第三十五話 最終手段
白薔薇の間を出ると、クラリッサは廊下で少しだけ息を吐いた。
気づかないうちに、ずいぶん肩に力が入っていたらしい。外の廊下は同じベルシュラック邸の中なのに、白薔薇の間よりも空気が軽かった。
「終わりましたの?」
クラリッサが言うと、ジャンは答えた。
「今日の分は」
「なぜ、そういう言い方をするの」
「噂はこれからだから」
「少しは夢を見せてくださる?」
「夢を見るには、場所がベルシュラック邸すぎる」
モルガナが後ろから言った。
「お嬢様。よくお立ちでございました」
クラリッサは振り返った。
「褒めていますの?」
「はい」
「記憶します」
「どうぞ」
その時、廊下の先にリゼット・ド・フレルモンが立っていた。
彼女は少し迷ったように近づいてきた。
「ラ・ギーズ様」
「何ですの?」
「先ほどは……その」
リゼットは言葉を探していた。
「あなたの言葉を聞いて、少し胸がすきました」
クラリッサは困った。
褒められるのは好きだ。
とても好きだ。
けれど、こういう褒められ方には慣れていない。
「当然ですわ」
結局、そう返した。
ジャンが小さく言った。
「それで返すのか」
リゼットは少し笑った。
「ええ。当然ですわね」
その後ろから、ヴィオレーヌ・ド・クルセルが現れた。
「今日のこと、すぐ噂になりますわよ」
「やはり?」
クラリッサが聞くと、ヴィオレーヌは扇を開いた。
「白薔薇の間で吠えた令嬢。名札を外したラ・ギーズ。歩く破談状、夫人たちに噛みつく。どれがよろしい?」
「どれも嫌ですわ!」
「では、少し美しくしておきます」
ヴィオレーヌは、楽しそうに目を細めた。
「粗末に扱われるのを拒んだ令嬢、くらいに」
クラリッサは、少しだけ黙った。
「……それなら、まあ」
ジャンが言った。
「かなり良い方に盛っているね」
「噂は、どうせ盛られるものですもの。たまには良い方に盛ってもよろしいでしょう」
モルガナが静かに言った。
「珍しく有益な噂好きでございますね」
「恐れ入ります、モルガナ様」
その時、廊下の向こうから小柄な侍女が急ぎ足でやって来た。
王女付きの侍女だった。
彼女はクラリッサの前で一礼し、小さな包みを差し出した。
「セラフィーヌ殿下より、ラ・ギーズ様へ」
クラリッサは包みを受け取った。
中には、青いリボンが入っていた。
以前、彼女が王女に結んだものと同じ色。
添えられた紙には、短く書かれていた。
――今日は、青のままでいます。
クラリッサは、その紙をじっと見つめた。
そして、珍しく何も言わなかった。
ジャンが横から覗き込んだ。
「よかったね」
クラリッサは、小さく頷いた。
「ええ」
モルガナが、ほんの少しだけ目を細めた。
「お嬢様。今のお返事は、たいへんよろしゅうございました」
「短かったから?」
「はい」
「褒めるところ、そこ?」
「今日は、いくらか多めに褒めております」
クラリッサは青いリボンを手の中でそっと包んだ。
自分のために怒ってきたはずだった。
自分が嫌だったから、騒いできたはずだった。
けれど今、誰かが青いままでいられるなら。
自分の騒ぎも、少しくらいは役に立ったのかもしれない。
そう思うのは、少し癪だった。
でも、悪くはなかった。
その日の夕方、ラ・ギーズ家に戻ると、屋敷の空気は久しぶりに少しだけ軽かった。
ベランジェは玄関広間で待っていた。扉が開くなり、クラリッサの顔を見る。次にジャンを見る。最後にモルガナを見る。
「終わったのか」
ジャンが答えた。
「今日の分は」
ベランジェは頭を抱えた。
「ジャン君、そこはもう少し柔らかく」
「白薔薇会で、悪し様に言い立てる必要はない、という形になりました」
「それは、良いのか」
「かなり良い方です」
ベランジェは、ようやく長椅子に座り込んだ。
「よかった……」
クラリッサは、少しむっとした。
「お父様。わたくし、そこまで危険でした?」
全員が黙った。
沈黙は、たいへん正直だった。
「誰か否定なさい!」
モルガナが静かに言った。
「お嬢様。白薔薇会での成長を、ここで無駄にするのはおやめくださいませ」
「成長はしましたのね?」
「少し」
「記憶します」
「どうぞ」
オルタンスが階段から降りてきた。
