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第三十四話 面倒な娘

 ベルシュラック侯爵邸は、王都の西の高台にあった。


 門から屋敷までの道は白い砂利で敷かれ、両側には冬枯れの低木が整えられている。季節にはまだ少し早いはずなのに、温室から運ばれたのか、玄関には白薔薇が飾られていた。


 その白が、妙に静かだった。


 白すぎる手袋の白ではない。

 けれど、どこか似ている。


 クラリッサは馬車を降り、薔薇を見上げた。


「本当に白薔薇ですわね」


 ジャンが後ろから言った。


「名前に偽りはないらしい」


「白いものに、あまり良い思い出がありませんの」


「手袋、名札、招待状」


「言わないでくださる?」


「君が言いそうだったから、先に言っただけだよ」


 モルガナが外套の裾を直した。


「お嬢様。薔薇に罪はございません」


「そうですわね」


 クラリッサは少し考えた。


「罪があるのは、それを飾る人間ですわ」


「今日は、その調子を少しだけ柔らかく」


「かなり柔らかいです」


「お嬢様の中では」


 玄関で出迎えた侍女は、年配で、動きに無駄がなかった。


「ラ・ギーズ伯爵令嬢。シャトノワ殿。モルガナ殿。白薔薇の間へご案内いたします」


 廊下は静かだった。


 床には厚い絨毯が敷かれ、壁には古い風景画がかかっている。

 どの部屋からも声は聞こえない。

 屋敷そのものが、客の足音を少しずつ吸い込んでいるようだった。


 白薔薇の間は、屋敷の奥にあった。


 扉が開くと、柔らかな光が流れ出た。


 壁紙は淡い象牙色。窓辺には白薔薇が活けられている。

 卓には紅茶、焼き菓子、薄く切られた果物、砂糖壺。

 椅子には柔らかな布が張られ、どれも座り心地がよさそうだった。


 何もかも優しい。


 だから、かえって嫌だった。


 部屋にはすでに何人もの夫人たちがいた。

 年配の侯爵夫人、伯爵夫人、王宮に出入りする未亡人。ヘルミーナ・ド・クラールもいる。

 リゼット・ド・フレルモンとヴィオレーヌ・ド・クルセルは、少し離れた席に座っていた。


 そして中央に、マルゼリーヌ・ド・ベルシュラックがいた。


 灰銀色の髪を結い上げ、黒に近い墨色のドレスを着ている。

 宝石は少ない。

 だが、その少なさがかえって強かった。

 飾りで自分を大きく見せる必要のない人の装いだった。


 クラリッサは礼をした。


「お招きいただき、ありがとうございます」


 マルゼリーヌは微笑んだ。


「お越しいただき、ありがとうございます。ラ・ギーズ嬢」


 言葉は穏やかだった。


 だが、招いたとは言わなかった。


 クラリッサはそれを聞き逃さなかった。


「こちらへどうぞ」


 示された椅子を見て、クラリッサは止まった。


 夫人たちの椅子は、ゆるやかに半円を描いている。

 クラリッサの椅子だけが、その半円の前に少し出ていた。

 卓もある。茶も置かれている。

 だが、どう見てもそこは客の席というより、見られるための席だった。


「これは」


 クラリッサは言った。


 ジャンが小声で言った。


「椅子の話に戻らない」


「戻ってきたのは椅子の方ですわ」


 モルガナが後ろで静かに言った。


「お嬢様。椅子には足がございません」


「椅子には足はありますわ!」


「これは、一本取られてしまいました」


 ジャンは咳払いをした。


「では、誰かが置いたのです」


 マルゼリーヌは、少しだけ口元を動かした。


「お話を伺いやすいように」


「見世物の配置ですわ!」


 部屋の空気が、わずかに張った。


 ベランジェがいれば、たぶんこの時点で椅子に沈んでいた。


 ジャンは小さくため息をついた。


「クラリッサ」


「何ですの」


「座る前から席を立たないでくれ」


「座りますわ」


 クラリッサは、示された椅子に腰を下ろした。


 座面は柔らかかった。


