第三十話 縁談会の名札が失礼ですわ!!!!!
ヘルミーナ・ド・クラールの縁談会は、王都西区の大きな館で開かれていた。
クラール家の館は、重々しくも華やかだった。
正面の階段には赤い絨毯が敷かれ、左右には白い花が飾られている。門をくぐる馬車は多く、招かれた令嬢や令息たちが次々に降りていた。
だが、空気は舞踏会とは少し違う。
舞踏会の華やかさには、まだ無駄がある。
音楽、香り、衣装、笑い声。
たとえ打算が混じっていても、そこには遊びの余地がある。
この縁談会には、その無駄が少なかった。
整いすぎている。
クラリッサは馬車から降りて、すぐにそれを感じた。
「市場ですわね」
ジャンが隣で言った。
「まだ入口だよ」
「入口でわかります」
「君は最近、入口で帰ることが多いからね」
「今日はまだ帰りません」
「まだ、が怖い」
モルガナは、クラリッサのドレスの裾を整えた。
「お嬢様。今日は深い緑のドレスで正解でございましたね」
「なぜ?」
「青いリボンがないので、王女殿下と張り合わずに済みます」
「張り合ってなどおりませんわ!」
「お嬢様は、無意識にも張り合われますので」
「モルガナ」
「はい。黙ります。少しの間だけ」
館に入ると、受付の広間があった。
白い手袋をした係の者たちが、招待客の名前を確認し、それぞれに小さな札を渡している。
札には、絹の紐がついていた。
首から下げるのではなく、胸元に留める形式らしい。
クラリッサは、それを見て眉を寄せた。
「名札?」
ジャンも少し目を細めた。
「珍しいね」
「社交界で、自分の名前を胸に貼らないとわからない人ばかりなのかしら」
「初対面の相手が多い会なら、便利ではあるね」
「便利」
クラリッサは、その言葉を低く繰り返した。
係の者が近づいてきた。
「クラリッサ・ド・ラ・ギーズ様でいらっしゃいますね」
「ええ」
「こちらをおつけくださいませ」
差し出された札を見て、クラリッサは動きを止めた。
名札は美しく作られていた。
上質な厚紙に、金の縁取り。中央には大きく数字と分類が書かれている。
持参金見込み。
家格。
相続関係。
破談歴。
そして、一番下に、やや小さな文字で。
クラリッサ・ド・ラ・ギーズ。
クラリッサは、しばらくそれを見つめた。
「ジャン」
声が低かった。
ジャンは横から札を見た。
彼の表情も変わった。
「これはさすがに……」
クラリッサは、ゆっくり言った。
「わたくしの名前より、金額の方が大きいですわ」
係の者は、事務的に微笑んだ。
「皆さま同じ形式でございます。家格や条件が見やすいようにと、クラール夫人が」
「見やすい」
クラリッサは札を受け取った。
受け取っただけで、胸にはつけない。
「どなたに?」
「はい?」
「どなたに見やすいのです。わたくし自身に? それとも、わたくしを見る方々に?」
係の者は困ったように微笑んだ。
「そちらは、会の進行を円滑にするための」
「円滑」
ジャンが低く言った。
「クラリッサ」
「止めないで」
「止めていない。ここはまだ受付だと言おうと思っただけだ」
「受付で失礼なら、奥ではもっと失礼ですわ」
モルガナが、札を静かに見た。
「お嬢様」
「何?」
「お顔が、たいへん整ってまいりました」
「美しいという意味?」
「いいえ。何かを壊す前のお顔でございます」
「まだ壊しておりません」
「まだ、でございますね」
その時、奥から一人の女性が歩いてきた。
ヘルミーナ・ド・クラールだった。
年齢は四十代半ばほどだろう。
喪服ではないが、黒を基調にした上品なドレスを着ている。
髪は銀に近い淡い金色で、きっちりと結い上げられていた。
顔立ちは柔らかい。だが、その柔らかさは綿ではなく、絹の紐のようだった。細く、滑らかで、そして強い。
「ラ・ギーズ嬢」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「ようこそお越しくださいました」
「お招きありがとうございます、クラール夫人」
クラリッサは礼をした。
礼の形だけは完璧だった。
ヘルミーナは、彼女の手元の札へ目を向けた。
「何か、お気に召さないことが?」
「ええ」
即答だった。
ジャンが目を閉じた。
ヘルミーナは微笑んだまま言った。
「どうぞ、お聞かせください」
「この名札、わたくしの名前より持参金見込みの文字が大きいですわ」
「はい。条件をわかりやすくするためです」
