ」
「泣いておりますの?」
「泣いていない」
「声が泣いております」
「今日は許してくれ」
ジャン=バティスト・ド・シャトノワは、玄関の脇に立っていた。
黒に近い濃紺の礼服。
華やかではない。けれど整っていた。
余計な飾りがないぶん、彼自身の静けさがよく見える。
彼はクラリッサを見ると、少しだけ言葉を止めた。
それから小さく言った。
「綺麗だ」
クラリッサは足を止めかけた。
「今、何と?」
「式の前から記憶作業に入らないでくれ」
「もう記憶しました」
「だろうね」
モルガナが後ろから言った。
「ジャン様。本日はお気をつけくださいませ。お嬢様の記憶の箱は、すでに満ちかけております」
「今日だけは、少し諦めます」
「よい心がけでございます」
「二人とも、わたくしの前で勝手に和解しないでくださいませ」
ジャンは笑った。
その笑いは短かったが、クラリッサの胸の中でしばらく残った。
エルヴェ司祭の声が、教会に低く響いた。
祈りの言葉。
祝福の言葉。
そして、誓約の時が来た。
「新郎と新婦は、互いの名を重んじ、互いの家を敬い、喜びの日も苦しみの日も、同じ卓に向かい、同じ道を歩むことを誓いますか」
教会の空気が、静かに澄んだ。
同じ卓。
同じ道。
名を重んじ。
クラリッサは、ジャンを見た。
ジャンが先に答える。
「誓います」
それから、彼は彼女の名を呼んだ。
「クラリッサ」
ただ、それだけだった。
けれど、彼女のためだけの呼び名だった。
名札の下に小さく置かれた名ではない。
詩の空白に隠れた名でもない。
削られるための名でもない。
彼が、普通に呼んできた名。
クラリッサは少しだけ息を吸った。
「誓います」
そして、彼を見て言った。
「ジャン」
正式名ではない。
王宮文書の名でもない。
彼女が呼ぶ名だった。
ジャンは、ほんの少し笑った。
その笑いはすぐ消えたが、クラリッサには十分だった。
指輪が運ばれた。
小さな箱が開かれる。
金の輪が二つ。
外からは、何も刻まれていないように見える。
だが内側には、ちゃんと名がある。
クラリッサ。
ジャン。
誰にも見えないところに、互いの呼び名がある。
ジャンが、クラリッサの指に指輪をはめる。
指輪は、静かに入った。
きつすぎず、緩すぎず。
合っている。
クラリッサは、指先を少し動かした。
金の輪が、彼女の指に留まっている。
それだけのことが、こんなにも大きいとは思わなかった。
次に、クラリッサがジャンの指に指輪をはめた。
「合っています?」
小さく聞くと、ジャンも小さく答えた。
「合っている」
「よろしいですわ」
「式の最中に確認するんだね」
「大事です」
「そうだね」
ジャンは、指輪を少し見た。
「大事だ」
クラリッサは、その言葉も記憶した。
声には出さなかった。
式の途中なので、少しは慎みがある。
少しは。
式の後、教会の庭で小さな祝宴が開かれた。
卓は二つではなく、一つの長い卓だった。
ラ・ギーズ家とシャトノワ家は向かい合うのではなく、混じって座った。
古い親族の何人かは少し不満そうだったが、菓子の量が十分だったので、ひとまず黙っていた。
クラリッサは言った。
「菓子は大切ですわ」
ジャンが隣で答える。
「政治的にもね」
「ほら、わたくしが正しかったでしょう」
「部分的に」
「今日は全部と言ってもよい日です」
「では、今日は多めに。かなり正しかった」
クラリッサは目を輝かせた。
「記憶します」
「うん」
「いいの?」
「今日くらいは」
そこへ、モルガナが茶を持ってきた。
「お嬢様」
「何?」
モルガナは、一度だけ言葉を止めた。
そして、言い直した。
「奥様」
クラリッサは固まった。
「奥様」
「はい。ジャン様の奥様でございます」
「……変な感じですわ」
「すぐ慣れます」
「本当に?」
「慣れなければ、慣れるまで騒がれるだけでございます」
ジャンが言った。
「それは困る」
モルガナは、二人に茶を置いた。
「では、改めまして。ご結婚、おめでとうございます」
クラリッサは、少しだけ背筋を伸ばした。
「ありがとう、モルガナ」
モルガナは、ほんのわずかに目を細めた。
それは彼女にしては、かなり深い笑みだった。