 そこがまた気に入らなかった。


 この椅子は柔らかい。

 けれど、置き方は同じくらい失礼だった。


 モルガナはクラリッサの斜め後ろに立った。

 ジャンは少し離れた脇の席に座る。

 彼の前には小さな卓が置かれ、紙を広げられるようになっていた。

 完全に客ではない。だが追い出されてもいない。

 白薔薇会なりの譲歩らしい。


 マルゼリーヌは茶杯を手に取った。


「ラ・ギーズ嬢。まず、誤解のないように申し上げます。白薔薇会は裁判ではありません」


 クラリッサは、すぐに言った。


「では、なぜわたくしは審問を受けるように皆さまの前に座らされておりますの」


「あなたのお話を伺うためです」


「お話を伺うだけなら、椅子は並べてもよろしいのでは?」


 ジャンが小声で言った。


「まだ椅子だ」


 モルガナも低く言った。


「お嬢様は椅子に対して記憶力がよろしゅうございます」


 マルゼリーヌはクラリッサを見つめた。


 視線は鋭くない。


 けれど、逃げる隙が少なかった。


「では、言い方を変えましょう。私たちは、あなたをこの先も王都の社交に招くべき令嬢かどうか、見極めたいのです」


 クラリッサは顎を上げた。


「やはり裁判ではありませんの!」


「裁判なら、罪が必要です。ここでは、信用だけで足ります」


 部屋が静かになった。


 紅茶の香りが、妙に濃く感じられた。


「信用」


 クラリッサは繰り返した。


「わたくしは、信用を失いましたの?」


「失いかけている、と申し上げた方が正確でしょう」


 ジャンはまだ失っていないことに驚いた。

 その顔を見たクラリッサは鋭い眼光でジャンを刺した。


 マルゼリーヌは茶杯を置いた。


「あなたは、短い間に多くの縁談を壊しました。婚約披露を中止し、昼餐を抜け、サロンで詩人を追及し、慈善茶会で相手を咎め、王女殿下の茶会に口を出し、クラール夫人の縁談会では名札を外させた」


 クラリッサは黙った。


 並べられると、やはり多い。


 だが、そこに嘘はなかった。


「では、わたくしからも申し上げます」


 クラリッサは言った。


「わたくし、なぜ裁かれるのか、まだ納得しておりませんわ」


 夫人たちの間に、小さなざわめきが起きた。


 マルゼリーヌは眉ひとつ動かさなかった。


「納得していない?」


「はい。わたくしは盗みも殺しもしておりません。誰かの家から銀器を持ち帰ったわけでも、馬車を壊したわけでもありません。失礼なものを失礼だと言っただけです」


「その結果、家と家の話がいくつも壊れています」


「壊れやすい話だったのですわ」


 ジャンが片手で額を押さえた。


「もっと言い方があるだろうに」


「内容は合っています」


「だいぶ君らしい」


 マルゼリーヌは、少しだけ目を細めた。


「では、一つずつ伺いましょう」


 最初は、ヴォルブリュック家の指輪だった。


「婚約披露の場で、あなたは指輪を受け取らず、場を乱した。理由は、指輪が小さかったからだと聞いています」


「違います」


 クラリッサはすぐに答えた。


「指輪が小さかったのは、腹立たしいことではありました。けれど、それだけで壊したわけではありません」


「では、何が問題でしたか」


「内側に、前の令嬢の名を削った跡がありました」


 ジャンが、静かに紙を一枚差し出した。


「職人への照会控えです。以前、別の婚約用に用意された品であることは確認されています」


 紙はマルゼリーヌのもとへ渡された。


 彼女は目を通し、ヘルミーナ・ド・クラールへも見せた。ヘルミーナは黙って読んだ。


 マルゼリーヌは言った。


「古い家では、宝飾品を受け継ぐことがあります」


「存じています」


 クラリッサは答えた。


「家の宝飾を使うことが嫌だったのではありません。それなら、それとして話せばよかったのです。けれど、前の方の名を削って、初めからわたくしのために用意されたような顔で差し出されました」


