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第三十六話 わたくし、婚約を破棄いたしません

 白薔薇会から三日たつと、王都の噂はすっかり形を変えていた。


 最初は、ただ、こうだった。


 ラ・ギーズ家の令嬢が、ベルシュラック侯爵夫人の白薔薇会へ呼ばれたらしい。


 それが昼には、白薔薇の間で、婚約破棄令嬢が夫人たちを相手に大立ち回りをしたらしい。となり、夕方には、名札を外したラ・ギーズ嬢が、自分を粗末に扱うなと白薔薇の間で言い放ったらしい。となった。


 翌朝には、さらに幾つかの形があった。


 粗末に扱われるのを拒んだ令嬢。


 名札を外したラ・ギーズ。


 歩く破談状。


 最後の呼び名を聞いた時、クラリッサ・ド・ラ・ギーズは朝食の席で匙を置いた。


「歩く破談状とは何ですの!!」


 彼女は言った。


「せめて、歩く婚約破棄状になさいませ。格が違いますわ!」


 ベランジェ・ド・ラ・ギーズは、紅茶を飲みかけてむせた。


「そこを気にするのか」


「大事です。破談状では、わたくしがただの紙切れのようではありませんか」


 モルガナが、焼いたパンを皿に置きながら言った。


「お嬢様は、紙切れより扱いが難しゅうございます」


「それは褒めていますの?」


「いいえ」


「即答しないで」


 オルタンス・ド・ラ・ギーズは、静かに紅茶を飲んでいた。


 母は、白薔薇会以来、娘を少しだけ叱らなくなった。

 まったく叱らなくなったわけではない。

 クラリッサは、叱られる材料を自分で拾ってくる才能があるからだ。

 けれど、叱る前に一呼吸置くようにはなった。


「クラリッサ」


「はい、お母様」


「噂の呼び名を選べる立場ではありません」


「では訂正すべきでは?」


「噂は、訂正すると長生きします」


「厄介ですわね」


「人が面白がっているものは、だいたい厄介です」


 ベランジェは、卓の端で手紙の束を見ていた。


 祝福の手紙ではない。


 慰めの手紙でもない。


 ただ、様子をうかがうような手紙だった。


 ラ・ギーズ家の令嬢が白薔薇会でどう扱われたのか。

 ベルシュラック侯爵夫人は何と言ったのか。

 クラール夫人はどう反応したのか。

 セラフィーヌ王女の件は本当なのか。


 誰も正面から責めてはこない。


 しかし、誰も縁談を持ってもこない。


 それが、いちばん静かな答えだった。


「お父様」


 クラリッサは、父の顔を覗き込んだ。


「また老けました?」


「娘に毎朝寿命を削られている」


「白薔薇会では、わたくし、かなり立派だったはずです」


「立派だった部分はある」


「ジャンと同じことをおっしゃらないで」


 ベランジェは、困ったように笑いかけ、それから笑いきれずに目を伏せた。


 その沈み方を、クラリッサは見た。


 いつものように情けないだけではない。何かを決めかねている顔だった。父がこういう顔をする時は、だいたい家計か、自分の縁談か、その両方である。


「お父様」


「何だ」


「何か隠しておりますね」


 ベランジェはびくりとした。


「隠してはいない」


「では、言っていないだけですのね」


「近頃、お前も言葉の逃げ道を塞ぐようになったな」


「成長ですわ」


 モルガナが言った。


「成長というより、追い込み方が上達なさいました」


「モルガナ」


 オルタンスは、夫を見た。


「あなた」


 ベランジェは、妻のその声に弱かった。


「今日の夕方、ジャン=バティスト殿に来ていただくのでしょう」


 クラリッサは目を細めた。


「ジャンに?」


「うむ」


「また書類ですの?」


 ベランジェは、答えなかった。


 その沈黙は、あまりにも答えだった。


「わたくしの話ですわね」


 オルタンスが静かに言った。


「あなたの今後の話です」


「今後」


 クラリッサは、その言葉を繰り返した。


 縁談より広く、婚約より逃げづらい言葉だった。


 胸の奥に、細い糸が張られる。


 それは白薔薇会で感じたものとは違っていた。もっと身近で、もっと静かで、少しだけ怖い。


「ジャンを呼ぶほどの今後ですの?」


 ベランジェは小さく息を吐いた。


「ジャン君でなければ、話にならないかもしれん」


 クラリッサは眉を寄せた。


 それは、褒め言葉なのか、災難の知らせなのか、判じかねる言い方だった。