「わかりやすいことは、美徳ですの?」
「多くの場合は」
「人間より金額が大きく見える場合でも?」
周囲にいた数人が、こちらを見た。
ヘルミーナは表情を変えなかった。
「ラ・ギーズ嬢。これは侮辱ではありません。縁談を円滑に進めるための工夫です。家格や財産の釣り合いを知らずに言葉を交わしても、あとで傷つくことが多いものですから」
「先に値段を見せておけば、傷つかないと?」
「値段ではありません。条件です」
「紙の上では便利な言い換えですわね」
ジャンが低く言った。
「クラリッサ、少し抑えてくれよ……」
「抑えていますわ」
「その声で?」
「まだ声だけです」
「それは脅しに聞こえる」
ヘルミーナは、ジャンを見た。
「シャトノワ殿。あなたは王宮記録局の方でしたね」
「はい。ただし今日は王宮の仕事ではありません。ラ・ギーズ家の付き添いです」
「古いご縁がおありとか」
「ええ。古い縁は、時々こうして広間の入口で胃に来ます」
ヘルミーナは少しだけ笑った。
「正直な方ですね」
「クラリッサに比べれば幾分と控えめです」
「ジャン」
「事実じゃないか」
ヘルミーナはクラリッサに向き直った。
「ラ・ギーズ嬢。お気持ちは理解します。けれど、皆さまが普段からなさっていることを、少し見やすくしただけですわ」
クラリッサは黙った。
その一言は、思っていたよりも鋭かった。
ヘルミーナは続ける。
「どの家も、相手の家格を調べます。持参金を気にします。相続順位を見ます。借財の噂を探ります。令嬢の年齢、美貌、評判、破談歴。令息の爵位、収入、家の力。皆さま、裏では同じものをご覧になっている。それを私は、表に出しただけです」
「だから正しいと?」
「正しい、とは申しません」
ヘルミーナは穏やかだった。
「便利です」
クラリッサの目が細くなった。
「また便利」
彼女は名札を指先で持ち上げた。
「この頃、わたくしは便利なものにばかり出会いますわ。前の令嬢の名前を削れば便利な指輪。妻を半歩後ろに置けば便利な椅子。名前を書かなければ便利な詩。貧しい子に触れた後で替えれば便利な手袋。そして今日は、名前より金額を大きく書いた便利な名札」
広間の空気が、静かに変わった。
ジャンは何も言わなかった。
モルガナも黙っていた。
ヘルミーナの微笑みが、ほんのわずか薄くなる。
「ラ・ギーズ嬢。あなたは、物事を劇的になさるのがお上手ですね」
「違いますわ」
クラリッサは言った。
「皆さまが劇的にひどいことを、たいへん事務的になさっているだけです」
その時、奥から声がした。
「ラ・ギーズ様?」
リゼット・ド・フレルモンだった。
彼女も名札を持っていた。胸にはつけていない。指先で、まるで汚れた布でも摘まむように持っている。
その後ろには、ヴィオレーヌ・ド・クルセルもいた。
彼女は胸に名札をつけていたが、顔は面白がっているというより、少し硬い。
「あなたも、嫌だと思いましたの?」
クラリッサが聞くと、リゼットは少し迷ってから頷いた。
「ええ。わたくしの名前より、弟の相続順位の方が大きく書かれていましたわ。わたくし、弟の付属品だったのかしらと思って」
ヴィオレーヌも肩をすくめた。
「わたくしの名札には、噂好き、とは書かれていませんでしたわ。正確性が売りなら、そこも書くべきでしたのに」
軽い言い方だった。
だが、目は笑っていなかった。
クラリッサは二人の名札を見た。
同じだった。
名前は下。
条件は上。
まるで人間が、説明書の末尾につけられた署名のようだった。
「クラール夫人」
クラリッサは言った。
「これは、全員に?」
「ええ。男女ともに」
「男女とも?」
「もちろんです。公平を期すために」
ジャンが静かに言った。
「公平と同じ形をしていることと、公平であることは違います」
ヘルミーナの目が、少しだけジャンへ向いた。
「どういう意味でしょう」
「令息にとって、家格や収入は武器にもなります。けれど令嬢にとって、持参金や相続見込みを胸に貼ることは、自分の値札を下げられることにもなる。形が同じでも、受ける重さが違う」
クラリッサは目を丸くした。
「ジャン」
「何だい」
「今の、わたくしが言いたかったことですわ」
「言う前に少し整えた」
「ずるいですわ。わたくしの言葉より賢そうです」
「実際に少し賢いからね」
「ジャン」
モルガナが言った。
「お嬢様。今は味方を蹴る場面ではございません」
「蹴ってなどおりません」
「目が蹴っておりました」