「クラリッサ」
「はい」
「よく言いました」
クラリッサは目を丸くした。
「お母様」
「ただし、菓子のくだりは不要でした」
「そこですの?」
「そこです」
ジャンが小さく笑った。
「奥様のご指摘は正確です」
「ジャンまで」
客間に移ると、ジャンはその日の記録を整えた。
クラリッサは、青いリボンを机の上に置いて眺めていた。
「ジャン」
「何だい」
「今日の記録には、美しく書いてくださる?」
「内容による」
「わたくし、自分が粗末に扱われるのを嫌がっただけですわ」
「それは書ける」
「では、そう書いて」
ジャンはペンを持ち、少し考えた。
「ラ・ギーズ嬢は、自身および他の令嬢が、個人としての名を軽んじられることに異議を示した」
クラリッサは黙った。
珍しく、すぐに「つまらない」とは言わなかった。
「……悪くありませんわ」
「そうか」
「でも、少し硬いです」
「書類だからね」
「欄外に」
「書かない」
「まだ何も言っておりません」
「どうせ、自分が粗末に扱われるのを嫌がって何が悪い、だろう」
クラリッサは目を細めた。
「本当に、わたくしを読みすぎですわ」
「幼なじみだからね」
ジャンは小さく笑った。
その笑いは静かだった。
テオバルドのように飾らず、ジスランのように隠さず、ただそこにある笑いだった。
クラリッサは、ふいに少し落ち着かなくなった。
「ジャン」
「まだ何か?」
「今日、わたくしは立派でした?」
ジャンはすぐには答えなかった。
そして、わざとらしくない声で言った。
「立派だった部分はある」
「部分」
「全部と言うと、嘘になる」
「そこを少し盛ってくださってもよろしいのに」
「君は盛ると危ない」
モルガナが茶を置いた。
「ジャン様のお言葉が適量でございます」
「適量」
クラリッサは不満げにした。
「わたくし、もう少し多くても平気ですわ」
「お嬢様」
「何?」
「適量を守れない方は、たいてい翌朝に後悔なさいます」
「菓子の話?」
「人生全般でございます」
その時、廊下からベランジェの足音がした。
今日は、いつものような慌ただしい足音ではなかった。
少し迷いながら、少し重く、けれど何かを決めている足音だった。
ベランジェは客間に入ると、ジャンを見た。
「ジャン君」
「はい、伯爵」
「今日は、助かった」
「私はこれまでのことを出しただけです」
「それが助かったのだ」
ベランジェは、しばらく言葉を探していた。
それから、疲れた笑みを浮かべた。
「君には、昔からラ・ギーズ家の面倒な紙を見てもらってきた」
「ええ。紙だけなら、まだ楽でした」
クラリッサが眉を寄せた。
「どういう意味ですの?」
ジャンは答えなかった。
ベランジェは、娘を見た。
それから、ジャンを見た。
その目に、何か不穏なものが宿っていた。
ジャンはすぐに気づいた。
「伯爵」
「何だね」
「その目は、非常に嫌な予感がします」
ベランジェは咳払いをした。
「いや、今日は疲れている。話はまた後日にしよう」
ジャンは、さらに嫌な顔をした。
「後日に回る嫌な話ほど、育つものです」
クラリッサは首を傾げた。
「何の話ですの?」
モルガナは、静かに茶を注いだ。
「お嬢様には、まだ少し早い話かもしれません」
「わたくしの話でしょう?」
「おそらく」
「なら聞く権利がありますわ」
ベランジェは慌てた。
「いや、今日はよい。今日はもう、何も壊れていない夜を過ごしたい」
ジャンは小さく呟いた。
「それはたしかに貴重だ」
クラリッサは不満そうだったが、深く追及しなかった。
青いリボンを手に取り、指先で撫でた。
この日、彼女は白薔薇会で見捨てられなかった。
けれど、社交界の噂は確実に広がる。
婚約破棄令嬢。
縁談壊し。
歩く破談状。
名札を外したラ・ギーズ。
呼び名はいくらでも増えるだろう。
そして、その呼び名が増えるほど、彼女を嫁に取りたいという家は減っていく。
ベランジェが後日に回した話は、すでに客間の空気の中で、静かに形を取り始めていた。
クラリッサはまだ知らなかった。
父が、ついに最後の手段へ手を伸ばしかけていることを。
そして、その最後の手段が、いま目の前で書類を片づけている幼なじみであることを。