 彼女は自分の左手を見た。


 何もはめられていない指。


「わたくしの名前も、同じように削れると思われている気がしました」


 その言葉のあと、白薔薇の間に短い沈黙が落ちた。


 次は、クルシュナ家の椅子だった。


「昼餐前に帰った件ですね」


 マルゼリーヌが言う。


「クルシュナ家には、妻となる者が夫より半歩控えて座る古い慣習があると聞いています」


「はい」


「古い家には、古い形があります」


「形なら、変えられます」


 クラリッサは言った。


「少なくとも、座る前なら」


 夫人の一人が扇の陰で少し笑った。


 マルゼリーヌは微笑まなかった。


「なぜ座らなかったのです」


「座れば、それがわたくしの場所になります。昨日は座ったのに、今日は嫌なのかと言われます。慣れれば楽だと言われます。皆そうしていると言われます」


 クラリッサは、ゆっくり言葉を選んだ。


「だから、座る前に立ちました」


 ジャンは何も言わなかった。


 モルガナも黙っていた。


 クラリッサは、二人が黙っていることを少し心強く思った。


 次に、リュザンクール家の詩。


 これは、クラリッサにとって少し言いやすかった。


「愛の詩には名前を書くべきですわ」


 彼女は言った。


 ジャンが即座に低く言った。


「短く」


「短いです」


「君の短いは、前置きがある」


 マルゼリーヌは、リゼット・ド・フレルモンへ視線を向けた。


 リゼットは立ち上がり、緊張した様子で礼をした。


「私も、同じ詩を受け取りました。『あなただけのために』と添えられて」


 続いて、ヴィオレーヌ・ド・クルセルが扇を閉じた。


「わたくしもですわ。『この世で一番静かな魂へ』と。わたくしを静かと呼ぶところからして、もっと疑うべきでした」


 今度は少し笑いが起きた。


 マルゼリーヌも、それをすぐには止めなかった。


 クラリッサは言った。


「美しい言葉が嫌だったのではありません。誰にでも贈れる言葉を、わたくしだけのもののように差し出されたのが嫌でした。名前も呼べない愛なら、誰宛てでもよいのでしょう。なら、わたくしでなくてもよいのです」


 ヴィオレーヌが、少しだけ目を細めた。


 リゼットは静かに座り直した。


 次は、ヴラニェク家の慈善茶会。


 ここで、空気は少し変わった。


「ミロシュ・ド・ヴラニェク殿は、孤児院や給食所への支援を続けています」


 マルゼリーヌは言った。


「その善行は、事実です」


「はい」


 クラリッサは頷いた。


「その点を否定するつもりはありません」


「では、なぜ?」


 クラリッサは少しだけ手袋の指先を見た。


 白い手袋。


 取り替えられた手袋。


 子供の手を包んだすぐ後に、盆へ置かれた手袋。


「子供の手を取ったあと、ミロシュ様はすぐに手袋を替えました」


「身だしなみとも言えます」


「ええ」


 クラリッサは、そこを否定しなかった。


「でも、わたくしには、その身だしなみが嫌でした。助ける相手を、同じ人間として見ていないように見えたのです」


「あなたは、貧しさを知らない」


 夫人の一人が言った。


 その声は責めるというより、確かめるようだった。


「はい」


 クラリッサは答えた。


「知りません。だから、貧しい方々へ何をすべきか、偉そうに言うつもりはありません。ただ、知らない相手に触れたあと、すぐ手袋を替える自分を、立派だとは思えませんでした」


 その言葉は、大きくはなかった。


 けれど、白薔薇の間の白い壁に、静かに届いた。


 次は、セラフィーヌ王女の青いリボンだった。


「これは、あなた自身の縁談ではありませんね」


 マルゼリーヌは言った。


「はい」


「なぜ介入したのです」


 クラリッサは、すぐには答えられなかった。


 青。


 箱の中にあったリボン。


 ジスラン・ド・モーヴリニーの、穏やかで動かない声。


 王家には赤がふさわしい。


 そう言われて、セラフィーヌが箱を閉じかけた瞬間。


 あの時、クラリッサは怒った。


 だが、あれは自分のための怒りではなかった。


「殿下が、青をお好きだったからです」


 クラリッサは言った。


 理由は小さかった。


 それでも、彼女は続けた。


「青いリボンだけではありません。花も、本も、茶会の客も、言葉も、少しずつ殿下の手から取られているように見えました。大きな命令ではありません。でも、小さい選択を一つずつ奪われるのは、息が詰まることだと思いました」