 夕刻、ジャン=バティスト・ド・シャトノワは、いつもより少し早くラ・ギーズ家へやって来た。


 王宮記録局の仕事を切り上げてきたのだろう。

 上着の袖口には、まだ紙の匂いが残っているようだった。

 彼は玄関広間へ入ると、家令の顔を見て、少しだけ眉を動かした。


 ラ・ギーズ家の家令は、妙に丁寧だった。


 丁寧すぎる案内というものは、だいたい嫌な話へ続いている。


「ジャン様。旦那様がお待ちでございます」


「大事な相談、と聞いています」


「はい」


「帰ってもいいかな?」


「おそらく、旦那様が玄関まで追って参ります」


「それは見たくないな」


 ジャンは小さく息を吐き、客間へ向かった。


 部屋には、ベランジェ、オルタンス、クラリッサ、モルガナが揃っていた。


 全員がいる。


 それだけで、ジャンの顔に疲れが増えた。


「伯爵」


「ジャン君。来てくれてありがとう」


「手紙には、大事な相談とありました」


「うむ」


「ラ・ギーズ家における大事な相談は、たいてい小さな災難を丁寧な紙で包んだものですが」


「今日は、少し大きい」


「帰りたい」


 クラリッサが立ち上がりかけた。


「ジャン、失礼ですわ」


「君の家で学んだ危機管理だよ」


 モルガナが茶を置いた。


「ジャン様。今日は、お座りになった方がよろしゅうございます」


「モルガナさんまでそう言うなら、なおさら立っていたいですね」


「立っていても、逃げ道は増えません」


「的確で嫌だな」


 ジャンは諦めて座った。


 クラリッサは向かいにいる。今日は深い緑のドレスだった。髪には細い同色のリボンが結ばれている。白薔薇会の日の菫色より、少し柔らかい。

 だが、彼女自身は落ち着いていなかった。

 扇の端を触り、離し、また触る。その指先に、言葉にならない苛立ちがあった。


 ベランジェは、しばらく茶杯を見つめていた。


 茶は冷めていない。


 だが、彼には飲む余裕がないらしい。


「ジャン君」


「はい」


「君には、昔からラ・ギーズ家の面倒な紙を見てもらってきた」


「ええ」


「契約書、土地の書付、古い帳簿、縁談の返書、そして近頃は……」


「破談の記録ですね」


 ベランジェは目を閉じた。


「そこをはっきり言うか」


「でも、事実ですし」


 クラリッサが不満げに言った。


「破談という言葉が、わたくしばかり悪いように聞こえますわ」


「君ばかり悪いとは言っていない」


 ジャンは彼女を見た。


「ただ、だいたい君が中心にいたのは事実だからね」


「中心人物ということですわね」


「実に前向きな変換だね」


 ベランジェは、弱々しく咳払いをした。


「その、ジャン君」


「はい」


「君は、クラリッサを昔から知っている」


「はい」


「悪いところも」


「まあ……」


「面倒なところも」


「……はい」


「見栄っ張りなところも」


「はい」


「少しは間を置いて答えてくださる?」


 クラリッサが声を上げた。


 ジャンは落ち着いて答えた。


「嘘はなるべくつかないようにしている」


「嘘でも少しは優しさがほしいですわ!」


「君は優しい嘘を嫌うだろう」


 クラリッサは口を開きかけ、閉じた。


 それはそうだった。


 嘘は嫌いだ。


 特に、自分を綺麗な箱に詰めるための嘘は嫌いだった。


 ベランジェは、娘の顔を見た。


 それから、ジャンを見た。


「君は、それでも見捨てなかった」


「古い家の縁がありましたから」


「それだけではないだろう」


 客間の空気が、少しだけ止まった。


 ジャンは答えなかった。


 クラリッサは、その沈黙を見た。


 ジャンがすぐ皮肉を返さない時は、たいてい本当に面倒なところを突かれている時だ。


 ベランジェは、手を膝の上で組んだ。


「白薔薇会の後、クラリッサは悪し様に遠ざけられはしなかった。だが、普通の縁談は、もう難しいと思う」


 言葉は静かだった。


 それでも、クラリッサの胸に刺さった。


 わかっていた。


 薄々は。


 白薔薇会で追い出されなかったことと、嫁に欲しいと言われることは別である。ヴィオレーヌは良い方に噂を盛ると言ってくれた。

 リゼットは胸がすいたと言ってくれた。セラフィーヌは青いリボンを送ってくれた。


 それでも、婚約とはまた別の話だった。


 面白い令嬢。


 筋はある令嬢。


 しかし、家に入れるには面倒な令嬢。


