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第三話 指輪が小さすぎますわ!!

 婚約披露は、ラ・ギーズ家の広間で行われた。


 窓から入る午前の光は、床の大理石に淡く広がっていた。

 壁際には花が飾られ、銀の燭台は磨かれ、客たちはほどよく上品な笑みを浮かべている。

 人々は、婚約というものが家と家の間に掛けられる橋であることを知っていた。

 橋は美しく飾られる。

 だが、どれほど花を巻きつけても、下には水が流れている。


 クラリッサは母オルタンスの隣に立っていた。


 オルタンス・ド・ラ・ギーズは、娘よりもずっと静かな美しさを持つ人だった。笑みは薄いが、薄い笑みだけで人を黙らせる力がある。


「クラリッサ」


 母は扇で口元を隠したまま言った。


「今日は、余計なことを言わないように」


「皆さまが余計なことをなさらなければ、わたくしも言いませんわ」


「余計かどうかを決めるのは、あなたではありません」


「では、どなたが?」


「私です」


 短い答えだった。


 クラリッサは黙った。


 そこへ、シリル・ド・ヴォルブリュックが現れた。


 たしかに美しい青年だった。

 淡い金髪は肩口で整えられ、青い目は春の空のように明るい。

 礼服は上品で、指先の動きまで整っている。

 彼が一礼すると、周囲の夫人たちが小さく息を呑んだ。


 クラリッサだけが、眉を寄せた。


 笑顔が、やはり気に入らなかった。


 欠けたところがない。

 柔らかすぎず、固すぎず、相手に不快を与えないためだけに作られた笑みだった。

 綺麗なのに、そこに何もない。

 花瓶に活けられた花ではなく、花の絵が描かれた皿を見ているようだった。


「クラリッサ嬢」


 シリルは優雅に手を取った。


「本日は、このような晴れの日を迎えられましたこと、心より嬉しく思います」


「ええ」


 クラリッサは、母の目を横から感じながら、辛うじて微笑んだ。


「わたくしも、心より、ほどほどに、嬉しく思っておりますわ」


 オルタンスの扇が微かに鳴った。


 シリルは気にしなかった。

 気にしないのが礼儀なのか、気づいていないのか、クラリッサにはわからなかった。


 やがて、婚約の印として指輪が運ばれてきた。


 小さな銀の盆の上に、細い金の指輪が載っている。

 中央には薄紅の石が一つ。

 派手すぎず、慎ましすぎず、婚約披露にふさわしい品だった。


 ただ、クラリッサはそれを見た瞬間、胸の中に小さな棘が立つのを感じた。


 理由はわからない。


 石が小さいからではない。

 金が薄いからでもない。

 むしろ指輪は美しい。

 美しいが、その美しさにはどこか、使い込まれた箱の蓋を閉じ直したような気配があった。


 シリルは微笑んだ。


「どうぞ」


 クラリッサは手袋を外し、左手を差し出した。


 シリルの指が、彼女の薬指に指輪を通す。


 そこで止まった。


 ほんの少し。


 指輪は、第二関節の下で引っかかった。


 広間の空気が、目に見えない糸のように張った。


 シリルの笑みが、わずかに深くなった。


「失礼。少しだけ、指が――」


 クラリッサは、すばやく手を引いた。


 母の扇が止まった。


 父の息も止まった。


 モルガナだけが、壁際で目を細めた。


「少しだけ、何ですの?」


 クラリッサの声は、よく通った。


 通らなくてもいい時ほど、よく通る声だった。


 シリルは一瞬、返答に迷った。


「いえ、指輪の寸法が、ほんのわずかに」


「ほんのわずかに、わたくしに合わないと?」


「調整すれば問題ありません」


「問題がないなら、なぜ今、入らなかったのです」


 客たちの視線が集まる。


 ベランジェは一歩前に出ようとしたが、オルタンスが扇で制した。

 母は怒っていた。

 だが同時に、娘が何に引っかかったのかを見極めようとしていた。


 クラリッサは指輪を銀の盆からつまみ上げた。


 そして、光に透かすようにして内側を見た。


 そこに、かすかな傷があった。


 文字を削った跡である。


 完全には消えていない。

 細い線の端が残っている。

 誰かの名前の頭文字。少なくとも、クラリッサのものではない。


 クラリッサの目が、大きく開いた。


「モルガナ」


「はい、お嬢様」


「これ、わたくしのための指輪ではありませんわね」


 広間がざわめいた。


 シリルの笑顔が、初めて少しだけ崩れた。


「クラリッサ嬢、それは誤解です」


「誤解なら説明なさいませ。この削り跡は何ですの?」


