第三十二話 白薔薇会からの手紙
ラ・ギーズ家へ戻ると、ベランジェは予想通り、玄関広間で待っていた。
この頃には、彼もだいぶ慣れていた。
娘が出かけ、ジャンが同行し、モルガナが付き、そして夕方に帰ってくる。その時点で、何かがあったことはほぼ確定している。
問題は、何がどの程度壊れたかである。
「クラリッサ」
「お父様」
「今度は、何をした」
「名札を外しましたわ」
ベランジェは、少しだけ安心した顔をした。
「名札を?」
「ええ」
「それだけか」
ジャンが後ろから言った。
「複数の令嬢が同調しました。会の進行は、かなり乱れたと思います」
ベランジェの安心は、一瞬で消えた。
「ジャン君」
「はい」
「なぜ一度安心させてから落とすんだ」
「私は事実を述べただけですが……」
オルタンスが階段を降りてきた。
「何があったのです」
クラリッサは、縁談会で見たものを話した。
名札に名前より大きく持参金や家格が書かれていたこと。
破談歴まで記されていたこと。
番号が振られていたこと。
ヘルミーナ・ド・クラールが、それを「皆が普段していることを見やすくしただけ」と言ったこと。
リゼットとヴィオレーヌが名札を外したこと。
何枚かの名札が、卓に重なったこと。
話し終えると、客間は静かになった。
オルタンスは、扇を開かなかった。
ベランジェも、すぐには何も言えなかった。
やがて、オルタンスが言った。
「ヘルミーナ・ド・クラールらしいわね」
「お母様は、ご存じなの?」
「ええ。若い頃から、よく名前を聞きました。賢く、実務的で、情を飾りには使っても判断には入れない方です」
「嫌な方ですわ」
「嫌な方とは限りません」
オルタンスは静かに言った。
「ただ、社交界の本音を、隠さず扱う方なのでしょう」
「だから、名札にしてよいのですか」
「いいえ」
母の答えは短かった。
クラリッサは少し驚いた。
オルタンスは続ける。
「していることと、見せてよいことは違います。そして、見せられて初めて、自分たちが何をしていたか気づくこともあります」
ベランジェは弱々しく言った。
「しかし、クラール夫人を敵に回すのは……」
「もう半分ほど回しましたわね」
クラリッサが言うと、ベランジェは椅子に沈んだ。
「言わないでくれ」
ジャンが記録を整えながら口を開いた。
「伯爵。今回は、ラ・ギーズ家だけの問題では済まないと思います」
「なぜだ」
「名札を外した令嬢が複数います。あの場にいた者も多い。噂は広がるでしょう。それに、クラール夫人はこのまま黙ってはいないはずです」
「どうするつもりだろう」
モルガナが、静かに答えた。
「お嬢様を、行儀の悪い一人の令嬢として片づけるのが、一番早いかと」
クラリッサは顔を上げた。
「わたくしを?」
「はい」
「行儀が悪いのは少し事実ですけれど」
「少しで済ませるあたりが、お嬢様でございます」
ジャンは真面目な顔で言った。
「これまでの破談も、まとめて問題にされるかもしれない」
ベランジェは青ざめた。
「まとめて?」
「ヴォルブリュック家の指輪。クルシュナ家の椅子。リュザンクール家の詩。ヴラニェク家の手袋。王女殿下の茶会でのリボン。そして今回の名札」
ジャンは一つずつ挙げた。
クラリッサは腕を組んだ。
「並べると、わたくし、ずいぶん活動的ですわね」
ベランジェは頭を抱えた。
「頼むから、そこを誇らないでくれ」
オルタンスは、娘をじっと見た。
「クラリッサ。あなたは、これまで自分のために怒ってきました」
「はい」
「でも今日は、自分だけではなかったのですね」
クラリッサは、すぐに答えられなかった。
最初は自分の名札が嫌だった。
自分の名前より金額が大きいことが嫌だった。
破談歴が書かれていることが腹立たしかった。
でも、リゼットの名札を見た。