 その評価は、褒め言葉の隣に静かに座っていた。


「お父様」


 クラリッサは言った。


「それは、わたくしに傷がついたという意味ですの?」


 ベランジェは、すぐに答えなかった。


 オルタンスも黙っている。


 モルガナは茶を注がない。


 ジャンは、クラリッサを見ていた。


 その沈黙が、答えだった。


「なるほど」


 クラリッサは扇を閉じた。


「わたくしは、歩く破談状ですものね」


「クラリッサ」


 オルタンスが静かに呼んだ。


 クラリッサは母を見た。


 その目に、涙はなかった。


 ただ、少しだけ怒っていた。


 怒りは、彼女がいつも持っている盾だった。


 けれど、その裏側にはちゃんと傷があった。


「私は」


 ベランジェは、言葉を絞るように続けた。


「父として情けない。縁談のたびに、お前を守るどころか、ジャン君に頼ってばかりいた。白薔薇会でも、結局、お前自身に立たせるしかなかった」


「お父様は、よく青ざめておりましたわ」


「それも情けない」


「……でも」


 クラリッサは少し言葉を探した。


「逃げろとは、おっしゃいませんでした」


 ベランジェは顔を上げた。


「え?」


「白薔薇会には行けとおっしゃいました。お母様も。ジャンも。モルガナも」


「それは」


「逃げたら、わたくしが悪かったことになるからでしょう」


「うむ」


「なら、少しは守ってくださったのでは?」


 ベランジェは、何かを言おうとして、言えなかった。


 その顔が、妙に頼りなかった。


 クラリッサは、少し目を逸らした。


 父を褒めるのは、どうにも照れくさい。


 モルガナが静かに言った。


「旦那様。いまのは、お嬢様にしてはかなりの歩み寄りでございます」


「記憶していいのか?」


 ベランジェが思わず言うと、クラリッサは顔を赤くした。


「お父様まで記憶しないでくださいませ!」


 ジャンが小さく笑った。


 だが、その笑いはすぐに引いた。


 ベランジェは、まっすぐジャンを見た。


「だからこそ、頼みたい」


「伯爵」


 ジャンの声が低くなった。


「その先を聞く前に、ひとつ確認しても?」


「何だね」


「私は、ラ・ギーズ家の古文書係ではありません」


「知っている」


「破談報告書の係でもありません」


「知っている」


「クラリッサの人生整理係でもない」


「……それも、知っている」


 クラリッサが口を挟んだ。


「わたくしの人生は、整理されるほど散らかっておりませんわ」


 モルガナが言った。


「お嬢様のお部屋をご覧になりますか」


「今その話はしておりません!」


 ベランジェは、少しだけ笑った。


 笑って、すぐに表情を戻した。


「ジャン君」


「はい」


「娘をもらってくれないか」


 客間は、完全に静まった。


 時計の針の音が聞こえた。


 遠くで侍女が廊下を歩く音も聞こえた。


 紅茶の湯気だけが、何も知らない顔で上がっている。


 ジャンは、しばらく動かなかった。


 それから、非常にゆっくりと言った。


「伯爵」


「うむ」


「いま、かなり深刻な形式の冗談を聞いた気がします」


「冗談でこの顔はせん」


「では、なお悪い」


 クラリッサは立ち上がった。


「お父様!」


 声が高かった。


「わたくしを処分品のように押しつけるとは何事ですの!」


 モルガナが静かに言った。


「処分品にも、引き取り手があるうちは幸いでございます」


「モルガナ!」


 ジャンも片手を上げた。


「待ってくれ。僕も今、引き取り所扱いされたんだけど」


 クラリッサはジャンを見た。


「あなたは昔から後始末が得意でしょう」


「結婚を後始末に分類しないでほしいね」


 オルタンスが、そこで静かに口を開いた。


「クラリッサ。座りなさい」


「でも、お母様」


「座って怒りなさい」


 クラリッサは一瞬迷い、それから座った。


 椅子は、きちんと彼女の前にあった。


 半歩後ろではない。


 そのことに、彼女は少しだけ気づいた。


 ベランジェは、深く息を吐いた。


「クラリッサを商品として見る家には、もう渡したくない」


 その一言で、客間の空気が変わった。


 クラリッサは父を見た。


 ベランジェは気弱だった。


 すぐ青ざめる。すぐジャンに頼る。すぐ妻に目で助けを求める。手紙を見るたびに老ける。


