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第三十三話 婚約破棄令嬢、裁かれる

 白薔薇会の日、クラリッサ・ド・ラ・ギーズは朝から不機嫌だった。


 不機嫌といっても、いつものように派手な怒りではない。

 鏡の前に立ち、髪を結わせ、ドレスの袖を通しながら、じっと黙っている。

 黙っているクラリッサほど、周囲に気を遣わせるものもなかった。


 モルガナは、背後で髪を整えながら言った。


「お嬢様」


「何ですの」


「今日は、よくお黙りでございますね」


「考えておりますの」


「それは失礼いたしました」


「なぜそこで失礼になるのです」


「珍しいことに出会うと、人は多少、礼を欠きます」


「モルガナ」


「失礼いたしました。半分ほど」


「半分だけ?」


 クラリッサは鏡の中の自分を見た。


 今日のドレスは、深い菫色だった。

 明るすぎず、暗すぎず、白薔薇の間とやらで浮きすぎない色を、オルタンスが選んだ。

 クラリッサ自身はもう少し華やかな布を望んだが、母は一言で退けた。


 今日は飾り立てる日ではありません。


 そう言われると、反論しにくかった。


 だが、反論しにくいことと、納得することは別である。


「白薔薇会というのは、本当にお茶会なのですか」


 クラリッサは言った。


「名は茶会でございます」


「中身は?」


「お嬢様がお嫌いになりそうなものが、いくらか」


「いくらか?」


「多めに」


 クラリッサは扇を手に取った。


 今日の扇は薄い象牙色で、骨に細かい銀の模様が入っている。母が貸したものだった。折るな、という意味もたぶん含まれている。


「わたくし、なぜあのような場に呼ばれなくてはならないのか、まだ納得しておりませんわ」


「納得しておられない顔で行かれるのも、一つの手でございます」


「よろしいの?」


「旦那様の胃を破壊したいのなら」


「むずかしいですわ……」


 モルガナは、クラリッサの髪に小さな銀の飾りを挿した。


 青ではない。


 白でもない。


 菫色のドレスに合わせて、少しだけ沈んだ銀だった。


「青いリボンではないのね」


「今日は、殿下の色をお借りする日ではございません」


「そう」


 クラリッサは、少しだけ目を伏せた。


 セラフィーヌ・ド・ヴォークラン王女のことを思い出した。

 青いリボンを結んだ細い髪。

 好きです、と小さく言った声。

 あの声は、まだクラリッサの中に残っている。


 自分の声は大きい。

 王女の声は小さい。

 けれど、どちらも消されていいものではない。


 それだけは、わかった。


「モルガナ」


「はい」


「わたくし、今日は勝てるかしら」


 モルガナは櫛を置いた。


「勝とうとなさらない方がよろしいかと」


「またそれ?」


「はい。お嬢様が勝とうとなさる時は、たいてい菓子皿まで巻き込まれます」


「わたくしは菓子皿を敵にしたことはありません」


「敵にせずとも、被害は出ます」


 クラリッサは扇を開きかけ、やめた。


「では、何をすればよろしいの」


「立っておいでください」


「座らされるのでは?」


「椅子に座っても、心まで座らなければよろしゅうございます」


 クラリッサは鏡の中で、モルガナを見た。


 老メイドの顔はいつも通りだった。温かくはない。甘くもない。だが、どこかでずっと見ている顔だった。


「あなた、ときどき良いことを言いますわね」


「年を取りますと、たまには」


「記憶します」


「本日は、記憶なさる余裕があるとよろしゅうございます」


 玄関広間では、ベランジェが落ち着かない様子で歩き回っていた。


 歩き回ると言っても、広間の端から端までではない。

 暖炉の前を三歩、戻って二歩、また三歩。

 そういう狭い不安だった。


 オルタンスは椅子に腰かけ、手紙の写しをもう一度読んでいる。

 表情は静かだったが、静かすぎた。


 ジャン=バティスト・ド・シャトノワは、すでに来ていた。


 濃紺の上着に、控えめな銀の留め具。王宮勤めの文官らしく整っているが、華やかではない、いつもの服装である。

 鞄には、例によって紙が入っている。

 クラリッサはそれを見るだけで、少し安心してしまう自分に気づき、腹が立った。


「ジャン」


「おはよう、クラリッサ」


「今日は、あなたも来るのね」


「また伯爵に頼まれた……」


「白薔薇会は夫人たちの会なのでしょう? 男性がいてよろしいの?」


「僕は出席者というより、書類の添え木だね」


「人間を添え木扱いしないでくださる?」


「君に言われると複雑だなあ」


 ベランジェが、ジャンの手を取った。


「ジャン君、今日も、今日も頼むっ!!」


「伯爵。今日は、私が話す場ではありませんよ」


「そこを何とか」


「無理です。白薔薇会で若い文官なんぞが出しゃばれば、それこそ別の騒ぎになります」


 ベランジェは目に見えてしぼんだ。


 オルタンスが静かに言った。


「あなた。今日はクラリッサ自身が話す日です」


「わかっている。わかってはいるのだが」


 クラリッサは父を見た。


「お父様。そんなにご心配なら、わたくし、いっそ行かない方が」


「行きなさい」


 ベランジェとオルタンスが同時に言った。


 クラリッサは少しむっとした。


「そこだけ息が合うのは、どういうことですの」


 ジャンが低く言った。


「君に関する危機では、だいたい一致するんだろうね」


「ジャン」


「今のは無しで」


 オルタンスは立ち上がり、クラリッサの前へ来た。


 母は娘の装いを一通り見た。

 髪飾り、襟元、手袋、扇。それから、最後に顔を見た。


「クラリッサ」


「はい」


「今日は、わからないことを美しい言葉で飾らないこと」


「はい」


「怒った時ほど、言葉を短くすること」


「はい」


「相手を言い負かすことを目的にしないこと」


「……はい」


 オルタンスは少しだけ目を細めた。


「今の返事が一番遅かったわね」


「努力します」


「それでよいわ」


 母はそう言って、娘の肩に手を置いた。


 それは短い仕草だった。すぐに離れた。だが、クラリッサの肩にだけ、少し温度が残った。


「言うべきことまで飲み込む必要はありません」


「はい」


 クラリッサは頷いた。


「行って参ります」


 モルガナが外套を整えた。


「お嬢様」


「何?」


「白薔薇は美しゅうございますが、棘は赤い薔薇にも白い薔薇にもございます」


「気をつけろ、ということ?」


「刺されても、花瓶を投げないでくださいませ、ということです」


「投げません」


「努力ではなく、断言で安心いたしました」


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