ヴィオレーヌの名札を見た。
ほかの令嬢たちの、黙って下を向く顔も見た。
そこで初めて、自分だけの話ではなくなった。
「……そうかもしれませんわ」
クラリッサは言った。
モルガナが少しだけ目を細めた。
「珍しく控えめなお答えでございますね」
「だって、まだよくわかりませんもの」
「その言い方は、悪くございません」
クラリッサは驚いた。
「今、褒めました?」
「少しだけ」
「記憶します」
「そうなさると思いました」
その時、廊下から家令が入ってきた。
ベランジェは、ほとんど反射的に身を固くした。
「また手紙か!!」
「はい、旦那様」
「どこからだ」
家令は、封蝋を見て答えた。
「ベルシュラック侯爵夫人より。マルゼリーヌ・ド・ベルシュラック様でございます」
部屋の空気が、ふっと冷えた。
クラリッサは、その変化を見逃さなかった。
ベランジェの顔色が悪くなった。
オルタンスの指が、扇の上で静かに止まった。
ジャン=バティストも、先ほどまでの疲れた顔を少しだけ引き締めた。
モルガナだけは、いつも通り茶を注いでいたが、その目は封書を見ていた。
「ベルシュラック侯爵夫人?」
クラリッサは首を傾げた。
「怖い方ですの?」
モルガナが答えた。
「怖いというより、逃げ場の少ない方でございます」
「それは怖いと言うのではなくて?」
「お嬢様にも、だいぶ言葉の違いがおわかりになってきましたね」
「今は褒められても嬉しくありませんわ」
ベランジェは震える手で封を切った。
読み進めるうちに、彼の顔は青ざめるというより、白くなっていった。白すぎる手袋より白い。クラリッサはそう思ったが、口には出さなかった。少しは学んでいるのである。
「……クラリッサ」
「はい」
「ベルシュラック侯爵夫人が、明後日、白薔薇会へ出席するようにと」
「白薔薇会?」
クラリッサは繰り返した。
名前だけなら優雅だった。
白薔薇。
茶会。
夫人たち。
菓子と紅茶と、薄い笑み。
けれど、その名を聞いた時の大人たちの顔は、まるで砂糖壺の中に針でも入っていたようだった。
「ただのお茶会ではありませんの?」
ジャンが静かに言った。
「ただのお茶会なら、伯爵はそこまで白くならない」
「ジャン君」
ベランジェは弱々しく言った。
「事実です」
「少しは言い方を」
「クラリッサに慣れました」
「わたくしのせいにしないでくださる?」
オルタンスが手紙を受け取った。
黙って読み、最後まで目を通す。
「……白薔薇会ですか」
その声は静かだった。
だが、静かすぎた。
クラリッサは少し身を乗り出した。
「お母様。白薔薇会とは何ですの」
「ベルシュラック侯爵夫人が主宰なさる、夫人たちの私的な茶会です」
「茶会なら、よろしいではありませんか」
「若い令嬢の社交、縁談、礼法について、年長の夫人たちが助言する場でもあります」
「助言?」
クラリッサは嫌な顔をした。
「わたくし、頼んでおりませんわ」
モルガナが静かに言った。
「頼んでいない助言ほど、よく届くものでございます」
「迷惑な郵便ですわね」
ジャンは、手紙の文面を覗き込むように見た。
「表向きは助言だ。でも白薔薇会で“難しい令嬢”と見なされると、次の季節の招待状が減る。紹介状も減る。縁談の口利きも止まる」
「そんなの、裁判ではありませんか!」
「いちおう裁判ではない」
「なら、行かなくてもよろしいのでは?」
「行かないと、もっと早く扉が閉まる」
クラリッサは眉を寄せた。
「扉?」
「茶会の扉。舞踏会の扉。縁談の扉」
ジャンは淡々と言った。
「社交界では、法律よりそちらの方が困ることもあるものだろう?」
「実にいやな世界ですわね」
「今さら?」
「ジャン」
モルガナが、茶杯をクラリッサの前に置いた。
「お嬢様。白薔薇会は、人を牢に入れたりはいたしません」