「お嬢様」
「まだお嬢様?」
「しばらくは」
「なぜ?」
「長年の癖でございます」
「仕方ありませんわね」
「はい。古い付き合いでございますから」
ジャンは思わず笑った。
「その言葉には、僕も何度も負けました」
「これからも負けていただきます」
「やっぱりそうなるんですね」
クラリッサは、二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。
その日の終わり、クラリッサは教会の庭の端に立っていた。
夕方の光が、白いドレスの裾に落ちている。
昼の白とは違う。少し金色を含んだ光の中で、布はやわらかく沈んでいた。
ジャンが隣に来た。
「疲れた?」
「少し」
「珍しく正直だ」
「今日は、嘘をつくには大事な日すぎますもの」
ジャンは、彼女の指を見た。
金の指輪が、夕方の光を受けている。
「指輪は?」
「合っていますわ」
「それはよかった」
「少し不思議です」
「何が?」
クラリッサは、自分の指を見つめた。
「わたくし、ずっと合わないものばかり見つけてきた気がしますの」
ジャンは黙って聞いていた。
「指輪も、椅子も、詩も、手袋も、リボンも、名札も、席次表も、誓いの言葉も。どれも、どこか合わなかった」
「うん」
「でも、これは合っています」
ジャンは少しだけ黙った。
「それは、かなり嬉しいね」
クラリッサは彼を見た。
「記憶します」
「それは記憶していい」
クラリッサは、ふっと笑った。
風が吹いた。
白いヴェールが少し揺れる。
彼女は、かつて自分が叫んだ言葉を思い出した。
わたくしの指は、わたくし専用です。
馬鹿げていて、みっともなくて、けれど本当だった言葉。
その指には、今、新しい指輪がある。
名前を削られていない指輪。
自分で選び、自分で誓い、自分の名を書いた後の指輪。
「ジャン」
「何だい」
「わたくし、婚約を破棄しませんでしたわね」
「そうだね」
「結婚も、破棄しないよう努力します」
「そこは努力なんだ」
「嘘はいけませんもの」
「正直でよろしい」
「褒めていますの?」
「かなり」
クラリッサは満足そうに頷いた。
「記憶します」
「どうぞ」
ジャンは、彼女の手を取った。
半歩前でも、半歩後ろでもない。
横に。
クラリッサは、その手を見た。
そして、静かに握り返した。
「ジャン」
「うん」
「同じ道、でしたわね」
「そうだね」
「では、行きましょう」
「どこへ?」
クラリッサは少し考えた。
そして、いつものように少し得意げに言った。
「まずは、同じ卓へ。菓子が残っているうちに」
ジャンは呆れたように笑った。
「君らしい」
「褒めていますの?」
「今日は、そういうことにしておく」
モルガナの声が、少し離れたところから飛んできた。
「お嬢様、菓子は人数分でございます。独占なさいませんように」
「わかっていますわ!」
クラリッサは振り返って答えた。
その声は、教会の庭に明るく響いた。
ジャンは肩をすくめた。
「平穏は遠いな」
「でも、退屈ではありませんでしょう?」
「それは、まあ」
「記憶します」
「今のは褒めていない」
「わたくしには、そう聞こえました」
「君の耳は便利だね」
「頼れる耳ですわ」
「言い直しが雑だ」
二人は、夕方の庭を歩いていった。
同じ速さではない。
時々クラリッサが先に行き、ジャンが少し遅れてため息をつく。
時々ジャンが道を指し、クラリッサが文句を言いながら従う。
それでも、二人の影は同じ方向へ伸びていた。
クラリッサ・ド・ラ・ギーズは、何度も婚約を破棄した令嬢だった。
けれど、その日だけは違った。
彼女は、自分の名前を消さず、自分の席を譲らず、自分の声を飲み込まず、そして誰かの名も小さくしないまま、ひとつの誓いを選んだ。
わたくしは、婚約を破棄いたしません。
その言葉は、もう騒ぎではなかった。
彼女が自分の名で選んだ、最初の静かな約束だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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