ヘルミーナは、ゆっくりと息を吐いた。
「皆さま、少し過敏でいらっしゃいますね。この会に参加することで、多くの家が救われます。条件を明確にすることで、無駄な期待も、失望も減ります」
「期待が無駄かどうかを、先に名札で決めるのですか」
リゼットが小さく言った。
彼女自身も、自分の声に驚いたようだった。
ヘルミーナはリゼットを見た。
「フレルモン嬢。あなたの家も、慎重にお相手を選ぶ必要がおありでしょう」
リゼットの顔が赤くなる。
その家にも、事情があるのだろう。
クラリッサは、それを見て腹が立った。
ヘルミーナは何も嘘を言っていない。
たぶん、ほとんど正しい。
正しいからこそ、嫌だった。
「クラール夫人」
クラリッサは名札を掲げた。
「売るなら高く売れ、という話ではありませんわ」
広間が静まった。
「わたくしは、自分の金額が低いとか高いとか、家格の扱いが不満だとか、そういう話をしているのではありません」
「では、何を?」
「なぜ売る前提なのかと申し上げておりますの」
その言葉は、クラリッサにしては珍しく、まっすぐだった。
余計な飾りがない。
だから、よく通った。
ヘルミーナは、しばらくクラリッサを見つめていた。
「あなたは、ずいぶん理想をお持ちなのね」
「いいえ」
クラリッサは即答した。
「わたくしは理想家ではありません。できれば高く扱われたいし、得をしたいし、損はしたくありません。菓子も多い方がよろしいです」
ジャンが小さく言った。
「そこは今言わなくてもいいんじゃないかい?」
「大事ですわ!」
クラリッサは続けた。
「でも、名前より先に金額を見られるのは嫌です。名前より家格を見られるのも嫌です。名前より破談歴を見られるのも嫌です」
彼女は名札を裏返した。
そこには、小さく管理番号が振られていた。
それを見た瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
「番号までありますのね」
クラリッサは笑った。
笑ったが、笑顔ではなかった。
「たいへん便利ですわ。名前が消えても、番号で呼べますもの」
ヘルミーナは、初めて少しだけ声を硬くした。
「必要な整理です」
「整理」
「ええ」
「人を整理するために、名前を小さくなさるの?」
ヘルミーナは答えなかった。
クラリッサは、名札の紐を指で引いた。
ぱちりと、金具が外れた。
そして、名札を受付の卓の上に置いた。
「わたくしは、つけません」
リゼットが息を呑んだ。
ヴィオレーヌは、少し迷った。
そして、胸元の名札を外した。
「わたくしも、今日は外しておきますわ。噂を集めるには便利でしたけれど、自分が札になるのは趣味ではありませんもの」
リゼットも、自分の名札を置いた。
それから、一人、また一人。
すべてではない。
名札をつけたままの令嬢もいた。困ったように見ている令息もいた。親に睨まれて動けない者もいた。
だが、何枚かの名札が、卓の上に重なった。
紙の音は軽かった。
けれど、その場では妙に大きく聞こえた。
ヘルミーナは、静かにその様子を見ていた。
「ラ・ギーズ嬢。あなたは、この会を壊すおつもりですか」
「いいえ」
クラリッサは言った。
「名札を外しただけですわ」
「同じことです」
「では、この会はずいぶん名札に支えられていたのですね」
ジャンが横で小さく言った。
「それは少し上手いね」
「もう一度」
「言わない」
モルガナが、クラリッサの背後に立った。
「お嬢様。そろそろお引き取りを」
「なぜ?」
「勝った顔をなさる前に退く方が、まだ形がよろしゅうございます」
「わたくし、勝ったの?」
「それを言う前に退くのです」
クラリッサは少し不満そうにしたが、今回は従った。
彼女はヘルミーナへ礼をした。
「本日はお招きいただき、ありがとうございました。たいへん勉強になりましたわ」
ヘルミーナも礼を返した。
「こちらこそ。ラ・ギーズ嬢のお考えは、よくわかりました」
その言葉は穏やかだった。
だが、そこには冷たいものがあった。
クラリッサも、それを感じた。
彼女は、社交界が普段やっていることを、ただ紙にして見せた。
だから、厄介だった。
クラリッサは、館を出る直前に振り返った。
受付の卓の上には、外された名札が何枚も重なっていた。
名前より金額の大きな名札。
小さな紙。
小さくて、失礼な紙。
けれど、たぶん今日は、それだけでは済まない。