 ジャンが、短い手紙を差し出した。


「王女殿下から、ラ・ギーズ嬢へ届いたものです」


 マルゼリーヌは受け取り、読んだ。


 紙は小さかった。


 文字も少ない。


 だが、そこに書かれた一文は、この部屋では妙に重かった。


 ――青は、やはり好きです。


 マルゼリーヌは何も言わず、手紙を返した。


 その沈黙が、少しだけ柔らかくなった気がした。


 最後に、ヘルミーナ・ド・クラールの縁談会だった。


 ヘルミーナは、静かに茶杯を置いた。


「ラ・ギーズ嬢。私は、社交界の本音を見やすくしただけです」


 彼女は穏やかに言った。


「家格、持参金、相続、評判。皆さまが陰でなさっていることを、表に出したにすぎません」


「ええ」


 クラリッサは頷いた。


「だから、嫌でした」


 ヘルミーナの微笑みが、ほんの少し薄くなった。


「陰でしていることを表に出されたから?」


「いいえ」


 クラリッサは首を横に振った。


「表に出されて初めて、どれほど嫌なことをしていたのかわかったからです」


 白薔薇の間が、静かになった。


 ヘルミーナは、すぐには答えなかった。


 夫人たちも、扇を動かさない。


 紅茶の香りだけが、まだそこにあった。


 マルゼリーヌは、クラリッサを見つめた。


「ラ・ギーズ嬢」


「はい」


「あなたは、正義のために婚約を破棄してきたのですか」


 その問いは、柔らかかった。


 柔らかいからこそ、逃げ場がなかった。


 クラリッサは、少しだけ背筋を伸ばした。


「いいえ」


 はっきり答えた。


「わたくしは、正義のために婚約を破棄したのではありません」


 誰も動かなかった。


 ベランジェはいない。

 母もいない。

 この場で彼女の代わりに言ってくれる人はいない。


 ジャンは横にいる。

 モルガナも背後にいる。


 けれど、今の言葉だけは、クラリッサ自身が言わなければならなかった。


「わたくしは、わたくしが粗末に扱われるのが嫌だっただけです」


 言ってしまうと、思ったより簡単だった。


 それは、美しい理由ではない。


 けれど、嘘ではなかった。


「前の令嬢の名を削った指輪をはめられるのが嫌でした。半歩後ろの椅子に座るのが嫌でした。名前のない詩を、わたくしだけのもののように贈られるのが嫌でした。助ける相手を汚れのように扱う手を、立派だと褒めるのが嫌でした。王女殿下が好きな色を好きだと言えなくなるのが嫌でした。名前より金額が大きい名札を胸に貼るのが嫌でした」


 クラリッサは、手袋をした手を膝の上で重ねた。


 指先は少し冷えていた。


「わたくしは立派な令嬢ではありません。損もしたくありません。安く扱われるのも嫌です。得があるなら嬉しいし、菓子は多い方がよろしいです」


 ジャンが目を閉じた。


 モルガナは微動だにしなかった。


「でも」


 クラリッサは言った。


「自分が粗末に扱われるのを嫌がることまで罪なら、令嬢は最初から人間ではありませんわ」


 白薔薇の間は、しんとしていた。


 静けさが、薔薇の花びらの上に降りたようだった。


 誰もすぐには笑わなかった。

 誰もすぐには怒らなかった。

 ただ、聞いてしまった顔をしていた。


 マルゼリーヌは、長い間、クラリッサを見ていた。


 やがて、茶杯を置いた。


「あなたは、たいへん面倒な方ですね」


 クラリッサは目を瞬いた。


「それは褒め言葉ではありませんわね」


「違います」


「でしょうね」


 マルゼリーヌは続けた。


「礼儀を欠く。言葉が荒い。場を乱す。自分の感情を、必要以上に大きく見せる癖がある」


 クラリッサは少しだけ肩を落とした。


 当たっている。


 かなり当たっている。


「ですが」


 マルゼリーヌの声は変わらなかった。


「礼儀正しく人を値踏みする方々よりは、まだ信用できます」


 ヘルミーナの指が、扇の縁をわずかに押した。


 リゼットは顔を伏せた。


 ヴィオレーヌは、扇の陰で小さく息を呑んだ。


 ジャンは、何も言わずに紙を閉じた。


 モルガナは、背後に立ったまま、少しだけ目を細めた。


 クラリッサには、それが見えた気がした。


「本日のことは、ここまでにいたしましょう」


 マルゼリーヌは言った。


「ラ・ギーズ嬢について、これ以上悪し様に言い立てる必要はありません」


 クラリッサは顔を上げた。


「では」


「ただし」


 マルゼリーヌは静かに続けた。


「あなたの言葉は、もう少し磨きなさい。刃物は、切れ味だけではなく、鞘も必要です」


 クラリッサは少し考えた。


「わたくし、鞘つきになりますわ」


 ジャンが小さく言った。


「まず刃物だと認めたね」


 モルガナが頷いた。


「大きな進歩でございます」


「二人とも、そこを拾わないでくださいませ」


 マルゼリーヌは、初めて少しだけ笑った。


 白薔薇の間に、ようやく紅茶の香りが戻ってきた。

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