「古い職人の印かもしれません」


「職人は婚約指輪の内側に、女の頭文字を刻みますの?」


 シリルは沈黙した。


 その沈黙は、言葉よりもずっと丁寧に答えを差し出した。


 控えの間から、ジャン=バティストが広間へ出てきた。


 彼は騒ぎを聞きつけたらしい。

 手には契約書の控えを持ったままだった。

 顔には、できれば何も聞かなかったことにしたい、という気持ちがよく出ていた。


「間に合わなかったか」


 クラリッサは彼を見るなり、指輪を掲げた。


「ジャン!」


「その呼び方をする時点で、僕に面倒が降ってくることはわかった」


「助けなさい」


「何から」


「この不当な指輪からですわ」


 ジャンは諦めたように近づいてきた。


 彼はクラリッサの手から指輪を受け取り、内側を見た。


 目が少しだけ細くなる。


「削り跡があるね」


「でしょう?」


「前の刻印を消したように見える」


「聞きましたか、皆さま!」


 クラリッサは勝ち誇ったように胸を張った。


 ジャンは顔を上げた。


「ただし、君の勝利宣言はまだ早い。僕は見えると言っただけで、断定したわけじゃない」


「幼なじみでしょう。そこはわたくしの味方をなさい」


「幼なじみだからこそ、君の言葉をそのまま信じる危険をよく知っている」


 モルガナが静かにうなずいた。


「賢明でございます、ジャン様」


「モルガナさんにそう言われると、なぜか疲れが増える」


「まだ増える余地がございましたか」


「あるらしい。君たちのおかげでね」


 ジャンはシリルに向き直った。


「ヴォルブリュック殿。この指輪の来歴を確認したい。購入証明か、職人の控えはありますか」


 シリルは唇を結んだ。


「今、この場でそこまでする必要がありますか」


「婚約披露の場で、別人の刻印が削られた指輪が出てきたなら、必要はあると思います」


 ジャンの声は穏やかだった。

 怒ってはいない。責め立ててもいない。

 ただ、逃げ道を一つずつ塞ぐような静けさがあった。


「これは、以前用意した品を調整したものです」


 シリルはとうとう言った。


「だが、貴族家では珍しいことではない。宝石や指輪は家の財産だ。相手が変われば、刻印を直して用いることもある」


 その理屈は、ある意味では正しかった。


 貴族家では、宝石は個人のものではなく家のものとされることが多い。

 代々受け継がれる指輪も、首飾りも、ティアラもある。

 愛の印という顔をしていても、その裏には家の計算がある。


 だが、クラリッサは首を横に振った。


「家の宝石なら、そう言えばよかったのですわ」


 彼女は指輪を見た。


「けれどあなたは、これをわたくしのために用意したような顔で差し出しました。前の方の名前を削って。わたくしの名前を入れる前に」


 シリルは何も言わない。


「あなたにとって、指輪は同じでよろしいのでしょう。女も同じなのでしょう。名前だけ削って、次の指にはめればよいのでしょう」


「言いすぎです」


「いいえ、足りませんわ!」


 クラリッサは指輪を銀の盆に戻した。


 小さな音がした。


「わたくしの指を、どなたか別の令嬢の残り物に合わせるおつもりでしたの?」


 誰かが息を呑んだ。


 シリルの顔が白くなる。


 クラリッサは、ほんの少し震えていた。怒りのせいか、恥のせいか、自分でもわからなかった。


 この指輪は、誰かのものだった。


 誰かの指にはめられ、誰かの名を持ち、そしてその名を削られて、自分の前に置かれた。


 まるで、女の名前など削れば済むと言わんばかりに。


「わたくしの指は」


 クラリッサは静かに言った。


 それがかえって広間を静めた。


「わたくし専用です!!」


 誰かが吹き出しかけた。すぐに口を押さえた。


 たしかに、言い方は馬鹿馬鹿しい。だが、誰も完全には笑えなかった。


 ジャンは、その言葉を聞いて、わずかに目を伏せた。


 モルガナだけが平然と言った。


「言葉選びはともかく、意味は通っております」


「ともかくとは何ですの」


「ともかくでございます」


 オルタンスが前へ出た。


 その顔には母としての怒りと、伯爵夫人としての冷静さが同居していた。


「ヴォルブリュック殿。今日のところは、披露を取りやめます。正式な話し合いは、後日あらためて」


「奥方様、それは」


「後日あらためて」


 それ以上、シリルは言えなかった。


 婚約披露は、花も菓子も音楽も残したまま、妙な形で終わった。

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