「それは安心ですわ」
「ただ、扉の向こうへ置き去りにはできます」
「安心がすぐ逃げましたわ」
ベランジェは、長椅子に沈み込んだ。
「どうしたものか……」
「どうしたものか、ではありません」
オルタンスが言った。
その声に、父もクラリッサも顔を上げた。
「クラリッサは出席します」
「お母様!」
「逃げれば、あなたが悪かったことになります」
「わたくし、悪くありませんわ」
「なら、行ってそう言いなさい」
クラリッサは口を開きかけ、閉じた。
悪くない。
それは本心だった。
けれど、何もしていないわけではない。
指輪を突き返した。
椅子に座らず帰った。
詩人をサロンで追い詰めた。
慈善家の手袋を指摘した。
王女の髪に青いリボンを結んだ。
そして今日は、縁談会で名札を外した。
並べると、多い。
多すぎる。
「……わたくしは、失礼なものを失礼だと言っただけですわ」
クラリッサは小さく言った。
ジャンが答えた。
「それを、そのまま言えばいい」
「そのまま?」
「飾らずに。正義のためだった、と言うと嘘っぽくなる」
「失礼ですわ」
「君は正義の女神というより、気に入らない椅子を蹴る令嬢だからね」
「蹴っておりません!」
「まだね」
モルガナが頷いた。
「未遂でございます」
「モルガナ!」
オルタンスは手紙を畳み、卓の上に置いた。
「マルゼリーヌ夫人は、悪意だけで人を呼びつける方ではありません。けれど、甘い方でもありません」
「つまり?」
クラリッサが聞く。
「あなたの言葉がただの癇癪か、それとも聞くべきものか、見極めるおつもりでしょう」
部屋の中が静かになった。
白薔薇会。
名前は優しい。
だが、そこに呼ばれるということは、白い花の前に座らされ、笑顔の夫人たちから一枚ずつ葉を剥がされるようなものなのだろう。
クラリッサは、少しだけ背筋を伸ばした。
「では、行きますわ」
ベランジェが顔を上げた。
「本当に?」
「ええ。逃げたら、わたくしが悪かったことになるのでしょう」
「そうだが」
「なら、逃げません」
ジャンは彼女を見た。
「珍しく早い決断だ」
「いつも決断は早いですわ」
「だいたい結果も早く燃える」
「ジャン」
「悪かった」
モルガナが静かに言った。
「お嬢様。白薔薇会では、言葉をお選びくださいませ」
「わかっています」
「怒る前に、一度お茶を飲む」
「はい」
「叫ぶ前に、菓子を見る」
「はい」
「相手の椅子を見て、以前の椅子を思い出さない」
「それは難しいですわ」
「では、思い出しても口にしない」
「努力します」
ジャンが小さく言った。
「今の返事が一番不安だ」
クラリッサは、卓の上の手紙を見た。
白薔薇会への招待状。
いや、招待状という顔をした呼び出し状。
紙は美しく、文字は整っている。
だが、そこには名札よりも細い、目に見えない紐が結ばれているようだった。
「ジャン」
「何だい」
「書類を整えておいてくださる?」
「言われると思った」
「頼れる幼なじみですもの」
「便利、から少し昇格したね」
「褒めておりますのよ」
「知っている。だから断りにくい」
オルタンスは扇を静かに開いた。
「クラリッサ」
「はい、お母様」
「今度ばかりは、言葉を選びなさい」
「はい」
「ただし」
オルタンスは、娘をまっすぐ見た。
「言うべきことまで、飲み込む必要はありません」
クラリッサは、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
白薔薇会の手紙は、卓の上に置かれていた。
薄く、美しく、静かな紙だった。
けれどクラリッサには、それが縁談会の名札よりもずっと重く見えた。
王都の夫人たちが、白い薔薇と紅茶の前で、クラリッサ・ド・ラ・ギーズという名をどう扱うかを決めようとしている。