 けれど今の声は、逃げていなかった。


「ジャン君。君なら、少なくとも、娘を値札で見ない」


 ジャンは黙っていた。


「君は、クラリッサの悪いところを知っている。面倒なところも知っている。だが、それでもこの子の言葉を、ただの癇癪として片づけなかった」


「伯爵」


「頼む」


 ベランジェは、頭を下げた。


「君にしか頼めない」


 ジャンは顔をしかめた。


「その言い方は、卑怯です」


「わかっている」


「わかっていて言うのも、さらに卑怯です」


「それも、わかっている」


 クラリッサは、父の下げた頭を見ていた。


 胸の中で、怒りと、恥ずかしさと、少しだけ温かいものが混じる。


 自分を押しつけられた。


 それは嫌だ。


 けれど、父は自分を売ろうとしているのではない。


 売れなくなったから、安く渡そうとしているのでもない。


 むしろ、もう値札のある場所から引き離そうとしている。


 そのことがわかってしまうと、怒り方が少し難しかった。


 ジャンは、長い沈黙のあとで言った。


「この形では受けられません」


 ベランジェの肩が落ちた。


 クラリッサの胸も、なぜか少し沈んだ。


 自分でもおかしいと思った。


 押しつけるなと怒っていたはずなのに、断られると腹が立つ。


 まったく、自分というものは扱いづらい。


「ただ」


 ジャンは続けた。


「クラリッサ本人が望むなら、話は別ですけどね」


 クラリッサは顔を上げた。


 ジャンは彼女ではなく、ベランジェを見ていた。


「彼女をまた家の都合で動かすなら、これまでの騒ぎは何だったのです」


 客間が静かになった。


 オルタンスが、わずかに目を伏せた。


 モルガナは茶杯を持つ手を止めた。


 ベランジェは、まだ頭を下げたままだった。


 ジャンは、ようやくクラリッサを見た。


「クラリッサ」


「何ですの」


「君はどうしたい」


 短い問いだった。


 短すぎて、逃げ場がなかった。


 クラリッサはすぐには答えられなかった。


 どうしたくないかなら、いくらでも言える。


 削られた名前は嫌だ。

 半歩後ろの椅子は嫌だ。

 名前のない詩は嫌だ。

 白すぎる手袋は嫌だ。

 青を奪われるのも嫌だ。

 金額が大きい名札も嫌だ。


 だが、どうしたいのか。


 それは、あまり聞かれたことがなかった。


 彼女はジャンを見た。


 彼は、いつものように疲れた顔をしている。皮肉を言いたそうで、逃げたそうで、それでも逃げない顔。


 ジャンは、クラリッサを綺麗な言葉で飾らない。


 彼女を薔薇とも星とも湖とも呼ばない。


 見栄を張れば突く。

 騒げばため息をつく。

 間違えれば、静かに直す。

 褒め言葉は少ない。

 少なすぎる。

 だが、名前は間違えない。


 彼は彼女を、高くも安くも見ない。


 面倒な人間として見る。


 名前のある、面倒な人間として。


「ジャン」


「うん」


「あなたは、わたくしと結婚したいのですか?」


 ベランジェが息を呑んだ。


 オルタンスは動かなかった。


 モルガナは、ほんの少しだけ目を細めた。


 ジャンは瞬きをした。


「直球だね」


「大事なことですわ」


「そうだね」


 彼は少し考えた。


「正直に言えば、君と結婚すれば、かなりの確率で平穏な人生はかなり遠ざかる」


「失礼ですわ」


「でも、今さら平穏というものが近くにあった気もしない」


「もっと失礼ですわ」


「君は面倒だ」


「ジャン=バティスト!」


 クラリッサが正式名で呼んだ。


 怒った時の呼び方だった。


 ジャンは怯まなかった。


「見栄っ張りで、すぐ騒ぎ、都合の悪いことは忘れ、褒め言葉だけは記憶する」


「そこまで言います?」


「言うさ。僕にはその権利があると思っている」


 ジャンは静かだった。


「君を美化して結婚するなら、それこそ君が嫌ってきたことと同じになる。僕は、君を都合のよい令嬢として見るつもりはない」


 クラリッサは言葉を失った。


「でも、君は卑怯ではない。自分が粗末にされるのが嫌で騒いでいるうちに、他の人が粗末にされることまで嫌がるようになった。そこは、悪くない」


「悪くない」


 クラリッサは繰り返した。


「褒めていますの?」


「僕にしては、かなり努力しているけどね」


 胸の奥が、少し変なふうに熱くなった。


 腹立たしい。


 もう少し甘い言葉を言えないのか、とも思う。


 だが、もしジャンが急に甘い詩を読み出したら、クラリッサはたぶん逃げる。


 このくらいが、彼らしい。


 このくらいだから、信じられる。


「わたくし」


 クラリッサは、ゆっくり言った。


「もっと輝かしい縁談が似合うはずでしたわ」


「そうだね」


「そこは否定しないの?」


「君は華やかなものが好きだから」


「ええ。好きです」


「でも、華やかなものと、君を粗末にしないものは、必ずしも同じじゃない」


 クラリッサは黙った。


 華やかなものは、いくつもあった。


 けれど、どれも合わなかった。


「ジャン」


「何だい」


「あなたは地味ですわね」


「今その話?」


「大事です」


「まあ、君よりは地味だろうね」


「でも」


 クラリッサは、少しだけ息を吸った。


「破棄する理由がありませんわ」


 ジャンは眉を上げた。


「それが承諾なら、王国の婚約史上かなり不明瞭だ」


「わかっています」


 クラリッサは立ち上がった。


 今度は怒るためではなかった。


 自分の足で立つためだった。


「では、はっきり申し上げます」


 客間にいる全員が、彼女を見た。


 父も、母も、モルガナも、ジャンも。


「わたくしは、ジャン=バティスト・ド・シャトノワとの婚約を破棄いたしません」


 沈黙が落ちた。


 次に、ベランジェが泣いた。


 本当に泣いた。


「よかった……」


 それは、娘の婚約が決まった感動というより、長い戦役が終わった兵士の涙に近かった。


 オルタンスは扇を閉じた。


 折らなかった。


 モルガナは静かに茶を注ぎ直した。


「ようやく、破棄しないことで騒ぎを起こされましたね」


「騒ぎではありません。これは決断ですわ」


 ジャンは深く息を吐いた。


「平穏は遠いな」


 クラリッサは胸を張った。


「でも、退屈ではありませんでしょう?」


 ジャンは、少しだけ笑った。


「そこは否定しない」


「記憶しますわ」


「今のは褒めていない」


「わたくしには、そう聞こえました」


 ベランジェは涙を拭きながら言った。


「ジャン君、本当に、よいのか」


「まだ婚約の条件確認も、両家の了承も、書類もあります」


「そうか」


「ですが」


 ジャンは、クラリッサを見た。


「本人が破棄しないと言ったので、僕も逃げづらくなりました」


「逃げるおつもりでしたの?」


「少し」


「ジャン!」


「でも、逃げない」


 クラリッサは、そこで言葉を止めた。


 逃げない。


 それだけの言葉が、妙に胸に残った。


 モルガナが茶杯をクラリッサの前に置いた。


「お嬢様」


「何?」


「今日は、なかなかよろしい決断でございました」


「褒めていますの?」


「はい」


「記憶します」


「どうぞ。本日は記憶するに値いたします」


 オルタンスが静かに言った。


「クラリッサ」


「はい、お母様」


「契約書は、よく読みなさい」


「もちろんですわ」


 クラリッサは胸を張った。


「愛などという曖昧なものだけで嫁ぐほど、わたくしは安くありませんもの」


 ジャンが小さく笑った。


「かなり君らしい」


「褒めていますの?」


「今回は、半分より少し多めに」


「記憶します」


「だと思った」


 窓の外では、夕方の光が庭の芝を薄く照らしていた。


 ラ・ギーズ家の古い客間には、先祖たちの肖像画が並んでいる。その絵の中の誰も、この婚約をどう思うかはわからない。


 家格だけで見れば、華々しい縁談ではなかった。


 白薔薇会の夫人たちが、どう噂を整えるかもわからない。


 ヴィオレーヌなら、きっと面白がって何か言うだろう。リゼットは静かに笑うかもしれない。

 セラフィーヌは、青いリボンの手紙をもう一度送ってくれるかもしれない。


 それでも、クラリッサは不思議と安くなった気がしなかった。


 高く売れた気もしない。


 そもそも、値段の話ではなかった。


 ようやく、そこへ辿り着いた気がした。


 その日、クラリッサ・ド・ラ・ギーズは初めて、婚約を破棄しないことを選んだ。


 家のためだけでも、父のためだけでも、社交界のためだけでもない。


 彼女が、自分の名で選んだ最初の婚約だった。

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